第九景【チョコレート】裏
釣り合う想い。
こんな日に限って。
内心悪態をつきながら、陽は急いで帰路に就く。
学校に持っていくわけにはいかなかったので一度取りに戻らなければならないというのに、部活が長引き少し遅くなった。
日が落ち始めた道を早足で歩く。
引っ越してからの家は別の道から行った方が近いのだが、ついいつもの通りの道を辿っていた。ひと月前よりは長くなったといっても、寒空も相まって明るいとは感じない冬の空。見る間に暮れゆく空と、連なる街灯と門灯の白や黄色の光が余計に気持ちを焦らせる。
早く帰ってここにもう一度こなければ、と。
急いで歩く陽は、後の目的地を直前に思わず目を疑う。
見慣れた門の前、佇む人影にどきりとした。
春から秋まで、毎日のように通っていた飛田家の庭。しかし冬の間は訪れる理由もなく、立ち寄ることはなかった。
それでも毎日のようにこの道を通り、門の前を通り過ぎがてら中を覗き、見えぬ人影に落胆して。
冬の寒空の下で、なつきがわざわざ通りかかるだけの自分を待つ理由はない。
そうわかってはいるのだが、用事のない自分に玄関チャイムは鳴らせない。偶然にでもなつきが出てきていることに期待するしかなかった。
学校ではクラスも違い、話ができることも少ない。一度も顔を見ない日だってある。
ここへ来ている間はほとんど毎日顔を合わせていた。だからこそ今、あまり話せないことが寂しくて。
それでもどうにもできず、数ヶ月が経っていた。
そして今日。
ようやく玄関チャイムを鳴らす理由を作ることができた。これから家に帰り、それを持ってと思っていたのに。
こちらを見ていたなつきの表情がほっとしたように緩むのを見て、やはり自分を待ってくれていたのだと理解する。
嬉しさと、困惑と。
混ざる気持ちのままに駆け寄った。
「飛田?」
もしかして、と思う気持ちを押し込めて。普通にと言い聞かせて名を呼ぶ。
黄色みを帯びた門灯の下。顔色はわからないが、らしくなくもじもじとした様子に胸が高鳴る。
「あ、あのね…」
言いかけたなつきが陽の腕を掴んで庭へと引っ張り込んだ。すぐに腕を放し、肩に下げたトートバッグに手を入れようとする。
「渡したいものが…」
その言葉に、陽は自分の期待が間違いでないことを理解した。
もうものすごく嬉しい。しかし、今もらうわけにはいかなかった。
先にもらってしまうと、それへのお返しになってしまう。
ちょうどいいのがあったから渡しただけになってしまう。
そうではないのだと、どうしても伝えたかった。
「ちょっと待って」
制止の言葉になつきが動きを止めた。下を向いたまま動かなくなったなつきに、誤解させたかと少し焦る。
「飛田」
嬉しい気持ちが自然と籠もる。
こんな暗くて寒い中、いつもより帰りの遅い自分が通りかかるのをずっと待ってくれていた。
なつきが自分のことをどう思って取った行動かはわからない。しかしそれでも示してくれたこと。
それが、本当に嬉しくて。
抑えきれず、笑みが零れる。
「ごめん、すぐ戻るから。ちょっと待ってて」
「篭崎?」
名を呼ぶなつきに家に入っているように言って庭を出た。
お返しではなく、そのためだけに準備されたもの。
自分のために用意されたもの。
今の自分の嬉しい気持ち。
相手が自分のことを考えていてくれた喜びを、なつきにも味わってほしかった。
家まで走って帰り、鞄を放り出して。
準備してあった紙袋を手に、制服のまま飛び出す。
喜んでもらえるかとの心配と、こうして家へと向かえる喜びと。
相反するような気持ちの中、それでも緩む頬を自覚しながら、陽は飛田家へと駆け戻った。
本当に偶然だった。
普通ならもらう側の自分だが、もらいたい相手からもらえるとは思えない。
だったら自分が渡せばいいのだと。上機嫌で友チョコの準備をする姉を見て思いついた。
しかし、男の自分がラッピングされたチョコレートを買うのは恥ずかしすぎて。その場で姉に頼み込んで、からかわれながらも作り方を教えてもらった。
材料を買いに行くのも気恥ずかしいので、材料費を渡して姉から母に頼んでもらった。
そして改めて、自分ひとりで作った。
興味津々に覗こうとする母親を追い払いながら焼き上げた、オレンジブラウニー。
順に混ぜて焼くだけとはいえ、仕上がりを見るまでは本当に緊張して。
焼き上がったブラウニーの端を食べ、その味に安堵して。
家族に少し残した以外は、すべてなつきへの袋に詰めた。
黒い生地に艶めくオレンジ。
ブラウニーの定番であるクルミより、この方が自分たちらしいと思えた。
袋を揺らさないよう細心の注意を払いながら全速力で飛田家へ戻り、門の少し手前で息を整える。
気合を入れるように大きく深呼吸してから門を入ると、ここを出る時と同じ場所になつきがいた。
門灯の灯りに照らし出されるその顔が、自分を見つけ少し綻んだように見えた。
「入ってろって言ったのに…」
寒くなかったかと心配する一方で、待っていてくれたことに喜びを感じる。自分が持つ紙袋を見るなつきの手にも、小さな赤い紙袋があった。
勘違いでなかったことが、本当に嬉しい。
「あげる」
手提げの紙袋を突き出すと、なつきも慌てたように紙袋を差し出してくれた。
「わ、私からもこれ…」
なつきから手渡された紙袋。
にやけそうになるのを必死に堪えて礼を言うが、気付かれたのかもしれない。あんまり意味はないのだと釘を刺されたが、それでも嬉しかった。
「…それ、さ」
なつきが自分の渡した袋の中身を気にしているようなので、ちゃんと説明しておこうと思い口火を切る。
「……もらえると思ってなかったから。それなら俺からって思って」
「…見てもいい?」
頷くと、なつきは取り出した袋を見て、暫く固まり、これ、と呟いた。
もしかして嫌いだったのだろうかと戸惑っていると、ものすごく驚いた顔でなつきががばりと自分を見る。
「篭崎作ったの??」
思わぬ大声に、驚くよりもうろたえて。手作りのものを渡すなんて、もしかしてひかれただろうかと不安になり、買うのが恥ずかしかったのだと言い訳する。
「ごめんな、買ったやつの方が美味しいってわかってたんだけど…」
自分が作ったものなんかで悪いなと思い、そう謝っていると。
何も言わずに自分を見ていたなつきが、突然手を出してきた。
「もう!! 信じらんない! そのチョコ返して!」
言われた言葉に驚いて、思わずうしろに隠す。
「やだよ。俺のだもん」
もらえるなんて思ってなかったなつきからのチョコレート。
返すなんてとんでもない。
「返してってば〜!」
わざわざ買ってくれたチョコレートは自分が作った菓子なんかでは不釣り合いだろうけど。でも絶対に返したくない。
これはもう自分のなんだから。
ホワイトデー、奮発するから。
そう心の中で呟いて。
また明日、と言い残して逃げた。
自宅に帰り、部屋に駆け込み。
陽は机に紙袋を置いてから椅子に座り込み、しばらく突っ伏す。
込み上げる喜びと、気恥ずかしさと。
顔だけ上げて、紙袋を眺めて。
そろりと開けて、取り出した箱を眺めて。
意を決し、箱を開ける。
ころんと丸いトリュフチョコレートが三つ。
ものすごく悩んでから、端のひとつをつまみ上げた。
そのまま見つめて。指先で溶ける前に口に入れる。
甘く、そして柔らかく溶けていくチョコレート。
なつきからのチョコレートに自分の作った菓子が釣り合わないように。
自分が抱く気持ちもまた、なつきの気持ちとは釣り合わないものなのかもしれないが。
とりあえず、来月も訪れる予定ができた。
今度は堂々と買える。
何にしようかと、今から考えながら。
陽はチョコレートの箱を閉じた。
ハッピーバレンタイン、ということで。【チョコレート】です。
ホワイトチョコとその派生が好きです。アーモンドやピスタチオも固形ではなくペーストでホワイトチョコに混ぜ込んだものの方が好み。
黒チョコならハイミルクやキャラメルなど、甘い方が好きです。
製菓にも普通に板チョコを使います。
この時期は百均が充実していて嬉しいです。
バレンタインデーのチョコレート。
溶かして固めたってテンパリングもできずに質が落ちるだけなので。作るならチョコそのものよりも、チョコ味の何かにしたほうが正直無難かと思います。
…小池に飾り付ける能力がないから言っているのではないですよ………。




