第十四景【焼酎】
書き写す心。
「おっっ、俺とっ、結婚してくださいっ!」
ざわついていた店内に響き渡った大声に、辺りが水を打ったように静まり返る。
隣との距離も近く、衝立などあってないような、よく言えば開放的な店内。真っ赤な顔で立ち上がる男を見るまでもなく、誰が誰に言ったのかなんて誰でもすぐに理解する。
開店前かと思うくらいの静寂が訪れ、居合わせた客全員が見守る中、唖然と男を見ていた向かいに座る女の顔が次第に赤くなっていく。
「……はい」
微笑み頷いた女の声に、男が喜びの声を上げるよりも早く、周りから拍手と祝福とヤジが湧き起こった。
周りからの祝福に我に返ったのか、真っ赤な顔のまま周囲にペコペコと頭を下げてから座る男。女は仕方なさそうな、それでいて心からの喜びが見て取れる、そんな笑顔を男に向けている。
おめでとう、と。そう思いながら、渉は空いたテーブルの食器を下げに行く。
渉の勤める居酒屋はよく言えばレトロな、悪く言えばちょっと古びた、そんな店だった。店長のこだわりから、焼酎の品揃えが豊富なこの店。雰囲気ではなくそれを目当てに来る客がほとんどだった。
そんなお洒落さなど微塵もない店には珍しく、女性同士でよく来ていた客。そのひとりが、今周りからの祝福に頬を染め礼を言う彼女。
随分と顔を見なかった彼女が男と来だした時は少し驚いたが、徐々に距離が縮まっていく様子が微笑ましく。実は皆でこっそり応援していた。
店員である自分たち相手にさえさり気なく気遣い、何かをするたび礼を言ってくれる彼女と。少し頼りないところもありそうだが、見るからにお人好しで好感が持てる彼と。常連とはいえもちろん気軽に話す仲でもないが、他人事ながら幸せを願う程度には親近感を持っていた。
そんなふたりのプロポーズ現場に偶然とはいえ立ち会えて、少し嬉しい。
食器を下げて戻ると、店長がニマニマとしながらふたりを見ていた。
「店長。顔」
白タオルを頭に巻いた髭面のそれなりにガタイのいいおっさんがニヤけるその様子を小声で注意すると、カウンター席に座っていた顔馴染みの客が笑う。
「まぁまぁ。そう言わないであげてよ」
「渉くんだって嬉しそうな顔してるよ?」
馴染みすぎていて遠慮のないおじさんふたりに、店長と顔を見合わせ苦笑した。
「若いっていいねぇ…」
「バラ色の日々ってやつだな」
うんうんと頷き合うふたり。
「ね、大将。僕からあのふたりにお祝い。なんか注いであげて」
「それなら俺にも噛ませてよ。なんかめでたい、パァッとしたやつでよろしく」
「炭酸割りにすればいいって話でもないしなぁ…」
わいわい言い合うふたりからこちらへ視線を向けてくる店長に、渉は肩をすくめた。
カウンター内へと戻り、店長とふたりどれがいいかと話し合う。そうして決めた銘柄を言い出したふたりに味見してもらい、これでいいとのゴーサインをもらった。
「頼んでませんけど…」
グラスを置くと即座に告げられた言葉に、渉はわかってますよと頷く。いつもロックで頼むふたり、こうして泡の上がるグラスを見た時点で間違いとわかるのも当然だろう。
「お祝い、だそうですよ」
「えっ?」
驚いて渉の視線を辿ったふたりは、見覚えのある常連客に手を振られて慌てて頭を下げていた。
「いいのかしら…」
「なんかもう……お騒がせした上にすみません…」
恐縮するふたりに是非と勧める。
「ありがとうございます」
「じゃあ、いただきますね」
常連ふたりにもう一度礼を言う様子を見ながら、渉はテーブルを離れた。
幸せそうな笑顔だったな、と、ふと思う。
「渉くん、渉くん」
戻るなり手招きで呼ぶ常連ふたりに、渉はトレイを持ったまま傍へと行った。
「ね、あれってどれ?」
テーブルに置かれた、筆文字の焼酎のリスト。
「ちょっと変わった後味だよね」
「そうそう。いい感じにらしくなかった」
これですよ、と見慣れた文字を指で差す。
「おふたりも、あのふたりも、普通に芋を美味しく飲む方なので。薦めたことなかったんですよ」
ふたりに出したのは、少し変わった芋焼酎。しっかりと芋焼酎の味わいはするのに飲みやすく、喉を通ったあとに残る香りが今までにない爽やかさで。店では主にまだ芋焼酎に慣れていない人に薦めている。
「確かに。飲みやすかったよ」
「渉くんも詳しいよねぇ」
何気ない言葉に、渉は手書きのリストと店長を見比べた。
「店長に鍛えられてるんですよ」
なんの話からそんな話題になったのかは覚えていないが、昔習字を習っていたと言うと、店長から手書きの焼酎のリストを作ってくれと頼まれた。
就業時間内に筆ペンで書いてくれればいい、特別報酬もつけるから、と言われて引き受けた。
プラスチックの下敷きのようなケースに表裏。定番リストは一度書けばそれで済んだが、店長が気紛れに仕入れる数種類はその都度書かねばならない。瓶がすべて空けば新しいのが入り、そのたびに書き直しとなる。
安請け合いしすぎたかな、と思いながら。特別報酬の仕事上がりの一杯のおかげで少しは味にも詳しくなれた。
元々店長は聞かれた時に答えられるようにと、新しいものを仕入れると希望者には味をみさせてくれる。しかしその一回ではなかなか覚えきれなかった自分にとってはいい復習となったようだ。
そして何より。何枚も何枚も書くことで、書き終わる頃には銘柄も頭に刷り込まれる。いつからか、皆での試飲の際に出しあった感想をリストに書き加えるようになった。
そうしてできた今の形のリスト。コメントを見て頼んでみた、と言われると少々むずがゆく。どこか嬉しい。
食事を終えたあのカップルが席を立った。常連ふたりにもう一度礼を言い、お幸せにやらごちそうさまやら言われて赤面している。
「本当にお騒がせしてすみませんでした…」
会計の際にこちらにまでまた謝ってくれる男に、大丈夫ですよと笑う。
「こちらの方こそ。なんかこう、もっとお洒落で落ち着いた店ならよかったんですけど」
ムードの欠片もない照明というより電球な明かりに、ところ狭しと並べられるテーブルと椅子。狭い通路を店員が急ぎ足で通り過ぎ、人が来るたびに店長を始め皆が大声で迎えるような、そんな店。
もちろん自分にとっては誇るべき仕事場ではあるが、それとこれとはまた別だろう。
人生の一大イベントをそんな店で迎えてよかったのかと、男と、そして女を見やる。
男はきょとんと渉を見てから、隣の女と顔を見合わせた。
「…いえ。この店がよかったんです。俺にとっては大事な思い出の店だから」
「私にとっても同じです」
そう言い微笑み合うふたり。
「この店が好きだから。今日、もうひとつ大事な思い出ができて嬉しかったです」
「ふたつ、かな?」
男がちらりと常連ふたりの方へと視線をやる。
「そうね」
くすりと笑い、女が渉を見た。
「ですから。ありがとうございます」
「もうあんなに騒ぎませんので。また来させてください」
もう、と肘で男をつつく女と、ごめんと笑う男と。
幸せそうなふたりに、渉も自然と表情を緩める。
「ありがとうございます。もちろんお待ちしてますよ」
お幸せに。
心中呟いて、ああ、と思う。
ふたりのことを応援していた。それは間違いではないけれど。
目の前の彼女がきれいに見えるのは、きっと彼の隣だから。
「…お幸せに」
今度は心から、そう言葉にした。
「「ありがとうございます」」
意図せず合わさる声に、ふたりで照れたように顔を見合わせる。
そんな姿を目にしても、胸が痛むことはないけれど。
今は少しだけ、眩しく見えた。
会計を終えてから、女が気付いたように顔を上げた。
「あの、いただいた焼酎、すごく美味しかったので。どれなのか教えてもらえませんか?」
「炭酸割りって普段しないけど、全然物足りなくなかったよね」
そういえば銘柄を伝えていなかったことを思い出し、渉はカウンターの端の席からリストを持ってくる。示された銘柄に、まだ飲んだことのないものだねと言い合うふたり。
「これを見ていると気になるのがたくさんあって。いつも迷ってしまうんです」
礼を言ってリスト返しながら、女が少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「またオススメも教えてください」
手渡されたそれを受け取りながら、渉はふたりに笑みを返す。
「喜んで」
いつでも聞いてくださいと言うと、ふたりに揃って礼を言われた。
ペコペコと頭を下げながら出ていく男と、そのうしろ、男の分まで前と足元を気にしながら軽く会釈する女を見送った。
ふたりが去った店内で。
渉は手に持ったままのリストに視線を落とす。
もちろん自分は銘柄を書き写しただけなのではあるが。
それでもどこか覚える嬉しさと、ひとりになったら感じるだろう喪失感と。
今は短い溜息で逃し、渉はリストを元の場所へと戻した。
今回は以前に予告済みの【焼酎】です。
焼酎。芋焼酎は最初あまり飲めなかったのですが、慣れたら芋ばかりで。氷が溶けかかってきて、後味が甘くなってくる頃が好きです。
あまり鋭敏な味覚を持ち合わせていない小池。何を食べ飲みしても八割以上『普通に美味しい』で、残りは『めっちゃ美味しい』との感想しか出ません。
そんな奴なので、好みはあれども、なんでも飲みます。
そんな小池がここ最近ハマったのが作中の芋焼酎。有名なようなので知っている方も多いかも。焼酎、ライチ、でヒットするアレです。飲んで『何これ??』となりました。
基本トリアタマなので、衝撃を受けるほどのものでないと味を覚えておけないのです。もちろんこれも驚きました。柚子の時も言いました。そして次回も同じことを言います。予告ではなく確定です。




