第二十五景【パン】裏
憧れと目標。
ショッピングモールを出て、近くにあるパン屋へと歩いていく途中。麦は隣を歩く連をちらりと見やる。
言い出したのは自分ではあるが、まさかパンフェアに連と来ることになるとは思わなかった。
お目当てだったチェリーデニッシュはまた次の休みにでも買いに来ようと思っていたのだが、結局連が買ってくれて。そのほかにも気になって見ていたものはことごとくバレて、参考にするからと次々に買われていく始末。
そんなにわかりやすく見てしまっていたのだろうかと、少々恥ずかしい。
そんなことを考えていると、ふと自分がいつもの調子で歩けていることに気付いた。男性である連には少し遅いペースだろうから、おそらく歩調を落としてくれているのだろう。
店にいる時といい、今日といい。本当に気遣いに長けているのだと改めて思う。
何気ない様子でも、きちんと周りのことを把握している連。まだまだ敵いそうにないかと内心嘆息した。
連を案内したのは、パン特集の地域誌で知った店。デニッシュなどのスイーツ系のパンが美味しくて、ショッピングモールに来た時には寄って帰るようになった。
「いつもどんなの買うの?」
店内を見ていた連にそう聞かれ、お気に入りのキャラメルアップルのデニッシュを指差す。
「つい毎回買っちゃいます」
「そっか」
一言返し、トングでそのパンを取る連。
「店長! だから自分で…」
買いますから、と言いかけて、周りの視線に気付く。
「紛らわしいから店の中ではやめとこうか」
苦笑する連にすみませんと謝る一方で、そうなるとどうとも呼べないことに気がついた。
家族経営の丸川ベーカリー。店には連とその両親がいる。麦が来た時には既に店長は連だったので、連を店長、父親と母親は正治さん千春さんと下の名で呼んでいる。昔から働いているパートさんは連のことも名で呼ぶが、自分はずっと店長と呼んできたので今更名で呼ぶのは気恥ずかしい。
なんとかその場は名を呼ばずに切り抜け、店を出た。
ほっとしているところへ何やら視線を感じた。こちらを見ていた連にここが好きかと聞かれたので、デニッシュ生地が美味しいのだと答えた。
パイ生地を思わせるような軽く歯触りのいいデニッシュと、中はふんわりのクロワッサン。ヴィエノワズリーと呼ばれるそれらが本当に美味しく、すっかりお気に入りの店になった。
折込生地は扱いが難しく手間もかかるので、丸川ベーカリーでは作っていない。業務用の冷凍生地もあるが、それよりは手作りの生地を、ということだそうだ。
だからいつか、丸川ベーカリーらしいヴィエノワズリーを作ることができたら。
まだ誰にも言えない、そんな目標が麦にはあった。
もちろん連にも話していないというのに―――。
「…働き甲斐、ありそうだよね…」
まさか見透かされていたのかと心底驚いてから、含みなどなさそうな連の表情に偶然かとほっとする。
今はまだ夢物語。それを語るつもりはない。
だから今は。
「うちも頑張りましょうね!」
まずは新作だと思う気持ちは伝わったのか、連もそうだなと返してくれた。
「じゃあ、二階で試食会といきますか」
「楽しみです!」
買ったパンを思い浮かべながら、麦は少しだけ歩を早めた。
店舗の二階には二部屋あり、従業員の休憩室と女性用更衣室として使っている。今働いている男性は正治と連だけなので、ふたりは店の裏手の自宅からコックコートのまま出勤していた。
まな板とパン切り包丁を借りて二階に上がり、休憩室で買ってきたパンを広げる。
「休みなのに仕事みたいになってごめんね」
帰りに買った水のペットボトルを手渡しながら謝る連。
「出勤扱いにするから、明日代わりに―――」
「好きでやってるので気にしないでください」
連の言葉を遮って、麦は水を受け取った。
「私だってここの社員なんですから。それに、新作もパンフェアも私が言い出したことですよ」
言い切ると、なんだか呆けて見返していた連がふっと力を抜いたように表情を緩める。
「ありがとう」
静かな声はふたりきりの部屋に妙に響き。すぐに返事ができないまま、麦も連を見た。
いつも飄々とした連にしては珍しい顔だと思ってから、当然かと納得する。
全商品の全工程を組み合わせ、イレギュラーな出来事があればその都度組み直しながら一日中店の舵を取っているのだ。顔に出ないだけで、張り詰めていないわけがない。
そういえば私服姿を見たのも数えるほどかと今更思いながら、麦は連から視線を外して鞄からメモとペンを出した。
「お腹も空きましたし。早速やりましょう!」
店の舵取りは無理だが、これなら自分にも手伝うことができる。
そんな気持ちからか、少し大きくなった声に。いつの間にか普段の表情に戻っていた連が、少し笑って頷いた。
「確かに、お昼だいぶ過ぎちゃったからね」
まずは目的の惣菜系のパンの試食を始めた。
それぞれ内容と感想を書きながら、ひとつずつ食べていく。お互いに思ったことを話し合えることで、漠然とした感覚が言葉になったり、自分では気付かなかった点を聞けたりと、なかなか順調に試食を終えた。
「まだ食べられるなら甘いの切ろうか?」
「あ、はい」
ひと通り食べ終えたところで尋ねられて頷くと、ちょっと待ってて、と言い残し連は出ていった。待つこと数分、皿と紅茶のペットボトルを手に戻ってくる。
「家にあったやつだけど」
「あ、ありがとうございます」
「休憩に甘いの食べながら、ちょっと練るかな」
もうちょっとつきあってね、と連は笑った。
「まぁ買ったのが偏ってたのかもしれないけど、ケチャップじゃなくてトマトソースなんだよね」
買ったデニッシュを半分に切り、ひとつはさらに半分に、残りは袋に戻しながらの連の言葉に。
「そうですね。下に敷くのはトマトソースで、トッピングとしてかけるならケチャップ、って感じですかね」
メモを見ながら答えると、そうだよな、と返ってくる。
「チーズとは間違いなくトマトソースの方が相性いいし」
「でもピザパンとの差が出ないんですよね」
ピザパンにはピザソースではなくトマトソースを使っている。具で変化をつけるにしても大差ない。
「それを言うならホワイトソースも、グラタンとどう差をつけるかになるよね」
五つのデニッシュが四分の一ずつ載った皿を麦へと渡しながら連が継いだ。
「見た目と言葉だけ変えたって、味が一緒なら意味ないし」
「ベシャメルソースでしたっけ」
チキンとほうれん草のグラタンパンは完全に具をソースと混ぜているが、これを別々に載せたとしてもさほど味は変わらない。
「ま、ちょっと食べるか」
自分の手元にも同様の皿を置き、連が息をついた。
食べ出した連を見てから、麦もデニッシュを手に取る。
チェリーデニッシュは底にカスタードが敷かれ、アメリカンチェリーのコンポートが載せられていた。サクッと軽い食感にまずはバターの香り、次いでカスタードの甘さを感じる。チェリーを噛むとさっぱりとした甘みとともに香りが立つ。
解けて絡むようなデニッシュには、パイとは違う柔らかさと甘さがあった。
「塩味のばっかり食べてたから。美味いな」
しみじみ呟く連に、麦も笑う。
「最近は生地の甘さを控えたものも多いですからね。塩パンとかもそうですし」
「あ〜、あれ流行ったよなぁ」
何気なく会話をしてから、はた、とふたりで見つめ合う。
「……ないですよね?」
神妙な顔で問う麦に、同じく真剣な連が頷く。
「あり、かもしれないな……」
ピザパンもグラタンパンも、生地はそれなりに甘みも感じる。
もちろん砂糖には発酵を助ける効果があるが、なければ膨らまないというわけでもない。
「じゃあ配合から考えないと…」
視線を落として考え出す連。
声をかけようとして、その真剣な表情に結局はやめて。
麦は静かにふたつめのデニッシュを口にした。
「ありがとう。この方向で考えてみるよ」
帰り際、一緒に外まで来た連がそう言いながら袋を差し出した。
「半分で悪いけど」
袋の中身は麦の選んだデニッシュの残り。
「でもこれ…」
試食として買ったのではないのかと言おうとすると、先にいいからと被せられる。
連は微笑んではいるが引く様子もなく、麦は素直に袋を受け取った。
どこかほっとしたように、連の緊張が緩む。
「ホント助かったよ。これからも頼りにしてる」
店では見せないその緩みに。
敵わないまでも、少しは助けにはなっていたのだろうかと。そう思う。
ぎゅっと、袋を持つ手に力を込める。
「任せてください」
「大きく出たな?」
明るく笑う連を見上げながら。
そう思えることを、どこか嬉しく感じていた。
やっと【パン】を書けました。
一時期はパン屋を何軒もハシゴしたりもしましたが。最近はあまり買わなくなりました。食べきれないし…。
バターも卵も小麦粉も。高くなりましたものね。パン屋さん、大変だと思います…。
クリームパンとクロワッサンが美味しいところは何食べても美味しいと思うのですが、例によって残念な味覚しかないので、食べても冷凍生地かどうかの区別はつかないのですよね。でも冷凍生地は温度管理をきっちりしたところで作られているので、美味しいと思います。
クイニーアマンもフルーツデニッシュもおいしいですけど、ブリオッシュも好きなのです。カロリー? 何の話でしょう?




