第二十三景【本】裏
憧れを繋ぐもの。
二学期に入って暫く。今日は顧問の都合で部活のない彰良は、放課後になるとのんびりと教室を出た。
毎日下校時刻ギリギリまで文化祭に向けての作品に取り組んでいるので、帰りにあまり寄り道もできなかったが。今日この機会に学校近くのショッピングセンターに寄り、本を見ようと思っていた。
自転車を駐輪場に停め、いつもより多い見慣れた制服を横目で見ながら三階の本屋へと向かう。
まずはと芸術書のコーナーに行くが、夏休み中に来た時から画集は増えておらず。代わりにまた写真集に手を伸ばした。
新しく出ていた海の写真集を見ながら、描きかけの己の作品を思い出す。
入学してすぐに出逢った、三年生の木津鳴海の描いた夕景の海。
あんな絵が描けたらと思い、自身も海を描くことにしたのだが。
お盆明けから二度行った海は、まだ人も多く。数枚スケッチをして、写真も撮ってはきたのだが、やはりイメージと違っていて。
時刻だけ夕刻に合わせてみても、鳴海の絵のような寒々しさは微塵もなく。夏の活力に満ちたオレンジ色の砂浜が広がるだけだった。
尤も、冬に行ってみたとしても、鳴海のような透き通る絵が描けるとは思えず。作業時間も考え、結局はその時見た夏の終わりの海を描いている。
まだ途中、満足のいく出来になるかはわからないが、今の自分の精一杯で取り組むつもりだ。
ぼんやりと何冊か写真集を見てから店内を歩いていると、見覚えある女生徒を見つけた。
文庫本のコーナーの一画で、少しぼんやりとした様子で立っているクラスメイト。うしろからだと驚かせるかと思いながら、少し離れた位置から声をかける。
「相田さん」
振り返った結菜の表情に、やはり驚かせたかと申し訳なく思いながら、大きな声を出さずに話せる距離まで詰めた。
「白石くん、自転車だよね?」
そう聞かれたのは、下校時に会うのは初めてだからだろう。部活がなかったからと説明すると、納得したような顔をされた。
結菜はなんの部活に入っていたかと考えている途中で、彼女が持っている文庫本に気付く。
見知ったタイトルの、見知らぬ表紙。そう言えば新刊が出ると姉が騒いでいたことを思い出した。
「相田さんはそれ買いに来たの?」
ロングセラーの冒険小説は、彰良もずっと読み続けているものだった。
なぜかまた驚いた顔をする結菜に、彰良は驚かせてばかりだなと笑う。
「それ、俺も読んでる」
「えっ?」
とうとう声まで上げた結菜が、慌てて自分の口を押さえた。図書館ほどではないが、本屋もあまり騒ぐ人はいない。
「ごめんなさい」
びくびくしているというのか、なんだかこちらの顔色を窺ってばかりの結菜。教室で見るより落ち着きのない様子を怪訝に思いながら、大丈夫だからと宥めた。
姉が集めていること。借りて読んでいるので、新刊は姉が読んでからしか読めないこと。
結菜の持つ本を示してそんなことを話すと、ようやく表情が緩んでいくのがわかった。
あまり輪の中心に入る子でもないので、男子生徒とふたりで話すことになってしまって緊張していたのかと思う。
声をかけてしまって悪かったかなと思っていると、ふっと結菜が微笑んだ。
「…小さい頃から、好きな小説なの」
どこか幸せそうなその微笑みに一瞬見入ってしまいながら。
不意に浮かんだ思いを掴む前に、我に返って頬を赤らめる結菜の姿に自然と気持ちが和らいでいく。
緊張していたのは自分も同じらしい。
「俺も」
そう返すと、結菜はまた嬉しそうに微笑んだ。
「ほかはどんなの読んでるの?」
そう聞くと、結菜は本当に幸せそうに次々とタイトルをあげてくる。
本当に本が好きなんだなと思ってから、ふと思い出した。
「…相田さんって、文芸部じゃなかったよね?」
「違う、けど…」
怪訝そうに返す結菜に、やっぱりそうかと内心呟く。
もし結菜が文芸部なら、自分はもっと以前に話を聞いているはずだろう。
自分の憧れの絵。鳴海が描いたあの赤い海。
それを彷彿させる作品が、文芸部の配っていた本に載っていた。
作者は鳴海と同じく『N』―――。
偶然にしては出来過ぎた一致に、これも鳴海が書いたのではないかと聞いたことがある。
結菜に本のことを聞いてみると、知っているどころかさらりとタイトルまで口にされた。
海の話としか伝えていないのにと驚いていると、結菜はまるで大事なものを見るように、柔らかく瞳を細める。
「私…あの話、すごく好きで…」
幸せそうなその顔は、自分にも覚えがあった。
自分が鳴海の絵に惹かれるように。
結菜はその物語に惹かれているのだと。
結菜は文芸部ではないと言うが、その様子はどう見ても―――。
「…絵って…?」
結菜の問いに我に返り、改めて見やる。
その顔に先程までの夢見るような笑みはなく、教室で見るよりは少し人懐っこい興味の眼差しがあった。
なぜか逸らしそうになってから思い留まる。
「美術部の展示にあったんだけど、覚えてないよね」
そう答えてから、鳴海に頼んで写真を撮らせてもらっていたことを思い出した。
「ちょっと待って」
逸らすのではなく鞄へと視線を移し、取り出したデジカメの画面に表示して渡す。
無言でじっと見つめる結菜。うつむく頬にかかる髪と食い入るように見るその瞳を凝視してしまっていたことに気付き、彰良は今度こそ視線を逸らした。
名を呼ばれて我に返ると、結菜が目を見開いてこちらを見ていた。
「これ描いた人って…」
やはり結菜もそこに引っかかるかと思いながら、三年の先輩と答える。
「相田さんが文芸部なら、あの話を書いた人のこと知ってるかなって思って」
「…ごめんね」
デジカメを返しながら謝ってくる結菜。
「どうして相田さんが謝るの」
笑いながらデジカメを受け取り鞄にしまう。
本が好きなだけでなく、文芸部にも興味を持っていそうな結菜。しかし―――。
「文芸部、入らなかったんだ?」
気になって尋ねると、結菜は明らかに動揺した。
「…私には無理だよ……」
とても小さな結菜の声。
本を読むのが好きならいいという文芸部、それを無理だと思うのは。
縮こまるような目の前の結菜に、今までのどこか怯えたような態度の理由がやっとわかった。
「…相田さんも書くんだ?」
どう言えばいいか迷って選んだ言葉であったが、それでも結菜はびくりと身をすくめる。
問い詰めるつもりではないのだとわかってほしくて。じっと見つめるうちに、結菜も少しずつ落ち着きを取り戻したようだった。
気持ちを緩めるように吐息をつき、今度はまっすぐに見返してくる。
「どうして…?」
その声が怒りも悲しみも含まないことにほっとしながら、驚かせたことを謝り、読むだけという感じには思えなかったと答えた。
慌てて謝り返してくる結菜とふと視線が合い。どちらからともなく、互いに謝るその状況を笑い合った。
気付けばそれなりに長話をしていたことに気付き、彰良は取り繕うように息をついた。
「邪魔してごめんね」
「ううん。話せて楽しかった」
すぐに返された言葉が、じんわりと胸に沁み込む。
微笑みこちらを見る結菜は、今までよりも少し近く、等身大に見えた。
―――おそらく、結菜も。
表現法は違っても、きっと創り出すことが好きなのだろう。
憧れるものを目指し、足りない自分に落ち込んで。自分には無理だと言いながら、それでも創らずにはいられないのだろう。
それこそ、自分と同じように―――。
立ち去りかけた足を止め、彰良はぎゅっと手を握りしめた。
「お節介だと思うけど…。見られる怖さはよくわかるよ。俺だってまだ全然だから」
驚き自分を見る結菜に、偉そうにこんなことを言えば嫌がられるかもしれないなと、少し思った。
「でも、見てもらえる嬉しさも知ってるから。頑張ろうって思えるんだ」
しかしそれでも、どうしても伝えたいことがあった。
「…相田さんは、その人に見てもらいたいって思わないの?」
文芸部の『N』も鳴海かと思って尋ねると、そんな文才はないよと返された。
鳴海は誰とも言わなかったが、おそらく誰かは知っていて。
それはつまり、文芸部の『N』も三年生である可能性が高いということ。
どこか呆然と自分を見る結菜。
嫌われなければいいのにと片隅で思いながら、それでも続ける。
「…三年生だったら、文化祭が終わったら引退だよ」
自分は『N』が鳴海だと知れてよかったと思っている。
結菜がどう思うかはわからない。
だが確実に、タイムリミットは迫っているのだ。
反応がないままの結菜に少し不安を覚えながらも、後ろ髪を引かれる思いでそれじゃあと告げる。
どうしてこんなに不安になるのかと。
立ち去りながら思い当たった彰良は、ただ苦笑するしかなかった。
【本】です!
こうしてここで読むことが増えても、やっぱり紙の本が大好きです。
置き場所ないので。気儘には買えませんが。
それでもやっぱり、紙の本が好きなのですよ。
パラパラめくったり。
掃除の途中に手を出したり。
寝ようと思ったのに開いたり。
途中から飛ばし読みしたり。
……小池は駄目なヤツなのです……。




