第十八景【かくこと】裏
塗り重ねる色と形。
放課後、彰良は美術室へと向かいながら、今日から描き始める予定の絵をどうしようかと考えていた。
秋の文化祭に向けて、今から何枚か描いてみるよう言われている。授業ではないのでモチーフは個人の自由。とりあえず普段から風景を撮り溜めているデジカメを持ってはきたが、候補はまだ決まっていない。
美術室には既に数人いて、各自準備を始めていた。挨拶をして入ると口々に挨拶が返ってくる。間を空けて場所を取り、彰良も準備を始めた。
何を描くかも決まっていないのにまだイーゼルを使うほどでもないかと思い、自分の画材と6号キャンバスだけを持ってきた。
今日中に下塗りだけは済まそうと、まださほど減っていない油絵の具を出してくる。下塗りの色も厳密にどうすべきかは決まっていないらしく、描くものが決まれば絵のイメージから補色か同系色かを選び、決まらなければとりあえず黄土色か茶色で塗ればいいのではと教えてもらった。
デジカメの写真を眺めながら、彰良は描きたい題材を探し始める。
小さい頃から絵を描くのが好きで、紙と鉛筆さえあれば何時間でも飽きずに描いていた。
中学に続いて高校でも迷わず美術部に入り、そこで初めて油絵を教わった。
水彩とは違い、幾重にも塗り重ねて厚みと深みを増す油絵は面白く、すぐにのめり込んだ。部活だけでは足りなくて、自宅用にも画材を揃えた。さすがに画材屋で売っている張りキャンバスはそうそう買えず、普段は百均で買った油絵用のキャンバスやキャンバスボード、時間をかけて描く時には画材屋の油絵用のスケッチブックと使いわけていた。絵の具も同様、百均で揃えたものと画材屋で揃えたもの、両方用意している。質的には賛否両論あるが、小遣い制の学生の身に百均の画材はありがたかった。
描き始めから完成まで、乾かす時間を考えるとかなりかかるが、重ねることで僅かずつ変わっていくその様子が面白く。どこまでも自由なのに、時には下書きに置いた線まで完成の糧とするようなその貪欲さに惹かれた。
尤も、自分にはまだそこまで計算して描くことはできない。油絵の完成と同じく、この先時間をかけて数をこなして身につけていく感覚なのだろう。
「決まった?」
絵の具の準備を始めたところでうしろから声をかけられた。
振り返るまでもなく、誰なのかは声でわかる。
デジカメに手を伸ばしてから、彰良はうしろを向いて画面を声の主に見せた。
「これにしようと思って」
うしろにいた女生徒は肩までの髪を耳にかけながらデジカメの画面を覗き込む。
映っているのは草地を歩く茶と白の猫。
「かわいい! 白石くん家の子?」
「いえ、たまたま見かけて…」
「だからちょっと遠目なのね」
そう笑い、女生徒はまだ真っ白なキャンバスに目をやった。
「何色塗るの?」
「赤にしようと思ってます」
茶色と迷ったが、草地の緑の補色としても猫を描くにも暖色の方がいいと思った。
「木津先輩なら何色にしますか?」
彰良の問いに、女生徒はもう一度写真を眺めて考えてから。
「ちょっと暗めの赤、かな」
にっこり笑ってそう答えた。
入学してすぐ、部活紹介として飾られてあった一枚の油絵に釘付けになった。
夕方の砂浜に佇むひとつの人影。
明るい赤ではなく、暗く沈む直前のような海の色。小さく描き込まれた人影は闇に紛れかけ、男女も年齢もわからない。
アクリル絵の具のような透明感はなく、いかにも油絵なぼってりと厚く塗られた赤黒い景色であるのに、なぜか透き通るように儚くて。
前に立ち、そのまま暫く見入っていた。
絵の右下には小さく書き込まれた『N』の文字。
誰の絵かは、美術部に入ってからすぐにわかった。
三年生の『木津鳴海』
部内の誰しもが認めるほど、惹かれる絵を描く人だった。
美術部に入り油絵を描き始めてから、ますますあの絵の不可解さを実感した。
ペインティングオイルで薄めて描く技法もあるが、それとも違う。
画質ではなく、絵としての透明感。
構図やパースや模写が上手ければ整った絵は描ける。しかしただ上手いだけの絵に人は惹かれない。それを超越した『魅力』が鳴海の絵にはあるのだと思った。
それが何かはわからないが。
少しでも近付きたいと、そう思う。
今日は下塗りだけしかできないので、ほかに何か描けるものがないかとデジカメを見ていた。
できるだけモチーフは被らないよう、色々なものを描くように言われている。
風景画は描きたいものが決まっているので、あとは静物画と人物画。
人よりは景色を描くほうが好きなので、普段あまり進んで人物画は描かないものの。今回はそうも言っていられないとわかっている。
描きたい『誰か』はいない。群像なら風景を描くのと変わらないかと思うが、それこそ風景画と取られかねない。
部内でモデルを頼めばいいとも言われているので、仕方なければ同級生に頼もうと思っていた。
様子を見に来た顧問に、もうできることがないなら早く帰っていいと言われた彰良。使った道具を片付け、皆に断り先に美術室を出た。
学校へは自転車で三十分ほど。電車だともう少し早いが、部活の荷物が多くなりそうだったので自転車通学を選んだ。
いつもより少し早いからと、学校の最寄り駅近くのショッピングセンターに寄り道をする。さほど大きなところではないので画材はないが、三階の本屋はそれなりの広さがあった。
駐輪場に自転車を停め、本屋へ向かう。放課後すぐでも最終下校時刻でもないので、同じ学校の生徒はあまり見かけなかった。
写真や音楽関連と一緒に芸術と括られたコーナーで、少ないながらも画集を見て。目についた風景写真集にも手を伸ばす。
海だけを切り取った写真集には、見慣れた青い海のほかにも、赤い海、翠の海、黒い海と、場所と時間を変えながら様々な色の海が写し取られていた。
写真集を閉じ、元の場所へと置く。
文化祭が終われば三年生は引退する。
鳴海のように描けないのはわかっている。しかしそれでも、少しでも上達したと―――いい絵だと、思ってほしいのだ。
文化祭用の風景画は、あの絵と同じく海を描こうと決めていた。幸い電車で三十分ほどで行ける範囲に海水浴場がある。お盆を過ぎれば客は減るので、その頃から秋にかけて描きに行くつもりだ。
それまではただひたすらに。
やれることをやるしかない。
家に帰り宿題などを済ませてからは、さすがに絵の具を出す暇はなく。いつも通りスケッチブックに鉛筆でいくつか絵を描いた。
家で絵の具を使うのは、時間が取れる土日だけ。
絵ばっかり描いて、など一言も言わず、未だ幼い頃と同じように自分の描いた絵を見て喜んでくれる両親だからこその環境。好きなことをやらせてもらっている分、少しでも心配をかけないように、学生としてやるべきことはきちんとやるつもりだった。
翌朝、彰良はいつものように自転車で家を出た。
下塗りは乾いているだろうから、今日は構図を考えながら下書きをしていこう。同じ猫の写真も何枚かあることだし、写真そのままではなく少し変えてもいいかもしれない。
そんな事を考えながら、三十分の道のりを進む。
始業前の駅から先は、電車通学の生徒たちがぞろぞろと歩いていた。少しスピードを落とし、気をつけて追い抜いていく。
前を行く楽しそうに話す女生徒ふたりがクラスメイトだと気付き、追い抜きざまにおはようと声をかけた。
「おはよー」
「お、おはよう」
背中からの慌てた様子の声に、驚かせたかなと思いながら。
彰良はゆっくりと自転車を漕いでいった。
表にも後書きを書いた理由はわかっていただけたかと思います。
【かくこと】、すなわち【描くこと】です。
特に油絵を描くというわけでもなく。高校の授業でやっただけです。専門知識はないので、おかしなことを書いていたらすみません…。
今現在、かどうかまではわかりませんが。百均で油絵の具も張りキャンバスも買えると知って驚きました。なんでも売ってる……。
そもそも救いようのない画力しかないのです。お城を下の石垣から描いて、途中までしか画面に入らなくなったり、と。そんなやつでした。不器用もあって、図工の成績は悪かったです。
歌川先生のところで色々と洩らしておりますが。昔描いてたんだろうなぁ、と思われた方がおられるかどうかはわかりませんけど。
今現在好きなものというよりは、かつて好きであったもの、なのかもしれません。
こちらは青春時代の思い出、ですかね。
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