第九景【チョコレート】表
甘くて苦い気持ち。
その日、なつきは久し振りにいつもの時間に外に出た。玄関ではなく、門の傍、道路が見えるところまで。
外に行くわけでもないのに肩から下げたトートバッグの中には、小さな紙袋がひとつ。
今日は二月十四日。
バレンタインデーだ。
「なつきはチョコあげないの?」
「えっ??」
先週末。友人の突然の問いに、なつきはびくりと身をすくめる。
「チョ、チョコって…」
「バレンタイン。誰かにあげる?」
裏返ってしまった自分の声に動揺しながら友人を見るが、特におかしいと思われてなさそうだ。内心ほっとしながらあげるよと答えると、誰かと詰め寄られる。
「お父さん」
「お父さんは別枠!」
なんだぁ、とがっかりした声の友人。そういうそっちは、と話を振りながら。
ごまかしてごめんねと、こっそり謝った。
母親と一緒に父親へのチョコレートを買いに行った時に、もうひとつ。
母親には友チョコだと言い張って、自分で選んで、自分で買った。
陽への、チョコレート。
友チョコなのか、違うのか。自分にもわからなかった。
買ってしまってから今日まで、机の上に置かれていた赤い紙袋。つけてもらえたメッセージカードには結局何も書けず、入れられなかった。
ありがとうでもない。
よろしくねでもない。
もちろん、好き、でもない。
陽だけが他の誰とも違うから。
なんとなく特別で、なんとなく大事で。
なんとなく、一緒にいるのが嬉しくて。
この気持ちを表す言葉が思いつかず、白紙のままのメッセージカード。
今もまだ机の上に残されたままだった。
冬になり、庭にこなくなった陽。学校ではそれほど頻繁に話すわけでもなく、顔すら合わせない日さえあった。
陽が部活から帰るいつもの時間だからといって、外で待つ理由もなく。
ちょっとコンビニに行くから、とでも言って途中まで一緒に歩こうかと考えたりもしたが、同級生に見つかるのは恥ずかしく。
結局出られないまま日が過ぎて。
あれだけ毎日会って話をしていたのに、ふつりと途切れてしまった。
自分たちはそれだけの関係なのだといわれているようで。その距離感に、時間が経てば経つほど出られなくなってしまった。
どこか寂しく思う自分に気がついていたものの、ずっと行動に移せず。
だからこそ、今日。
少しでも理由をつけて、陽を待ちたかった。
陽を待つことで、わからぬ己の思いと向き合いたかった。
門灯の下、日も沈みかけて。
住宅街のさほど広くもない道路。規則的に並べられた街灯と家々の灯りは道行くに十分な光量で、幻想的とは程遠い。帰路を急ぐ人の中、見慣れた制服を目にするたびにいちいち跳ねる鼓動に辟易しつつ、ただひとりの姿を待っていた。
じわじわと足裏から伝わる冷たさが不安をあおる。冷えた指先をコートのポケットに突っ込んで握りしめた。
陽が来ていた頃はこの時間でもまだ明るく、もちろん寒くもなく。呼び止めずとも陽は庭に入ってくるので、本当にここを通るかと心配することもなく。
庭に出れば、そこで会えた。
ただ季節が変わっただけなのに、と。
約束もなく待つ不安を噛みしめ、なつきは寒空の下立っていた。
いつもより少しだけ遅く、陽がようやく通りかかった。目が合うと少し驚いた顔を見せ、小走りで近寄る。
「飛田?」
「あ、あのね…」
トートバッグに手をかけようとしてから往来であることに気付いた。慌てて陽を庭に引っ張り込む。
「渡したいものが…」
「ちょっと待って」
最後まで言う前に遮られ、トートバッグにかけていた手が止まる。
今日この日に渡したいもの。陽にだってわかるだろうに―――。
怖くて陽の顔が見れなかった。
本命じゃないから。ただのお礼みたいなものだから。
そう軽く言って渡してしまえばいい。
友チョコなのだと、そう言えばいい。
陽の顔を見ないまま口を開きかけるが言葉が紡げなかった。
本命なのかはわからない。
しかし間違いなくただのお礼でも友チョコでもないのだ。
何か言わないと。
焦るなつきの隣、陽が軽く息を吐いた。
「飛田」
かけられた声は、今まで聞いたことがないほど優しく。
目を瞠り陽を見ると、少し照れたように笑っている。
「ごめん、すぐ戻るから。ちょっと待ってて」
「篭崎?」
「寒いから家入ってろよ? ちゃんと鳴らすから」
そう言い残し、陽は庭を出ていった。
呆然と見送ったなつき。はっと我に返り、トートバッグから紙袋を取り出す。
すぐ戻ると陽は言った。
同じ待つ身に先程までの不安はない。
冷え切った指先も、凍えた頬も。
今はほんのり温かかった。
言葉通り陽はすぐに戻ってきた。制服のまま、クラフト地の小さな手提げの紙袋だけを持っている。
「入ってろって言ったのに…」
変わらず外で待っていたなつきに呆れたような声をかける陽。紙袋を見るその視線に気付き、少し笑って突きつけるように差し出した。
「あげる」
「わ、私からもこれ…」
我に返ったなつきも手に持っていた紙袋を渡した。
互いの袋を交換したものの、そこからどうしていいかわからず陽を見る。門灯の黄色がかった光の下、受け取った紙袋を眺める陽は少し嬉しそうな顔をしているように思えた。
「ありがとう」
喜んでくれたのだろうかと、そんなことをぼんやり考えているところに礼を言われて飛び上がりそうになる。バレンタインデー当日に帰りを待ち伏せて渡したチョコレート、どういう意味に取られたのだろうかと急に心配になった。
「あっ、あんまり意味とかないからね? なんとなく渡したかっただけなんだから」
「わかってるけど。それでも嬉しい」
天邪鬼な自分の言葉にも、陽の返事は優しくて。
それ以上何も言えなくなって、なつきは口を噤み、視線を落とした。
「…それ、さ」
沈黙を破ったのは陽だった。
「……もらえると思ってなかったから。それなら俺からって思って」
唐突な話が自分のもらった紙袋の中身のことだと気付いた。紙袋の上からは透明の袋と赤いリボンしか見えない。
「…見てもいい?」
頷く陽に、なつきは中の袋を引っ張り出した。赤いリボンが結ばれた、透明の袋。中にはひとくちサイズのブラウニーがいくつも入っていた。
「…これ……」
どう見ても手作りのブラウニーに、なつきは驚いて陽を見る。
「篭崎作ったの??」
なつきの大声に陽は居心地悪そうに視線を揺らし、小さく頷いた。
「男がこの時期にチョコ買うのはやっぱちょっとアレで…。姉ちゃんに便乗した」
恥ずかしそうに陽は言うが。
こちらは買ってきただけなのだ。
それなのに、男子の陽に手作りの菓子を渡されるなんて。
陽は慌てた様子で、買ったものではないことを詫びてくるのだが。
―――どうしていいかわからない。
暫く呆然と陽を見てから、なつきはばっと手を差し出した。
「もう!! 信じらんない! そのチョコ返して!」
「やだよ。俺のだもん」
声を上げるなつきに、慌てて陽が紙袋をうしろに隠す。
「返してってば〜!」
「やだって。じゃあまた明日!」
数歩後ずさった陽が脱兎の如く駆け出した。
「あっ」
逃げられた、と思ってから。陽にお礼を言っていなかったことに気付いた。
四角く切られたブラウニー。チョコレート色の生地の底、キラキラとオレンジ色の帯が見える。
自室に戻り、暫く眺めて。
袋を開け、ひとつつまんで口に入れる。
チョコレートの甘い香りにほんのりオレンジが混ざる。甘さの中に、チョコレートとオレンジピールの苦味を感じた。
「美味しい……」
甘くて苦い菓子を飲み込み。
込み上げる想いを呑み込み。
なつきは置きっぱなしのメッセージカードを手に取る。
少し悩んで、書き込んで。
明日もまた同じ時間に。今日言いそびれた礼を言って、入れられなかったこのメッセージカードを渡すことにした。




