第十六景【パン生地】裏
割り切ることは難しい。
棒付きウインナーの下部分で生地を押さえ、クルクルと巻いていく。きつすぎると発酵中に解け、緩すぎるときれいな形に焼き上がらない。巻き終わりの位置を上下揃えてきちんと内側に入れ込んでから、連は仕上がりを確かめて天板に並べた。
朝のピークが過ぎた店内に客はいない。早朝パートの板谷と入れ替わりに出勤してきた麦は、今日も変わらずテキパキと仕事をこなしている。
ここ『丸川ベーカリー』の正社員。といっても、ほかの社員は社長である父と母、肩書きだけは店長の自分の三人。完全に家族経営の町の小さなパン屋である。
最初バイトで入った麦は、何を思ったのか大学卒業後もここで働きたいと言ってきた。人としても、仕事振りももちろん文句のつけようがない麦。両親は大喜び、もちろん自分もものすごく助かるし嬉しいのではあるが―――。
思考を遮るように、ブー、とブザーが鳴り響く。
「店長! 四番!」
すぐに動いてくれた麦に確認するよう頼むと、出しますね、と返ってきた。
ホイロに入れた順番から、次に何を焼くのかを考える。麦がホイロを覗きに来たので、窯の温度を下げておかねばならない白パンの準備を頼んだ。
「わかりました」
こちらから指示を出さずとも、麦は自分で判断できるとわかっている。それなのに店長振りたくてついもうひとつ先の指示を出してしまう自分がどうにも情けなく。窯の方へと戻る麦のうしろ姿をちらりと見てから心中嘆息した。
昼前、いつものように五キロの食パン生地のミキシングを麦に頼んだ。十キロの粉袋は重いだろうに、文句も泣き言も言わずに黙々と働いてくれる。
「ありがとう。あとやっとくから、トッピングお願い」
きちんと回りだしたのを確認してから振り返った麦に次の作業の指示を出すと、わかりましたと応えてトッピング用の作業スペースへと移動していく。
どうにも口を出してしまう己に少し呆れながら、連は麺台での作業を進めた。
暫くしてミキサーのタイマーが鳴ったので、生地の具合を確かめてから麦が計っておいてくれた油脂を入れた。ミキシングボウルに生地がぶつかる音はペタペタとまだ軽く、入れた油脂が潰されていく粘質な音に消されていく。
こうして滞らずに仕事の流れを繋いでいけること。それがすごくありがたい。
生地を捏ね始めてから商品として並べるまでに数時間かかるので、いくつもの作業を並行して行う必要がある。二次発酵を済ませた生地を待たせず窯に入れてやるためには、こちらがゆとりを持って生地を待ってやらねばならない。生のパン生地は生き物と同じ。放っておけば過発酵してしまう。こちらの都合につきあわせるわけにはいかないのだ。
少しの歪みが後々まで響いていくことが身に沁みているからこそ、先回りの準備を頼むくせがついた。自分も相手も上手く動けるように先を読み指示を出すことは、店長を譲られて以降は父親相手にだってしていることだ。
誰に対しても変わらぬそれが、しかし麦には必要ない。おそらく自分が無言のままでもこちらの思う通りに動き、かゆいところに手が届くような細やかな気遣いも変わらないのだろう。
なんとなくうしろに行き、メロンパンにホイップを絞る麦の手元を観察する。左手で切り口を開き、右手で波のようにホイップを絞っていく麦。自分の手よりも大きなメロンパンを、よくもこの小さな手で潰さず開いて固定するものだと感心する。
「熱田さんの方ができあがりきれいなんだよね」
「店長がそれでどうするんですか」
素直な感想は溜息混じりでそう返された。
「こればっかりはセンスだからねぇ」
生地の扱いはまだ自分の方が上手いが、焼成前後のトッピングは麦の方が丁寧で早い。実際自分も麦の仕上がりを手本にしているのだ。
褒め言葉のつもりだが、麦の表情は変わらないまま。店内が混み始めたことに気付いた麦がレジ補助に抜けた。
ビニール手袋をはめ、麦の代わりに残された四つのメロンパンにホイップを絞っていく。
大学に入学と同時にここへバイトに来だした麦。その呑み込みの早さについ次々と仕事を教えてしまった。大学を卒業する頃にはもう大きな戦力となり、加えてその明るく真面目な性格で誰からも好かれていた。もうすぐ辞めてしまうことを皆で惜しんでいたのだが、まさか麦の方から残りたいと言ってもらえるとは思っておらず。
本当にいいのかと、麦には何度も確認した。
大学で学んできたことも活かせず、給料も知れたもので。年頃の女の子なのに爪も伸ばせず、アクセサリーも香水もつけられず、出逢いもなく。店休は年末年始のみの完全に不定休、加えて時には早朝勤務もあり。重いものを運び掃除に明け暮れ粉にまみれ火傷を負うような職場。
こんな職場に引き込んでよかったのかと、正直今でも思っている。
ホイップを絞り終えたメロンパンをラックに戻し、残りのトッピングも終わらせる。途中ホイロのタイマーが鳴ったので、出した全粒粉のパンにクープを入れて温度とタイマーを合わせておいた二番窯へ入れた。
そうこうする間に捏ね終わった食パン生地は、検温して一次発酵用の深めのコンテナ容器に入れておく。一次発酵終了時刻を確かめてから、連は麺台での作業に戻った。
戻ってきた麦はこちらが言う前に品出しまで終えてくれていた。ちょうど焼き上がりそうな二番窯を頼むと、人使いが荒いと言われた。
言われ慣れた言葉に苦笑する。
自分が店長になってから、そう言い辞めていった人が何人もいた。
しかし、その人たちに言われた言葉と、麦が自分に呆れたように言う言葉と。同じであるはずなのに同じように聞こえないのはなぜだろうかといつも思う。
全粒粉パンを出し終えた麦に、連はわざと何も指示を出さなかった。麦は気にした様子もなく、隣で明日の仕越しに取り掛かる。
毎日のことで流れがわかっているからというのもあるだろうが、やはり自分の指示など必要ないのだと少し寂しいような思いも覚え。
「…熱田さんは嫌になってない?」
気付いたときにはそう聞いてしまっていた。
「店長?」
怪訝そうな麦の声にはっと我に返る。
「い、いや、社員になってもらってしばらく経つけど、疲れてないかなって…」
何を聞きたかったのだろうかと内心呆れながらあたふたと取り繕うと、麦はあぁ、と納得顔を見せてから微笑んだ。
「大丈夫ですよ。お休みもちゃんといただいてますし、何よりこの仕事が好きですから。毎日充実してます」
店の方を見てから、手元の仕越しへと視線を移す。
「自分が作ったパンをどれにしようかって迷いながら選んでくれたり。美味しかったからまた買いに来たって言われたり。そんなことが嬉しいんです」
思い出すように瞳を細めて麦が言い切った。じっとその横顔を見ていた連が、すっと正面に向き直る。
「そっか。…ありがとう」
「なんで店長がお礼を言うんですか?」
「いや、店長としてありがたいなって」
「なんですかそれ」
笑う麦を見ないまま。
なんとなく緩む口元を自覚しつつ、連は仕越し用の生地玉に手を伸ばした。
いつの頃からか競争のようになってしまった分割作業。慌てて切っては量が違うと麦に投げ返されながら、どうにか凌ぎ切る。
毎回毎回気が抜けないと思う一方で、こんなやり取りを楽しく思う自分がいる。麦からするといつも口うるさく言われている分やり返しているだけなのだろうが。
ベンチタイムのあとは丸め直して食パン型に入れるだけ。作業は麦に任せ、残った生地で試作を作ることにした。
「きんぴらですか?」
冷蔵庫に入れておいたタッパー取り出すと、麦が覗き込んで聞いてくる。
「おかず系増やしたらって、熱田さんに言われたから。まぁオーソドックスなところで」
客層から考えるとラタトゥイユやオイルサーディンなどあまりにカタカナな物は敬遠されそうな気がしたので、まずは馴染みのあるものからにした。
「…普通ですよね」
「凡人には普通の案しか出ないんだって……」
手厳しい言葉に苦笑しながら、連は余り生地を長方形に伸ばした。横長に置いて、真ん中に横一列きんぴらを並べ入れる。下から生地を被せ、上からは端に合わせ、開かぬようにきちんと押さえ合わせた。
細長い棒状にしてから、どんな形にしようかと考える。このままいくつか切り目を入れてもいいし、それを輪にしてもいい。深めに切って生地を左右に振れば麦の穂のようなエピ型にもなる。
隣で食パン型に丸め直した生地を四つずつ入れている麦を一瞥する。
嫌になっていないか聞きたかったのは、仕事のことか、自分のことか―――。
切り分けた生地が中途半端に余ってしまうように。いつまでも胸に割り切れない想いが残っていた。
パンにあらず【パン生地】です。読んでもらえればわかる通り、焼く前の生地、です。
油脂やら砂糖やら多めの配合を粉十キロで回した時の生地。一次発酵が済んだあのふかふかふにふに具合が!! 生地が傷むのでできませんが、ずっと触っていたかった…。ちなみに捏ね上げの総重量は二十キロ近くになります。何気に重労働。
量が多いと発酵が進みやすいので。家で数百グラム捏ねたところであんな手触りにはならないのですよ(泣)。
自他ともに認める不器用な小池ですが、丸めだけは両手でできます。作業はトロめですが、仕上がりはそれなりでした。
今回の試作、初めてニーダーなる捏ね用アタッチメントを使って、計二キロ強捏ねました。ちょっと冷たかったものの、生地の手触りは及第点でした。久々堪能できたのはよかったのですが…。
もうここで書ききれないほど色々とやらかしました。
レシピの四倍量の粉なのに、粉以外は二倍量しか入れてなかったり。
片付けようとしたイーストの袋、ないと思ったらバターの箱の底から出てきたり…。
自キャラのことばかり残念と言えない。
一番残念なの、小池自身です……。




