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木下水月と欷泣Ⅱ


 私はどこかで思い違いをしていた。

 一ノ瀬は強い人なのだと。

 私みたいにこんなに脆くて弱くないと。

 私はどこかで一ノ瀬は自分の過去とは折り合いをつけて、それでもなお雫君への想いをその胸に秘めているのだとそう思っていた。


 でも彼女の顔はそんな強さがある人の表情ではなくて、どちらかというと不安でどうしようも無いっていう感情が見え隠れする私のような、そんな表情だった。


「先輩も片桐君が好きだったんですね」


 彼女はそう言った。


「私も好きです。好きでした。好きだったはずでした」


「……はず……?」


「先輩は私に付き合ってた頃の話を聞きにきたんですよね。私がこの前あやふやにしか話せなかった話を」


 私はそんな一ノ瀬に辛うじて肯定と取れるような相槌をした。

 確かに私はそれが目的だった。

 でも、今はそんなことより一ノ瀬自身のことを聞かなきゃいけないと思った。

 こんなに不安定な様子が見て取れたから。


「そんな顔しないでくださいよ。私、先輩のこと本当に凄い人なんだなって思ってたんですよ?自分の思ったことはすぐに言っちゃうし、そんなクールビューティーな感じなのに案外気さくだったり人の気持ちなんかがすぐにわかっちゃったり。何より自分がなにを大事にすべきなのかわかってるみたいで、羨ましかったんです。こんな人の近くにいれば私ももっと自分に自信を持てるのかなって」


「私が……?」


「はい。私なんかよりよっぽどふさわしい人だって思うくらいに」


 その相手が誰かだなんて言わなくてもわかる。わかってしまう。


「だって私は逃げたから。片桐君のそばにいちゃいけないって思っちゃったから」

 




 始まりは中学の一年生、終わり頃の話だったという。

 その頃はまだ、その男の子が他クラスで有名な片桐雫君とは知らずに出会ったらしい。


「おい、大丈夫か?立てる?」


 彼女がグラウンド近くで転んだのが全ての発端だった。

 その頃から雫君はサッカー部で一年生にしてフォワードのレギュラーを務めて、既にチームのエースと呼ばれていたらしい。

 そんな彼が当時いじめられていた彼女を助けてくれたことが彼女が彼に惹かれた理由というわけだ。


「なぁ、一ノ瀬はなんでいじめられてたかわかってる?」


「う、ううん。わかんない……」


「じゃあちょっとこっち向いてみ?」


「えっ……?こ、う……?」


 すると彼はおもむろに彼女に近づいたと思うと頭を撫でた。


「この髪と、お前の態度だよ。ちょっとごめんな」


 そう言って彼は彼女の前髪を触ってどかしてみせる。ただそれにびくりと反応して目を背けるようにそっぽを向いてしまう。


「人と目を合わせるのがそんなに怖いか?」


「だって、私なんかがみんなといちゃ、みんなが楽しくないって、つまらないって思うと思ったら……」


「みんなに見られるのが怖い、か?」


「う、うん」


 彼女はもともとあまり自信を持てるタイプではなくて、どうしても自分を下に見てしまうような人だった。


「もったいないよな〜。一ノ瀬はみんなにつまらないって思われながら生きてるってことだろ?それってもったいなくね?」


「そ、そんなこと言っても……みんなの視線が怖くて、みんなと話すくらいなら一人でいた方が……」


「いいのか?本当に?」


 彼はその時彼女の顔を強引に前に向かせたらしい。

 ちゃんと目が合うように。


「う、うん。一人でいた方が……いいもん」



「はぁぁ、そうかよ。じゃあ時に昨日のアニメは見たか?」


「見たよ!特に昨日はヒロクラがすごかった!ドクが仲間のために能力使うところとか、すっごいカッコ良かったよ!」


「いやそれよかこのせかの方が良かったって。普段は見せないシリアスな雰囲気かと思ったら後半では敵と談笑してるし、借金は増えるわで」


「それ、深夜じゃん!子どもはちゃんと寝なきゃ!」


「俺は自己管理しっかりしてるからいーの」


 そんな会話を続けていた。

 互いの好きなところとか、次はどんな展開になるのかとかそんなこと。

 なんでもアニメしか趣味のなかった彼女は、同じくアニメを見ている人に飢えていて、助けてくれた雫君がアニメ好きだと知るとついには仲間意識が芽生えていた。



 ひとしきり語り終えると彼は言った。


「ほら。一人じゃ、こんなこと話せないぜ?」


「っ!ち、違うもん。別に楽しくなかったし……」


「本当に?」


「ほ、本当だもん」


 じーっと彼は見つめていた。


「本当だもんっ!」


「くっ、あははは。おっかしーの。あんなに語っといてそんなことないって。それに、俺は楽しかったぜ?」


 彼女はその言葉と彼のその実に楽しかったとでもいうような笑顔に赤面してしまう。


「これで少なくともお前といてつまらないって思わない奴が一人できたわけだな!にしし」


「わ、笑うなぁ」


 そんな彼との出会いで、いじめられていた彼女はいつのまにか、彼によって助けられていた。

 始めは部活の前のちょっとした時間に話し合っていたりしたし、少し経ったら昼の時間に二人きりでいろんなことを話し合った。


 ずっとアニメの話をしていたし、次第に彼女もそれが楽しくないと偽ることはできなくなっていた。

 そう思う頃には、もう彼女は彼にめっぽう惹かれていた。



 そうして二年生になって数ヶ月が経ったある夏の日。

 彼女は彼に告白していた。

 彼の好きなアニメとか、好きなキャラとか、嫌いなアニメとかは知っていたのに、肝心の彼の名前を彼女は知らないままだった。

 彼女にとって彼はどんな人であっても唯一の人だったから、名前を聞く必要すらなかった。

 だから彼に告白して、そして彼に承諾された時初めて彼女は彼自身のことを知った。

 

 彼の名前が片桐雫だということを。

 彼が一年生にしていろんな人から慕われていた凄い人だったということを。


「ねぇ、片桐君。片桐君はなんで自分のこと、一切教えてくれなかったの?」


「……教えなかったっていうより、言うのを忘れてたってだけだけどな。だって自己紹介するくらいなら、アニメの話をしてた方が楽しかっただろう?俺もすっかり教えてなかったことなんて忘れてたんだよ」


「そっか、そうだよね。ねぇ、片桐君。私たち付き合ってるんだよね」


「あぁそうだな」


「なら私のこと綾香って呼んで?だってアニメの人とかみんな名前呼びだもん」


「アニメで言ってたからかよ……。ま、いいけどな。よろしくな、綾香。俺のことも雫でいいんだぞ?」


「それは、もうちょっと心の準備ができたら……」


「そこはしないのかよ。ま、いいや。よろしくな、綾香」


「うん!」


 彼女は彼といる時間だけが楽しくて、彼といるときだけ彼女は自分らしくいられた。

 それから周りには密かに付き合うことになった二人はアニメの話題はもちろんしたが、次第に互いのことも知っていった。


 彼女の好きな彼は実は凄い人なんだって、そう知った時には彼女はどこか誇らしげさえ感じるほどに。

 そして夏休みには二人で遊びに行ったりもした。

 付き合いたてで恥ずかしさを感じる彼女ではあったが、何事にも物怖じしていない彼がエスコートしてくれたおかげでとても楽しい時間であったと言う。



 そんな密かな付き合いをしていても、それが周りにバレないことなんてなくて、相手が雫君ということも相まって秋を感じ始めた頃には既に学校中の噂となっていた。


 曰く、片桐君はうちの学校の生徒と付き合っている。

 曰く、片桐君の彼女はモデルみたいに可愛い人である。

 曰く、片桐君は告白されたらしい。エトセトラ。


 まったく違ううわさも流れながらもそこにはまぎれもない事実も紛れ込んでいて、学校中で噂は広がっていった。

 彼は彼女が思っているよりよっぽどいろんな人から好かれていて、そんな単純なことに彼女は気づけていなかった。

 それこそ彼を好いている人間がほかにもいっぱいいることにも。

 彼女はそんな噂が流れ始めてから彼と会う時間が減っていった。

 彼が嫌いになったわけでも忙しくて会えないわけでもなかった。でもどこかで彼と会うことにどこか迷いを感じてしまっていた。


 彼の恋人は私みたいな根暗な人間ではあってはならないから。そう思っていたらしい。

 噂というのは残酷で、事実でなくとも流れてくるのは誰かが思う雫君の理想なのだ。

 実際には見たことがなくても雫君の彼女はかわいくて雫君にぴったりなのだという理想。

 雫君から告白はしていないから私が選ばれなかったわけではないという理想。

 そんな絵空事が少しの事実とともにまことしやかに流れるのだ。


 そんな噂が彼女にとって小さな歪になって、やがて自分への重荷になっていった。

 彼はそんな噂など気にしなくていい、と言った。

 でも気にしないなんて彼女には出来なかった。

 もとより他人の視線に敏感だった彼女は、彼と一緒にいることで初めて一人じゃない楽しみを知ったのだ。

 そんな彼女が噂を、雫君の彼女として見られる自分を気にしないことは出来なかった。


 初めは噂は噂だと割り切ろうと思っていた。

 でも次に考えていたのは、彼女は彼にふさわしいのだろうかという葛藤。

 そして噂されているに値する人間なのだろうか、と考えたころには、彼女には雫君という男の子なんかの隣にいていい人間ではないことを悟った。

 こんなにも片桐君は凄いのに、私には何もない。何も凄くない。

 

 彼女は彼に救われた。

 でも救われたのは彼女だけではない。

 彼女ではない人間もまた雫君という人によって助けられていた。


 だから私なんかが彼の特別であってはいけないのだ。


 そしてそう彼女が結論付けた時には彼女はもう彼の待つ場所に足を運ぶことはなくなっていた。

 それからしばらくして噂が広がることもなくなり、その場所に完全に訪れなくなったのは中学の二年、冬空が寒さを運ぶそんな季節であった。


 青春とも言えない彼女の、独りよがりな恋だった。



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