第二十五景【パン】表
見合う場所。
麺台の上に伸ばした生地を置いたまま、連は考え込んでいた。同じく置かれた小さなタッパーの中には、自宅から持ってきた惣菜が入っている。
おかず系のパンを増やしたらどうかと言われてから細々と試作を続けているのだが、どうにもこれだと思えるものができずにいた。
「生地、乾きますよ」
隣で食パン生地を成形して型に入れていた麦の声に、連は苦笑する。
言い出した麦ももちろん協力してくれているのだが、なかなか決まらず。いい加減呆れられているか、もしくは―――。
「今日は何待ってきたんですか?」
少し含みのある声に、やはり面白がられているのではないかと思いつつ。
「……チリコンカン」
「どこからそんな選択肢が出てきたんですか?」
「昨日の夕飯…」
「珍しいものが出るんですね」
少々笑いを堪えるような声音に半眼で見るが、麦は気にした様子もない。
「いい加減夕食メニューから考えるのやめません?」
尤もな意見だと、わかっているのだが。
「ネタ切れなんだって…」
溜息混じりに呟くと、頑張ってくださいねと軽く返された。
家族で営む丸川ベーカリーに、物好きにも就職してくれた麦。人柄も、働き振りも申し分なく。むしろこんな小さな町のパン屋にはもったいないのではないかと連は思う。
自分と並ぶ時にはなぜか少々不貞腐れた顔をしていることもあるが、いつも朗らかで客からもほかの従業員からも評判がいい。言われたことをするだけでなく自分で考えて動くことができ、仕事も丁寧で早い。
楽しいだけではない仕事。それでも麦はいつも嬉しそうに見えて。そんな彼女とこうして一緒に働けることを喜ぶ自分が確かにいる。
こちらが口を出さずとも、安心して仕事を任せられる相手。
そう思っている割につい先回りしたくなるのは、どこかで店長として必要とされたいと思っているからなのかもしれない。
結局その日も思うようなパンはできず、試食した麦にも微妙な顔をされた。
「もうちょっと万人受けするものになりません?」
「って言われてもなぁ…」
オーソドックスな、それこそウインナーやベーコン、ツナマヨや卵のパンは既にある。となるとどうしても、一風変わったものになるのではないか。
「それに。仕入れのことも考えてます? まさか毎日作って持ってくるわけにはいかないですよね?」
「原料は店で仕入れて、家で作って。一週間分くらいは冷凍しといて対応できると思うけど」
「作るの誰なんですか?」
母親の負担が増えるだろうと暗に言われ、連は黙り込む。
「今仕入れてるものでできるのが一番なんですけど…」
「それじゃ変わり映えしないから」
「変わったのでなくてもいいと思うんですけど」
新作がなかなか纏まらないのは、麦の容赦ないダメ出しのせいもあるはずだと思いながらも。こうして意見を言い合えるのは、正直楽しくもあった。
「明日休みだし、またじっくり考えてくるよ」
今まで作ったものとその感想は書き残してある。それを見直してみるのもいいだろう。
そんなことを考えていると、麦が妙にじっと自分を見ていることに気付いた。
「そういえば、店長もおやすみでしたね」
「…そう、だけど……」
騒ぎ始める鼓動に気を取られながら返すと、麦はそれなら、と微笑む。
「市場調査、行きませんか?」
翌日十時の待ち合わせは最寄り駅、目的地は五駅離れたショッピングモールだった。
「ちょうどパンフェアやってて。来ようと思ってたんですよ」
そう言う麦は当たり前だが私服で。歩き回ること前提なのだろう、黒のパンツスタイルにベージュのカーディガン、至ってラフな格好だった。
もちろん麦の私服姿は出退勤時に目にするが、こうして並んで歩くことなどなく。麺台では腕が当たる距離でも気にならないのにと、妙にそわそわする己に連は内心苦笑する。
到着したショッピングモールではフェアと銘打っているだけあり、イベントスペースにずらりと店が並んでいた。普段は買いに行けないような離れた地域のパン屋も出店しており、ふたりはフェアのチラシを片手に順番に見て回る。
昔から作り続けられているもの、こだわりのある定番、一風変わったもの―――。スマホで写真は撮りづらいので、店名や商品内容をこっそりメモ書きしながら買っていく。
そのうちに麦の視線が惣菜系のパンからスイーツ系へと移っていくことに気付いた連。そういえば時々買って帰るパンも甘いパンの方が多い。
来ようと思っていたと麦は言っていた。おそらく目当ては甘い方なのに、自分に合わせてそちらを買わないままなのだろう。
邪魔をしたかと申し訳なく思う一方で、店のことを考えてくれているのだと嬉しくなった。
「せっかくだし、甘い系でも気になったのあれば言って」
「えっ」
素っ頓狂な声を上げてから、なんとなく恥ずかしそうな顔をする麦。気付かれていないと思っていたのだろうなと、普段は見ないその顔を微笑ましく思う。
「どれ?」
「あの、店長、私自分で…」
「俺にも味見させてもらえればいいよ。参考にはなるだろうしね」
視線の先にあったデニッシュパンのひとつを指してこれかと聞くと、小さな声で隣と返ってきた。
ショッピングモール内のパン屋も見終わってから、麦が知る近くのパン屋にも行ってみることにした。
「熱田さん、詳しいね」
地図も見ずに歩く麦にそう言うと、そうでもないですけどと麦は笑う。
「働き出してから、ほかのパン屋さんも気になるようになって。見かけるとつい入りたくなります」
そんなものなのかと思いながらついていくと、現れたのはカフェと見紛いそうになるくらいシックな外観の店だった。
ダークブラウンを基調にした落ち着いた雰囲気の店内には、同系色の大きなテーブルにシルバートレイに載った色味に溢れたパンが並べられている。全体的にスイーツ系は小振り、惣菜系はトマトソースやホワイトソースなどを使ったものが多く、並ぶ茶色に彩りを加えていた。入口横は開放的な一枚窓、壁面にはテーブルより少し高い位置に一段だけ棚があり、そこにはメロンパンなどのオーソドックスなものと、食事系のシンプルなパン。冷ケースのサンドイッチはフルーツサンドやカスクートと種類も多い。
若い子向けかと思ったが、客層は広いようで。年配の女性やスーツ姿の男性もいる。
圧倒されながらパンを買って店を出た連は、今一度その佇まいを振り返った。
いかにも都会の洗練された店構え。
壁面四段の棚に、プラスチックのトレイに載った茶色いパンがいっぱいに並ぶ。そんなどこからどう見ても町のパン屋の『丸川ベーカリー』よりも、麦にはこういった店の方が似合っている。
麦も本当はこういう店で働きたいのではないだろうか―――。
ふと浮かんだ言葉に思った以上のショックを受けると同時に、そんな自分にも驚いて。
思わず麦へと視線をやると、どうしたのかと首を傾げられた。
「…ここ、好きなんだ?」
どうにか絞り出した声に、麦は屈託なく笑う。
「はい! デニッシュ生地、サクサクで美味しいんですよ」
「…働き甲斐、ありそうだよね…」
嬉しそうなその声に胸を締めつけられながらも、そうとしか言えなかった。
「そうですね。難しそうですけど、作ってみたいものがたくさんあります」
明るく希望に満ちるような麦の様子を見ていられずに視線を逸らしかけた、その時。
「だから。うちも頑張りましょうね!」
そのままの様子で続けられた言葉に、連は動きを止めて。
変わらず嬉しそうな麦を凝視しながら、先程の言葉を反芻する。
もちろん深い意味などないことはわかっている。
麦は社員として頑張ろうと言っているだけだとわかっている。
しかし、それでも―――。
「そう、だな…」
緩む頬を気取られないように、結局は視線を逸らして。
「じゃあ、二階で試食会といきますか」
「楽しみです!」
ごまかすようにかけた声に、とびきり嬉しそうな声が返ってきた。




