素直になれない君はⅥ
「急に降ってくるなんて……」
「傘も持ってきてないよ……。片桐君は大丈夫……?ってあれ。片桐君は?」
「どうやら先に行ってしまったらしい。君らはそこにいな。私が見に行こう」
「あ、ありがとうございます、緑さん」
緑は多分もう少し先のほうに足を運んだであろう雫の後を一人一人確認しながら進む。
五月と言ってもまだ寒さの残る春。
雨が衣服を濡らしてしまえば自然と寒さも襲ってくるもので、体温が冷え始める。
緑はそんな両腕の肌を擦り合わせる様にして僅かな暖かさを感じさせた。
そうしてどこに行ったのか、確認しながら道を進む。
緑はさっきの二人の話をそれなりに近い位置から聞いていた。
とはいっても声の大きさからして、十分周りの人たちにも聞こえただろう。
それほどまでに感情を吐露させてしまうほど、二人の関係は拗れていると見るのが先決だ。
ここに何か手掛かりがある様な気がした。
彼らは互いに知り合いだとコート上で言っていた。
――つまりは雫と光輝、そして大地は昔に一度いや、何度か会っている?
そして、雫がいることによって不幸を招いた出来事があったということだ。
一体何があったというのだ。
緑には考え付かなかった。
緑は別に、水月のような感情を読む才能も綾香のような直感的な嗅覚があるわけでもない。
ただ経験に基づく判別。
それしかできない。
だから私のような目に合う必要のない人にこの危険を犯す必要なんてないのだ。
綾香は私のように愚直であってはならないんだ。
ただ緑は単純にそう思う。
そう思えば、自分も救われた気になれるから。
ふと暗がりの先、伸びる廊下の奥の方で雨に濡れた靴が足を進めるときの独特の音がこだましていた。
あの先にあるのは非常階段……とトイレだったか。
緑は建物内の構造を思い浮かべながらそう結論づける。
一つしかしない音からも、多分雫はトイレへ向かったのだと緑も考えつく。
そうなのだとしたらトイレから出てきたところで彼から事情を聴こうと、緑がそう思った頃だった。
「ゔぉぇ、ゔゔゔぁぇおぇ」
嘔吐の音だ。
久しく聞くことのなかった嘔吐の音が他でもないトイレの方から流れる。
それも数回にわたって。
水道の音もそれに混ざってなんとも言えない悲痛の音が鳴り響く。
次第に治ったのか、水道の音も止み始め、天井に雨粒が当たって鳴らす音がこの場を支配した。
そしてそこから男、片桐雫が姿を現す。
雫ははじめに緑の存在があることに気づき、そしてこの場にいたという事実があったことに顔を白くする。
顔が白いのはそれが原因かは定かではないが。
「趣味が悪くないですか?浅野さん。こういうのは基本ついてきて欲しくないから早めに移動しているんですよ」
雫はそんな状態でも笑う。
どこか微笑まし気にしていることが相手にとってもフォローしやすいのだろうと思って。
でも緑は違う。
「その薄ら笑いをやめるというのなら考えるとするよ、片桐君」
その発言にピクピクと表情をひつかせているのはハンカチで手を拭いている雫本人だ。
まるでなぜそんなことが言われるのかわからないといったようすだ。
「そうだ、まずその表情をやめろ。実に勘に触る顔だよ」
「勘に、触ったのならすみません」
そういうと男はまるでこれまでの表情が仮面だったかのように剥がれ落ち、どこか無機質な美しさを持った青年になっていた。
これが本当の片桐雫なのか、そう緑が思ってしまうほどに想定とは違う形での変化をもたらした。
いい意味ではない、悪い意味といってもいい変化、退化だろうか。
緑からすればいい意味と捉えられるのだろうが。
「……まぁいい。今日私がここにきたのは君もわかっているだろうが、私がどうしても君を見定めなければいけないと思ったからだ」
「そうですね、さっき聞いた気もします」
「でも、それより聞かなくちゃいけないことができた」
「……なんですか」
「さっきの嗚咽はなんだ。吐くほどのことだったのか?」
「……やっぱり聞いてたんですね」
その無機質な顔でその鋭い目つきを緑へと向けて男は立つ。
それに少し緑もたじろいでしまったのは仕方もないことだ。
「なんでもありませんよ。少し動き過ぎただけです」
「は?そんなもので納得できるはずがないだろう」
「……納得できる答えを言ったらいいんですか……?」
「っ!?私はお前を見定めなければいけないんだ……だから、聞かなければならない!」
「なんですかそれ。そればっかりじゃないですか。ただ体調が悪かった。それじゃダメなんですか?」
「……だって」
そんなはずないじゃないか。
緑は思う。
その嗚咽はどこか苦しみの末に吐き出されるものだと緑は知っている。
その嗚咽の意味を他でもない私が否定しちゃ、ダメなんだ。
「そんなはず…………クシュン」
そこまで緑が言いかけたところで何者でもない緑がくしゃみする。
その音に緑自身が驚き、次に続く言葉が出てこなかった。
「はぁ」
どこか呆気に取られたようにため息をする男は手に持った濡れていない上着を緑に被せる。
上着は室内に置いていたのだろう。
人肌で暖かくなった上着だった。
「これでも着て、早く帰るのをお勧めしますよ」
「え……」
「もう……いいですか」
男はそう言ってこの場を立ち去ろうとする。
トイレの前ではおかしなやりとりだった。
でも、緑はどこかその悩みを発散するように、確信をつく。
「ちょっと、待って」
上着を片手で押さえ、緑は行こうとする男を引き止める。
緑はここで知るのが一番いい機会なのだと、絶好の機会を逃すわけにはいかないのだと。
漠然とただそう思った。
だから緑はこういうしかなかった。
絶対に脚を止めてくれるだろうことを緑は言う。
「ーー私は、君の正体を知ってる。七々扇紫音」
顔を向けていない男が少しだけ震えた気がした。
ば、バレた
ちょっと投稿止まります
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