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木下柚月の一幕


 お姉ちゃんしてんです





 

「私のお姉ちゃんでいてくれて、ありがとう」


 私はその言葉が唐突に聞こえてきて、どうにも頭が働かなくなってしまった。

 だって、私の、私の生きる意味だった水月が。

 あの豪胆で気の強い、ツンデレの水月が。

 そう、言ってくれたから。


 だから、私はどうしてもこうなってしまうのは当たり前なんだ。


「お、お姉ちゃん……?」


 こうして泣いてしまうのは当然なんだ。




 私がお姉ちゃんだって初めて認識したのは私が物心ついた頃だった。


 あの温厚で優しい母が「柚月がお姉ちゃんなのよ」と言って、その手に抱く赤ん坊を見せてくれた時だ。

 あぁ、この子が私の妹なんだって。

 この子のお姉ちゃんが私なんだって。

 その時に直感的に感じたんだと思う。


 だから私にとって水月は何よりも愛おしい最愛の妹で、初めて目を合わせた時から私の人生は水月のお姉ちゃんであることになったのだ。

 何よりも水月が優先で、自分が自分であるより、水月のお姉ちゃんが柚月であることを私は勝手に納得してしまっていた。


 お姉ちゃんは妹を何があっても守らなくちゃいけない。


 お姉ちゃんは妹を不安にさせてはいけない。


 お姉ちゃんは誰よりも妹のそばにいなくちゃいけない。



 でも私はそれ以前に、それを実行できるだけの肝が据わっていなくて、引っ込み思案な性格だった。

 妹を守らなきゃいけないお姉ちゃんである私は、どうしてもそういう場面においてことごとく妹に守られてきた。


 例えば隣の家の番犬のときだってそうだ。

 私が水月を守って進まなくちゃいけないはずなのに、いつだって及び腰になっていつのまにか水月の跡をついていた。

 たまに吠える時があっても、私は大抵水月の小さな背中に顔を埋めるし、そんな様子に水月もやれやれ、と言った様子だったのを覚えている。


 そんな私がその性格が邪魔をしてもなお、妹を守らなくちゃいけない時がきたのだとしたら、私はどうするんだろう。

 そう言うことを次第に考えてた時、私の家は次第に崩壊していった。

 奇しくも私が想像していたようなことが目の前に迫っていたのだ。


 あの優しかった父が暴力を振るうようになって、穏やかだった母が酒に溺れるようになる。

 それだって最初は私は怖い、と思って耳を両手で塞いでいた。


 あの大きな拳が当たればいたいんだ。

 下手にお父さんの前に行ったら、きっと犬に怯えているよりずっと怖いことになるんだって。

 そう私の引っ込み思案な部分が言うんだ。


 でも、そんなある日、私は見てしまったんだ。

 水月が、何ににも動じずにいた水月が、お父さんに殴られていたのを見たのだ。


 多分それからだと思う。

 私はそんな恐怖がどうした、と。

 怖いから水月があんな目にあっていいはずがないと思ったんだ。


 それからお父さんが家を出るまでずっとその恐怖を前に殴られ続けた。

 怖いと思ったし、逃げたいと思った。

 でも私はお姉ちゃんなんだって。

 犬から守ってあげられなかったけど、せめて水月はあの屈託のない笑顔で笑っていてほしいとそう思って。



 でもとある日。

 お世話をしていたミケを追って林に入ったあの日。

 私は大怪我を負わされた。


 殴られ、蹴られ、また殴られ。

 お父さんの比じゃない暴力の波に、さっきまで食べていた物が逆流し出すほど。


 でも私は必死に耐え抜いた。

 せめて水月が逃げられるようにって。

 私はどうなってもいいから、水月だけは無事にいられるようにって。


 そうして意識を失った私が次に目を開いた時、きっと私を担当してくれた男の医師を目の前に言いようのない悪寒を感じた。

 次に喉のイガイガが止まらなくなって焼けるような感覚が襲っていた頃には空の胃から絞り出すように胃酸を吐き出していた。


 体の震えが止まらずに、血の気が引いたように意識が混濁する。


 私は男性恐怖症となっていた。

 それも目を合わすだけでも吐き気や、血の気が引いてしまうほどに重症の。


 それでも私は水月の前でだけは決してそんな姿は見せてこなかった。

 私は妹である水月を守るのは当然で、こうなってしまったことに水月は関係ない。

 全て相手が悪いんだから、水月が気にやむ必要なんて一ミリたりともない。


 でも私は退院してもなお、大人の男性を前にすると吐き気が止まらず、一向にその症状が収まる気配など見えなかった。


 これじゃあ、水月を守ってあげることすらできないと思った私は、ある一つの思いつきを行動に移した。

 私が男として認識されるようにすれば良い。

 そうすれば少なくとも男の人の見る目は変わる。

 そして見られることも少なくなると。

 始めはそう言う思いつきだ。


 髪を短く切り、服も男の子っぽいものにして、口調も乱雑にした。

 そうすれば次第に私を見る目も変わっているんだって子供ながらの感覚で実感していたんだと思う。


 だってそれ以来、男の人を前にする程度なら問題なくなったから。




 しかし、それから数年経って私は自分が男の子であると言うのには難しい年頃になっていった。

 中学生になって男子は背が伸び、小学校の頃高かったはずの私はどんどん小さく見られ、そして女の子としての僅かながらの成長も垣間見えていた。

 特に顔は元々整っていたが、成長するにつれ女の子っぽい顔が板について、男の子と自分を騙すには辛くなってきていたのだ。


 だから私はこう考えるようになった。


 私は引っ込み思案で臆病な柚月ではない。

 僕は水月を守るためにいる柚月なのだと。


 私にとって水月が全てであると思うことで、そうある自分を肯定し続けた。

 引っ込み思案な柚月など、水月のために何ができようと、自分でそう言い訳して深く閉ざしていった。

 

 そうして残ったのが今の私。

 水月のためだけに生きている木下柚月だ。





 でも、だから、水月にこう言われたことで私は涙を流さずにはいられないのだ。

 だってずっと私は水月を思い続けていたのだから。


「ごめん、ごめん」


「ううん、私こそ今までお姉ちゃんと自分の本心で向き合えていなかったから」


「そう、だったんだね」



「だから、お姉ちゃんも私に本当の気持ちを教えて。お姉ちゃんの本心を……!」


 私は未だに濡れる眼のぼやけた視界のまま、呆然と水月を見つめていた。

 私の……本心?


 そんなの決まっている。

 あの日からずっと。


「僕は水月のお姉ちゃんだよ……?それ以上でも、それ以下でもない。水月のお姉ちゃんでいるために僕はいるんだ」


「ーー違うでしょ。私もお姉ちゃんが痛いほど私のことを思ってくれてるのは知ってる。だって自分が仕事で忙しい時も私のことを心配し続けてくれてたから。だからわかる、わかるの。それが、それだけがお姉ちゃんなわけないって」


「水月……」


 私には水月の言いたいことがわからない。

 私には水月だけだから。

 水月がいるから私は僕でいられるから。



「最近ね、前にも話した人なんだけど片桐雫君って子と喧嘩みたいに……いや、なんだろうひどい別れ方をしちゃったんだ」


 そういえば最後に会ったのは、紫音のことについて相談した日だった。

 あの時の水月はどこか表情が重苦しい感じだったのを今でも覚えている。

 

 水月は片桐雫がバーチャルユーチューバーであることなんか、知らないんだろうな。


 そういえば紫音が急に初配信のプランを変えたのもそれくらいの時期だったかもしれないことを思い出す。

 相談された日程から考えて、水月が紫音といい別れ方をしなかったのにどこか原因があったのだろうか、と少し思考が飛んでしまう。


 ダメだな。

 なんか最近はよく思考が混濁しがちだ。



「お姉ちゃんは知らないからわからないと思うんだけどね、その雫君って結構お姉ちゃんに似てるんだ。もちろん性格とか容姿とか全然違うんだけどね、ただ自分の本心とか、なんというか自分自身っていうのに蓋をしているところがなんとなく似てるんだ」

 

「そう、かな?僕は結構ありのままだと思うけど」

 

「そう言うところだよ」


「そう?」


「うん、そういうところ。だってお姉ちゃん無理してるって顔してるもん。ううん、実際はもっと根強い闇」


「お得意の感情を読めるってやつ?」


「そうじゃなくてもわかるよ。姉妹だから。だからお願い。お姉ちゃんの本心を教えて……!そして、もっと二人で……!」


「ーーわからない」


 私にはわからない。

 私が自分に蓋をして、本心を隠している?

 じゃあ私の、僕の本心って……何。

 

「わからないよ、水月。僕は君のお姉ちゃんで、ずっとそうだった。そうでしかなかった。それが本心じゃないの……?本心じゃないんだったらなんだって言うの……!?」


 私はずっとお姉ちゃんであることだけが私たらしめていたんだから。


「そうじゃないよ……!お姉ちゃんはそれだけじゃないでしょって言ってるの!だって、今のお姉ちゃんは、このバーチャルユーチューバーを見ている時のお姉ちゃんは本心からの笑顔だった……!心から楽しんでいる瞳だった……!それがお姉ちゃんにとっての本心でもあるんじゃないの!?」


 私はまだぼやけた視界で未だ流れ続けていたテレビの方に視界を向けていた。

 私が入社した頃から同じように活動してきた彼女ら。

 私が憧れた世界に堂々と入っていった彼女ら。


 ずっと私が応援してきた彼女ら。


 そういえばなんで初め、私はバーチャルライバーというものを見始めたんだったか。

 あの頃は確か、高卒で採用してくれる会社を駆け巡っていた頃だ。

 私たち二人分の大学に行くお金は到底集めることなんてできなかったから、夢のある水月に進学してもらうために私は働こうとしたんだ。

 それこそ工場勤めでも良いと思ってた。


 それで水月がいいところに進学できたならそれで。


 そんな時にふと目に入ったのがブイチューバーの母、後に親分といわれるようになったこの画面の先にいる一際存在感のあるキミノスイだったんだ。

 その子の歌声が、微笑みが、その性格が私の心に響いていたんだ。

 どうしようもないんじゃないかって、どうすることもできないんじゃないかって。

 そういう不安を包み込んでくれるような、そんな包容力があって。


 そんな彼女を見ることが私の癒しになってた。


 これまで水月のお姉ちゃんであることだけが支えだった私の、今にも崩れそうな心の均衡を保つ、そんな癒し。


「僕の……私の、本心?」


 それが私の本心……なの?

 だって、そんなこと。

 

「お姉ちゃん、何かあったなら、教えて?私はお姉ちゃんの妹だから。今までずっとお姉ちゃんの悩みもいろんなもの全部見ないふりして、いつも通りであることを淡々と過ごしてた。もう、こう言うには遅すぎるのかもしれない。でも、でも、まだ間に合うのだとしたらっ!私に話して欲しい!これまで何も聞いてあげられなかった私だけど、これまでずっとお姉ちゃんに守られっぱなしだった私だけど、今度は!私にお姉ちゃんを助けさせて?」


 そっか、そうなんだ。

 私は弱いんだ……。


「僕ってそんなに苦しそうだった?」


「うん」

 

「僕ってそんなに悩みを抱えているような顔してた?」


「うん」


「僕って、私って本当に水月ちゃんを守ることができてた……?」


 なんだろう。

 これまでずっとどこかにいったと思っていた物が、途端に渦に乗って私の感情を揺さぶるんだ。

 私がやってたことが正しいのか、正しくないのかなんて関係なくて。

 ずっと水月のために生きてきた私は、いつのまにか水月を生きる理由にしてた。


 自分が守ることで守られている人にとって自分が一番であるって思い込んでたのかもしれない。

 水月が私をどう思っていようが、私が水月を守ることで自分が助けられるような存在じゃないって勝手に思い込んでいたのかもしれない。


 でも、違うんだ。

 私は弱い。


 隣の家の番犬にだって腰を抜かすほど、臆病で引っ込み思案で、妹に助けられる存在だった。

 そんな私が自分のその性格までも覆すほどに、水月を守ることを意味にしても、結局は長い長いハリボテの仮面だった。


 こうしてちゃんと向き合おうと思った水月からしてみれば、私は弱くて情けなくて、引っ込み思案な子供の頃の私同然なんだ。


 だからきっといつかのようにやれやれ、といった様子で私に言うんだ。

 本当は助けられてなんかいないって。



「なんでお姉ちゃんがそんなに悲しそうな顔をしているのか私にはわからない。でも、一つだけ言えるとするなら、私はお姉ちゃんに救われたってことだよ。いつだってお姉ちゃんは助けてくれた。だから、そんな顔しないでよ。もっと胸張って、僕が助けたんだから今度は水月が僕のことを助けて、ってくらいに言ってよ……!優劣でも強弱でもない。ーー私たちは姉妹なんだから」


 私たちは姉妹だから。

 

 私が水月のお姉ちゃんだから守るんじゃない。

 私たちが姉妹だから助け合うんだ。


 私は弱いし、きっと私が立っていられるのは僕の虚勢だ。

 でも、私の頬を流れるこの涙が、そんな虚勢の貼った仮初のものだなんて、他でもない私が信じたくなかったんだ。

 それがきっと本当の私。

 

 今私が私でいられる証だ。




(柚月さんは自分を偽ることで男性恐怖症である自分を引っ込み思案で臆病な自分を騙してきたのです。)

 

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 お姉ちゃん天使です、に見えた

 

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