一ノ瀬綾香の一日
一日の始まりは早い。
朝起きてその眠気まなこな目を洗面所で洗う。髪も適当に整えて、邪魔にならない程度に結んでおく。
あとは朝ごはんを作ってのんびり緑茶を飲んでから大学へ向かう朝だ。
早いといっても特にしなきゃいけないことがあるわけじゃなく、この朝の空気が結構好きだから早く起きることにしている。
ここで忘れちゃいけないのがコンタクトだ。
高校に入った頃から本格的につけてすでに慣れっこではあるが、このコンタクトがないと満足に生活すらできない。目の前の文字もぼやけて見えるほどだ。
そのため夜には毎回洗面所にコンタクトを置いてからベッドに入るようにしている。
ただ、いつも私が置いているはずの場所に今日は何もなかった。
「ん?」
ただ単に見えないのなら近づけばいいのだが、近づいてなおそこには何もない。
「んん?」
洗面台をくまなく探し、あっちにもない、こっちにもないと半ば焦りながら地面にも這いつくばる。
「な、ない」
昨日のことはよく覚えていなかった。寝る前にここに置いた記憶もあったようだし、そうじゃなかったような気もする。まだ未成年だしお酒は飲んでいないはずだった。
いやでも、と思い出せばそういえば隣で水月が二十歳記念ということでお酒も飲んでいたような気がする。
すでに五月に入ってあの日から一週間とちょっとが経ち、ゴールデンウィーク前の最後の日だ。
そしてその一日前、つまりは四月の三十日に水月の誕生日だったわけで、私たち二人で密かに飲み食いしていた。
そうやって回想していくとだんだん記憶が明瞭になっていって、ついには思い出される最後の記憶までたどり着いた。
そこにはやけにぼやける視界があって、隣で驚いたような顔をしている水月が印象的だった。
「まさか……水月のお酒の匂いでやっちゃったの……?」
そんな漫画みたいなことがあるとは思いも寄らなくて、ただその可能性を否定しきれなかった。
これまでも数回こういうことが家族の時にあったから。
ただそんなことより本格的にやばいのは、私が予備のコンタクトもメガネも持っていないことだ。
どちらもここにはあらず、実家の方に残っている。実家とはいっても区を何個か跨いだところにあるのだが。
しかし、今日はこれからゴールデンウィーク前最後の大学だ。
今から取りに行っている暇はない。
「ど、どうしよう……」
このままでは大学はおろか、日常生活に支障が出かねない。
だって目の前に映る私の顔も、ものすごくぼやけてモザイクがかかったように見えるから。
きっと料理にも支障が出るし、ましてやメイクも難しい。
いわゆる乱視も私は含んでいるから、なかなか距離感を掴むのも難しいのだ。
そんなことに悩みながら唸っているとスマホから通知音が鳴り響く。
メッセージを確認してみればそこには水月からのラインがきているのがわかった。
「おはよう(*´∇`*)昨日は大丈夫だった?ごめんね?お酒弱いの知らなかったから( ;∀;)」
なかなかに古めかしい顔文字を乱用した水月のメッセージにも慣れてきた。
なんでもこれで人との距離を推し量っているらしく、顔文字を使うのは距離の近い人のみらしい。
こういう少し不器用なところも水月は可愛い。
「大丈夫!ただコンタクト無くしちゃって……まぁ今日が最後だからいいんだけどね(笑)」
「え、ほんとごめん(◞‸◟)今日は大丈夫そう?」
「うん、大丈夫!ありがとう!」
「じゃあまた大学でねヽ(*´∀`)」
そんなこんなで早い朝を何も見えない状態で過ごし、少しでもいつも通りを意識して大学へ向かう。
大学への道のりに特に問題はなかった。
車には人一倍気をつけて進んだし、歩行者もかなり慎重に見極めて進んでいった。
そのため少し目つきが悪くなっちゃったかもしれないが、ご愛嬌ということで。
そして大学の敷地につくと水月が待っていた。
今日はまだ授業はないと言っていた気がしたのだが。
「おはよう。綾香」
「おはよう!水月」
「本当に大丈夫だったか?昨日はフラフラだったから申し訳ないと思ったりしたが」
「大丈夫だよ!この通り問題なし!」
彼女の前で全く問題ないとポーズを取ってみたが、なぜか反応がない。
「綾香……。私はこっちだ」
後ろから肩をポンポンと叩かれ、背後にもう一人綾香が現れた。
目を細めてはっきりと見てみると、ようやく最初に目の前にいた人物が水月と背格好の似た男の人だと気づき、ごめんなさいと即座に謝罪した。
「まさかコンタクトをなくすとこんなになってしまうとは」
「こんなとは失礼な!これでも矯正後はちゃんと視力1.0はあるんだからね!」
「だから私はこっちだ」
「いや、それ動いただけでしょう!?そのセリフを言ったからって騙されないんだからね!?」
「さすがに分かった?」
そういって水月は含み笑いをして見せる。
見せるといっても雰囲気的にそう感じとっただけだが。
「わかるよ。それにしても今日はまだ授業じゃないんじゃないの?」
「そうなんだが、まぁなんだ。朝早く起きたからちょっと早めに、な?」
「いつも早起きなくせに?」
「今日は特別早かったんだよ。うんそうだ。そうに違いない」
「ほんとかなぁ」
私はにやにやとしながらも構内に足を運ぶ。
水月はどうやらカフェで授業の時間まで過ごすらしく、私を講義室まで見送ってくれるとそこで解散となった。
それにしても彼女はここ数日で、先週までのどんよりとした空気感が晴れ、完全とは言えないがこれまでの先輩のような明るさが戻ってきていた。
なにより笑顔が前よりきれいになったかのような気もした。
これもきっと親友に慣れたからなのだと思いたい。
かくいう私も自身の抱えているものを打ち明けることができた、という意味でより一層彼女に対して親密になれてと思っている。
それこそ彼女と同じ人が好きだというライバル関係であることすらも忘れてしまうほどに。
そう感じてしまうほどに私たちは友人としていられているということなのだと思う。
そんなこんなで講義を受けてはいるものの黒板にかかれる文字が全く見えない。
話している内容で補完するしかないが、やっぱりかなり不自由だ。
私の知らない単語が出てきたときにはもうショートしそうになるし、なんだか黒板すら見えない自分にどんどんストレスもたまっていくような気がした。
いや、実際たまっていただろう。
だって手元のノートにはおよそ言語とは呼べないなにかがつづられているのだから。
だめだ、これは今日の講義が終わり次第すぐに実家に急行しなければ、と思った頃にちょうど講義の終わりが重なる。
ただ、今日はまだまだ長い。あと三コマあるのだから。
そんなため息をついたころだった。
「おはよう、一ノ瀬さん。ちょっといいかな?」
「あ、はい。なんでしょう」
目の前のほうから声を掛けられるものの、なかなか顔を認識できない。
声はそこまで聞いたことのある声ではないし、知り合いではない、か?
「実はここら辺のメンバーと後輩でゴールデンウィーク中に合コンしようと思っててさ。どうせだから一ノ瀬さんもどうかなって」
「いえ、多分休み中は予定入れると思うので、それにバイトもありますから」
「そこを何とか!一日だけでも……」
「そういわれても……」
誰とも知れない人の誘いなんて怖くて受けられない。
誰かわからないのは私のせいでもあるのだろうが。
そうはいっても仕方のないことなのだ。どうにかお断りしよう。
そう思った頃、どこからともなく声が聞こえてきた。
「あれ、綾香じゃん。おっすー」
講義室の外から覗き込むようにして顔を出してきたのは、この大学随一の美貌を持つともいわれている去年のミスコン一位の女性である、浅野緑さんだった。
声から判断するに。
「緑さんっ!!」
「わぁほんとに浅野さんじゃん……!!」
「綺麗……」
そして周りに集う一年生たちもそんな反応をしているところを見れば、多分この上半身青、下半身黒の人物は件の浅野緑さんなのだろう。
「あれ、お~い。あ~やか~~」
するとふと横から視界が手によっておおわれたと思うと、なぜか横から緑さんの声が聞こえた。
「あれっ、いつの間にこっちに……!?」
「いつの間にもなにも普通に来たんだけど」
そしてもう一度彼女を視界に映すと、今度は上半身黒で下半身が灰色の人物が出てきた。
少し近づいてみてみれば、おしゃれな服装をしているのがわかったから多分こっちの緑さんが本物なのだろう。
偽物も何もなかったわけだが。
「いきなりどうした!?ちょっと近くないか?」
いつの間にか目の前にまで迫ってしまったらしく、私の瞳にもしっかりと焦った顔をした緑さんが映りこんだ。
「ん?まさか今、コンタクトしてないのか?」
「そうなんですよ。ちょっとなくしちゃってて」
「待て、それで今日一日を過ごすつもりなのか?」
「?はい。そのつもりですけど……」
「ちょっと来な!」
そうして私の手を強引につかんで急ぎ足でどこかに向かう。
私は名前も知らない合コン男君にごめんね、と言って彼女にされるがままついていった。
向かったのは空き講義室らしく、この時間には使われていない無駄に広い空間だ。




