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第十六景【パン生地】表

 熱を孕み膨らむもの。

 ブー、と店内に響くブザー音。レジカウンター内でトレイを拭いていた(むぎ)は、店内を振り返り窯のランプを確かめる。

「店長! 四番!」

「出せると思うけど見てくれる?」

 奥の麺台で棒付きウインナーに生地を巻きつけながら、店長の(れん)が声を上げた。店内に客がいないことはわかっているらしい。

 麦はブザーを止めてから耐熱グローブを嵌めてしゃがみ込み、窯の最下段の扉を開けた。熱気に怯むこともなく、二枚入った天板のうち一枚を引っ張り出して焼き色を確かめる。

 艶々のキツネ色に焼き上がったあんぱんが五個、サイコロの五の目のように並んでいる。隣のクリームパンの天板も手前まで引き出し、同じく焼き色を確認した。

「出しますね!」

 取り出した天板を叩き台に軽く打ち付け、横のラックに差し込んでおいた。

 窯がひとつ空いたので次の焼成に温度を合わせようと思い、ホイロを覗き込む。ふっくりと膨らむ二次発酵中の生地は見るからに柔らかそうだが、(なま)生地なのでまだ美味しそうとは言えない。

熱田(あつた)さん、次白パン焼くから温度下げといて」

 ホイロの中を見ずに指示を出す連にわかりましたと答えてから、麦は四番窯の設定温度を下げに行った。



 お昼前にパートの有原が来ると、麦の仕事は作業中心となる。三時頃に焼き立てを出すために食パン生地のミキシングの準備を始めた。

「五キロで」

 こちらが聞く前に指示を出す連。この時間は明日のサンドイッチ用の食パン分も取るので少し多い。

 粉を十キロまで捏ねられる釜型のミキシングボウルに計量した材料を入れていく。油脂を残して回し始め、ある程度混ざったことを確認してから振り返ると、真ん中に置かれた大きな麺台から見ていた連がありがとうと笑った。

「あとやっとくから、トッピングお願い」

「わかりました」

 昼に向けてドッグ系の商品は既に並べてあるので、次は三時頃に向けてのクリーム系のトッピング。トッピング用の作業スペースで、クリームを入れずに置いてあったコロネやホイップを使う商品の仕上げをしていく。

「熱田さんの方ができあがりきれいなんだよね」

 メロンパンに切り込みを入れホイップを絞っていると、うしろから声が降ってきた。

 ミキサーに油脂を入れるために手を止めたついでにわざわざ覗き込んでそう言う連に、麦は振り返らないままわざとらしく息を吐く。

「店長がそれでどうするんですか」

「こればっかりはセンスだからねぇ」

 冗談めかした連の言葉を鵜呑みにするつもりは麦にはない。

 作業はすべて連から教わった。自分は連ができることしかやっていない。

「レジ応援行ってきます」

 混み始めた店内に、麦は連を残して有原を手伝いに行った。



 大学に入ってすぐ始めたバイト。それがこの店だった。思っていたより若い店長に驚いたことを覚えている。

 主に店頭作業ということで、パンなど作ったことのない自分でも雇ってもらえた。実際初めの方は接客と品出しと雑用だけであったが、それに慣れてくると連が次々と他の作業を教えてくれた。

 初めて触れた生地は、いわゆるパンとはまた違った柔らかさだった。

 一次発酵の終わった生地は倍近くに膨れ上がる。ふにふにと柔らかくも弾力があり、ほわりと温かく。何かに似ていると考えて、思い出したのはいとこの赤ちゃん。欲望に負けてつい触ってしまった赤ちゃんの頬の手触りだと思い当たった。

 分割して表面がピンと張るように丸めると、ふにゃりと頼りなかった生地がキュッと締まる。ベンチタイムの間に少し緩んだ生地を成形し、二次発酵が済むころにはまた倍ほどに膨らんで。

 艶出しを塗られ、窯で焼かれて出てきて、ようやく見慣れたパンとなる。

 初めて自分で成形したあんぱんは、連が成形したほかの四つに比べて見るからに歪で。記念にどうぞと渡されたそれを持ち帰り、中の餡の片寄りに笑いながら食べた。

 粉と水とイーストと。混ぜられたそれらが自ら熱を孕み膨らんでいく。その不思議さに惹かれるうちにこの仕事が好きになった。

 作るだけではない。

 顔見知りの客とのやり取り、迷い選ぶ嬉しそうな顔、美味しかったよと満面の笑みで報告してくれる子ども。

 自分の作ったパンを手にとってもらえる幸せ。それを伝えてもらえる喜び。

 重なるそれを手放したくなくて、このまま就職したいと願い出た。

 連には本当にいいのかと何度も確認をされたが、いいと言い張った。もちろん今でも後悔などしていない。



「麦ちゃんありがと〜!」

「いつでも呼んでくださいね」

 レジ支援を終えて戻ってくると、トッピング作業は終わっていた。並ぶ五つのメロンパン、切り込みに絞られたホイップを見比べてみても、自分がどれをしたのかわからない。

 やっぱりお世辞よね、と思いながら、店内が空いた隙に品出しを済ませた。

「二番鳴るからお願いね」

 戻るなりの指示に肩をすくめる。

「ほんっと店長って人使い荒いですよね」

「え〜? そうかなぁ??」

 麺台から呑気な声が返ってきた。

「そうですよ」

 呆れ口調でそう言って、二番窯の様子を見る。残り数秒、待たずに中を確かめ取り出した。

 連には人使いが荒いと文句を言ってみたりはするが、本気ではない。こちらをちゃんと見てくれているからこその的確な指示だとわかっている。

 最初は考えずに効率よく動けるから楽だった。しかしそのうち言われた通りに動くことしかできないことが悔しくなってきて。どうしたら連の指示を先回りできるかと考え動くようになった。

 まだ敵わないが、いつかは『もうやってます』と応えたい。



 連からは次の指示がなかったので、麦は明日用の仕越しを始めた。途中連に疲れていないかと聞かれたが、好きな仕事をしているのだから充実していると答えた。

 そのうちに一次発酵の済んだ食パン生地。分割は連とふたりの作業となる。

 隣の連が切り分けた生地が、次々に放られてくる。ほわほわと温かい生地を両手で二個ずつ丸めていく途中、明らかに大きいものや小さいものに気付いた時は連の方へと投げ返す。

 はかりの上皿がガシャガシャと忙しなく音を立てている。

「まだですか?」

「熱田さんが(あせ)らすからっ」

 連はひとつずつしか切れないが、こちらはふたつ同時でも左右時間差でも丸められる。丸めた生地をばんじゅうに入れる手間があっても基本こちらの方が早い。

 いつの間にか競争のようになってしまった分割作業。いつも先回りされる連に、今のところ唯一遅れを取らない作業だった。

 生地を入れ終わったばんじゅうを丸めた順になるよう積み替えていると、連が冷蔵庫から小さなタッパーを出してきた。

 分銅のはかりを使い人が切り分けているのだから、どうしても多少の誤差は出る。余った生地は新製品の試作用に回されることが多かった。

「きんぴらですか?」

 連が開けたタッパーを覗き込んで麦が呟く。

「おかず系増やしたらって、熱田さんに言われたから。まぁオーソドックスなところで」

 ささがきのごぼうが食欲をそそる照りを纏った醤油色に染まっている。このきんぴらは連が作ったのだろうかと、そんなことを思いながら。

「…普通ですよね」

「凡人には普通の案しか出ないんだって……」

 正直な感想を述べると、溜息とともに返された。



 ベンチタイムを終えた生地を丸めなおし、四つずつ食パン型に入れた。今は型の半分の高さもない生地も、ホイロでの二次発酵で型の上に届くほどに膨らんでいく。

「これもお願い」

 連から渡された天板には、丸く輪に成形されたパン生地がひとつ。中にはもちろんきんぴらが入っているのだろう。

 生地を長方形に伸ばして細長くたたむ成形。こうして輪にしたり、切り込みを入れ左右交互に開くと―――。

 ふと目が合った連が、にっと笑った。

「フランス生地ならエピもありかなぁ」

「名前でからかうのやめてもらえます?」

 同じことを考えていたのかと思いながら、麦は天板をホイロに入れた。

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