木下水月と欷泣
やっと続き
手で頬を触ってしまえば、いつのまにか右目から一筋の涙が溢れていた。
夕焼けに染まる空が妙にぼやけて見える。
「泣いてる……の?私、が?」
泣くはずない。
だってもう泣かないって決めたはずだから。
お姉ちゃんが私を守ってくれるんだったら、せめて私はこれ以上傷つかないんだって。
涙なんて見せたら、傷ついてるって思われちゃうから。
だから泣かないんだって、そう、決めたはずなのに。
「先輩……。ごめんなさいっ!」
一ノ瀬はそう言っていつのまにか私の前に立って、そして私の顔が彼女の豊かな抱擁によって包まれた。
「なにか悲しいことがあったら、心臓の音を聞くといいんだってお母さんが言ってたんです。どんな悲しいことも、どんな恐ろしいことも、その音を聞けば自然と和らいでくるって。だから……」
彼女は私を優しく包容してくれる。まったく後輩にこんなことさせてしまうとは、先輩失格だ。
「まだ話せないんだとしたら今度教えてください。いつか話せるようになるまでこうしてますから」
「…………一ノ瀬」
「ーーなんです?」
「……もういい、大丈夫だ」
「え、でも」
「大丈夫だ!」
私は強引に彼女の抱擁を振り解き、瞬時にバッグで顔を隠す。おそらく今の私はおよそ人には見せられない顔をしている。
「先輩……可愛い……」
「か、可愛いとは心外な!私だって後輩にこんなことされるなんて思っても見なかったんだから」
「やっぱり……可愛い」
「なっ、可愛い言うな!」
「そんな先輩も可愛い」
私が一つ表情を変えれば可愛いと言われ、一つ口をうねらせていれば可愛いと言われ、一つ顔を赤くして怒って見せれば可愛いと言われる。
「うゔぅ、私としたことが後輩にこんな辱めを……」
「辱めだなんて……そんなことしてませんよ。あ、可愛い」
「えぇい、それだそれ!私なんかに可愛い可愛い連呼するな!!」
「えぇ、いいじゃないですか。実際こんなに可愛いのに」
「可愛くない!」
「可愛いですよ。往生際が悪い先輩にはこうです!」
「ゔっ」
すると一ノ瀬は再び私の頭を胸に押し付けるようにして包容してくる。
彼女の豊満な胸に押し付けられた私はなんとか言葉を出そうとしても、もごもごと口を動かすことしかできなかった。
「今日はなんだか先輩の新しい一面が見れて嬉しいです」
瞳だけを動かして彼女の顔を見てみれば、どこか清々しい顔をしていた。
そういえば私もついこの前まではこんな表情をしていたのだな、と思い出す。
どこか自信家で、時にはっきりと物事を言うけど、それよりそれで相手が変わってくれたならそれが一番の喜びで。
そしてそんなことよりも強い一途な想いを持っている。
どんなに変わろうともその想いだけは変えたくない、とはっきり伝わるようなそんな顔だ。
「実はあの後、雫君の病院に連れ添った帰りに話をしたんだ」
私はおもむろに話し出していた。
すでに押し付けられているわけではない頭は、口もはっきりと動き言葉にもできた。
そして私は雫君と話したことを、どこかで懐かしみながら話していった。
彼は自分が助けたにもかかわらずもっと最善の方法があったんじゃないのか、って言っていたことも、彼はどこかで自分が誤っていると思ってい込んでいるってことも、彼が自分のことに興味がなくなったから自分が何者なのか分からなくなった、と言っていたことも。
そして最後に、彼は誰かの思う彼、仮初の姿で自分を覆って、あらゆる感情を押さえ込んでしまっていることも。
今の彼は雫君でありながら、一ノ瀬の知る片桐雫でもなければ、私の知る片桐雫でもない。
多分これまでの全ての片桐雫が培ってきた経験による、世間の求めた片桐雫なのだ。
そう私は伝えた。
彼女にはちゃんと伝わっているだろうか。
伝わったところで信じてはくれていないだろうか。
信じてくれてはいても、そんな雫君に追いやってしまった私を責めるだろうか。
私にはわからない。
でも、わからないなりにわかったこともある。
それは多分、これまでずっと嘘をつき続けていた代償なのだ。
初めて会った時から自分を偽ってきた責任なのだ。
だから私はこれを口にしちゃいけない。いけない。
いけないのに、口ではない瞳から涙が溢れて止まらない。
溢れて溢れ続けて、そして、そんな涙に釣られて口からも溢れる。言葉が。
言葉にしてしまったらダメなのに、でも、止まらない。
「私は、雫君が好き。私は雫君が好きなの……」
と。
よりによってまだ雫君を思い続けている一ノ瀬相手に。
彼女は一体どんな顔をしている?
そしてその相手に今抱かれているのだ。
私はどんな顔をして彼女と向き合えばいい?
「そう、だったんですね……」
私は彼女の顔は見えない。
でもその声はどこか暗い。
「……怒ってるかい?」
「そんなわけないじゃないですか。だって……」
彼女はどこか噛み締めるように言う。
「先輩は片桐君と、ちゃんと向き合えてるんですもん」
私はそっと顔を上げて彼女を見ていた。
その顔にはどこか羨望の眼差しを孕んでいた。




