第十九景【辞書】表

　金曜日の二時間目が終わった休み時間。朔(さく)は出していた数学の教科書を片付けて立ち上がった。

　教室を出て向かったのは隣のクラス。換気のために開けっ放しのうしろの扉から中へと入る。

「朔じゃねーか」

「また忘れたの？」

　普通科は二クラスしかないので、隣のクラスと言っても知った顔しかおらず。突然入ってきた朔を皆あまり気にしない。

「そーそー。ってわけで」

　一番うしろの窓際から二番目。少し呆れたような顔で自分を見ている女生徒の席の横で、朔は立ち止まった。

「辞書、貸してくれる？」

　女生徒に驚いた様子はなく、どちらかというと仕方なさそうに、横にかけていた鞄を机の上に出した。

「本山(もとやま)くん、持ってくる気ないよね」

　中から出した国語辞典を手渡しながらそう言ってくる女生徒に、そんなことないって、と朔は笑う。

「俺バカだから忘れちゃうんだって」

「成績いいくせに何言ってるの」

「そんなことないけど」

　国語辞典を受け取った朔は、じゃあ、と手を挙げた。

「ありがと、疋田(ひきた)さん。次返しに来るよ」

「はいはい」

　鞄を横にかけ直しながら、女生徒―――ことはが返した。

　一年の時に同じクラスだった疋田ことはは、出席番号順に並ぶ際には朔の三つ前だった。

　ある日ことはが途中何かに気を取られたかのように横を向いた、その時の顔に自分は『やられた』のだろう。

　まだ高校生になったばかり。目を引くほどの美人ではなく、どちらかというと幼さの残るかわいらしい顔という印象だったことは。なのに遠くを見るその表情はどこか大人びて。

　それから気になって、ことはを見るようになった。

　進んで前に出るタイプではないが、人の話をきちんと聞き、言うべき時はしっかりと言う。

　周りに流されているのではなく、ちゃんと考えているのだと気付いてからは、ますますその横顔が大人びて見えるようになった。

　教室では話せるようになったが、ただそれだけで。単なるクラスメイトのひとりのまま一年が過ぎた。

　二年になったらもう少し距離を縮められればと思っていた朔。しかしクラス替えの二分の一の確率に外れ、かなり落ち込んだ。

　一年のクラスで作ったメッセージアプリのグループ内ではことはも一緒だが、もちろん個別に連絡をしたことなどない。廊下で会っても挨拶程度。このままクラスまで離れてしまっては、それすらできなくなってしまいかねない。

　そう思い、どうにかしたいと勢いで隣のクラスに行ったものの。いざことはを目の前にすると何を言えばいいのかわからず。

　動揺した挙げ句、その時ことはの机の上にあった英和辞典を見て、思わず貸してと口走った。

　それが始まり。

　授業中、ことはの辞書が自分の机の上にあることが嬉しくも照れくさく。初めて借りたその時には開くことさえできなかった。

　付箋にありがとうと書いて箱に貼り付けて返すと、ことははじっとそれを見て、わざわざありがとうと笑いながらそのまましまった。

　目の前で剥がされなかったことが妙に嬉しかったことを覚えている。

　翌日は国語辞典を借りた。返す時に飴を載せておいたら礼を言われポケットにしまわれた。

　次の日は授業中に先生の似顔絵を描いた大きめの付箋を貼っておいた。笑いをこらえながら、勉強しなさいと怒られた。

　借りる時と、返す時。そのほんの僅かなやり取りを求めて、毎日借りに行くようになった。

　あれからもうすぐ三ヶ月。いつか礼だと言って遊びに誘えたらと思っている。

　国語辞典を手に教室に戻ると、ここでも呆れ顔を向けられた。

　一年からの友人陽(ひなた)は本当に遠慮がないが、まっすぐ気持ちをぶつけてくれるので信用できた。ことはと話せるようになった恩人でもあり、二分の一の確率に外れて落ち込んだ仲間でもある。

「なんだよ」

　自席から見てくる陽に近付いてそう聞くと、わざとらしく溜息をつかれた。

「もうすぐ夏休みなのに。いいのかよ」

「いいって何が」

　ごまかすと半睨みでわかってるだろと返される。

　どうにも答えようがなく、朔は手元の辞書へと視線を落とした。

「……お前はいいよな」

　同じ確率に泣いた同士でも、その立場は明確に違う。

　自分は片恋の相手。しかし陽の相手は『カノジョ』なのだから。

「俺だって頑張ったんだよ。俺を羨ましいって思うなら、お前も頑張れって話」

　至極当然のことを言われ、再び口を噤む朔。何も言いそうにないその姿に、陽は諦めたように表情を緩めて立ち上がった。

「俺も隣行ってこよ」

　すれ違いざま、朔の左肩に右手を置いて顔を近付ける。

「告られたりはしてないけど。見られてるってあいつが言ってた」

　動けない朔の肩を一度叩き、教室を出ていく陽。

　周りに聞こえないよう低く落とされた声音には、自分への心配と励ましが含まれていた。

　次の休み時間、朔は再び隣のクラスへと行った。

　少し周りを気にしてみるが、陽から聞いた『見られている』相手が誰かはわからない。

「ありがと」

　辞書を渡すと、ことははどういたしましてと受け取ってくれた。

「お礼」

　ことはの持つ辞書の上に握り持っていた個包装の飴をひとつ置く。

「飴持ってくるなら辞書持ってくればいいのに」

「疋田さんの辞書の方がなんか使いやすくてさ」

　ありがとうと受け取ってはくれたが正論を言われ、少し苦しい言い訳をする。一瞬驚いた顔を見せたことはであったが、すぐにその表情を和らげた。

「やっぱり持ってくる気ないよね」

　向けられた眼差しはどこか楽しそうに細められて。

　ただそれだけのことに、ドキドキした。

　その日、家に帰った朔は勉強机に突っ伏しひとり考える。

　陽に言われるまでもなく、もうすぐ夏休みに入る。そうなるともちろん会えるはずもない。できればそれまでに個人的にやり取りができるようになればと思うのだが、きっかけがない。

　お礼と称して遊びに誘い、その詳細を決めるために個別にやり取りできるようことは個人を登録できればいいのだが、そもそも遊びに誘うことからして一体どうやってことはに言い出せばいいのか。

　起き上がって手を伸ばし、立てられていた国語辞典を引っ張り出す。パラパラとめくり、見るともなしに眺めていた。

　自分がことはと会えるのは、皆がいる隣のクラスだけ。どこか人の少ないところに呼び出すにしても、もうその時点で何かしら噂が立つ。

　自分の気持ちはおそらくそれなりの人数に気付かれているので、自分がどうこう言われるのはいい。しかしことはが色々と言われるのは避けたかった。

　ぱらりとめくった辞書を見て、返す時に手紙を入れようかと考える。しかしそれもあからさまといえばあからさまで。かといっていつものように付箋に書いて貼り付けるのもどうかと思う。

　スマホのメッセージで尋ねるように、気軽に『明日ヒマ？』と聞けたなら―――。

　朔が辞書をめくる手を止めた。

　何やら考え込んだあと、喰い入るようにように辞書を見て。通学鞄から付箋を引っ張り出し、辞書に貼り始めた。

　翌週の金曜日も、いつもと同じように国語辞典を借りた朔。箱にしまったそれを持ち、隣のクラスへと向かう。

　いつも隣へ向かう時はドキドキするが、今日はその比ではない。口から心臓が飛び出しそうというのはきっとこういう事を言うのだと思いながら教室に入った。

「疋田さん」

　なんとか普通の声を出せたとほっとしながら、こちらを向いてくれたことはに辞書を渡す。

「お礼、中に挟んでるから」

「また何か描いたの？」

　なぜだか笑いながら辞書を箱から引き出したことはが、側面からはみ出す五枚の付箋のページを前から順に開き始めた。

　バクバクうるさい鼓動と逃げ出したいような衝動と。それに耐えながら、ことはの一挙一動を見守る。

　五枚目の付箋のページを開いた瞬間、ことはが動きを止めた。暫く辞書を眺めてから、ゆっくりと朔を見る。

　赤くなった頬と、驚いた表情。その顔に嫌悪感が見られないことに安心しながら。

　朔は胸ポケットのスマホを示し、首を傾げてみせる。

「連絡していい？」

　そう小声で尋ねると、どこか呆然としたままのことはが小さく頷いた。