木下水月の憂鬱Ⅳ
もちろん朝方に早く起きて運動するために河川敷に行くことはなくなっていた。
雫君ははたしてまだ河川敷で運動しているのだろうか。
その凛々しい姿でいつものように走っているのだろうか。
でもわたしはいつのまにかこの朝早い時間に目を覚ますことが当たり前になっていて、何のために朝早くに起きているのかはもうわからない。
私の心にはどこか虚しさが残る一方で、そんなモヤを払うかのように動いていた。
雫君に倣って始めたジョギングではあるが、ただ走っているだけでも気は晴れるものだ。
疲れれば疲れるほどなにも考えなくて済むように、なにも考えたくないと私が思っているかのようにただ走り続けていた。
大学の講義もどこか頭に残らない。
私がお姉ちゃんの将来までも奪ってここにやってきたのに。
お姉ちゃんが働いている中、私がこんなことで授業を疎かにしてはいけないのに。
こんなこと?私が雫君の話題をこんなことと言っていいの?
「あれ?先輩、帰らないんですか?」
そんな思考を巡らせていたらいつのまにか講義室には誰もいなくて、時間は授業の終わりを示していた。
そこに通りかかった一ノ瀬が声をかけてきたようだった。
「今日はバイトないんですか?」
「一、ノ瀬。……いや今日は入れてないよ」
「ていうか、いつ先輩って空いてるんですか?先輩ってずっと忙しいイメージがあって」
「そんなことないけどね。今日はたまたま空いていただけだよ」
「じゃあ本来なら今日もあったってことですか!?働きすぎですよ。だからそんなに疲れてるんじゃないんですか?」
そういえば雫君にも言われたな。そんなこと。
「そんなに疲れたような顔してる?」
「してますよ!ちゃんと食べてます?先輩あんまり料理するってイメージないから、一人暮らしだと不摂生な食生活してるんじゃないんですか?」
少し失礼な言い草ではあるが、まぁ自炊は進んでしていないだけだと言っておきたい。
「最近はちゃんと配達で済ませてるよ」
「ダメじゃないですか!栄養偏りますって!」
「そう?ちゃんと食べてるけど」
「ちゃんと食べてるならそんな顔しないでしょう!?」
「ーーそうかな……」
もしかしてそこまで体調が悪いように見せてしまっていたのだろうか。
確かにここ数日はあまり食べてない割に運動もしていたし、美容にもこれまでより無頓着だったような気もする。
「とりあえず、先輩の食生活は後で改善するとして、先輩にはちょっと相談に乗って欲しいんです。今日はバイトもないんですよね?」
一ノ瀬はたまたま通りかかったものかと思っていたが、そうでもなかったらしい。
まだ雫君とのわだかまりは消えてはいないのだろうか。
そう、早々とは消えないか。
「いいよ。食堂でも行く?」
「あぁ、いえいえ。今日は私ではなくて、一個年下の子のことで」
彼女はそうは言ったものの、そのあと小さな声で私もなんですけどね、と囁いていた。
「それより、私なんかに相談してもいいの?察するにまだ高校生でしょう?」
「そうなんですけど、やっぱり不安がってて。私にはどうにも解決できそうになくて。だから先輩の目で解決させてあげて欲しいかなって思って」
「そこまで過信されるのもどうかと思うけど。いいの?私なんかで」
「当たり前じゃないですか。先輩が片桐君のバイト先の先輩だってことには驚きましたけど、私の相談にも真摯に答えてくれましたしそれに……」
「私がサイコロジストって呼ばれているから?」
「いやっ、そういうわけじゃないんですけど、みんな先輩に助けられていますから」
そこまで言われてもいないような気がするけど。
「ーーそれこそ、そんなことないと思うけど。……いいよ。行こうか」
「あ、ありがとうございます。今はその子にカフェで待ってもらってるので行きましょう!」
「えぇ」
それから大学を出てしばらくしたところで、彼女の言うカフェに着いた。
そこは結構いい雰囲気の木造の場所で、それなりの広さもあってカフェ独特の匂いも感じた。
彼女の向かう先には、制服姿でコーヒーを嗜んでいた女の子がいた。
一ノ瀬が結構な美人でありながらも、その子も負けじと溌剌な可愛さを持ってるようだった。
「あっ、綾先輩!お久しぶりです!」
「一週間くらい前にもあったような気がするけどね?」
「もう一週間もあってないんですよ!?綾先輩成分がなくなっちゃいますぅ」
「なによそれ。千代ちゃんは彼氏もいるんだからそんなこと言わないの!」
「圭くんは圭くん。綾先輩は綾先輩なんですぅ。おりゃあ」
千代ちゃんと呼ばれていた女の子は一ノ瀬が近くなり懐っこい様子を見せ、人目がありながらも一ノ瀬に抱きついていた。
私も大概空気を読まないが、彼女は周囲など気にしないといった言った感じだろう。
「まったくもう。せっかく相談に乗ってもらうために先輩を呼んできたのに」
「んん?」
一ノ瀬がそう言って抱きつく千代ちゃんと呼ばれた女の子を引き剥がすと、彼女は私の方を向いて目を丸くしていた。
「綺麗……。お名前はなんていうんですか?」
「わ、私?私は木下水月。一ノ瀬の一つ上で、今日は相談に乗って欲しいって言われたから来たのよ」
「わぁ、髪なんてこんなに長いのに毛先まで整ってる。もしかして体調悪かったりします?」
まさか初めて会った人にまで言われるとは。そこまで顔色悪くなってしまっているのだろうか。ちゃんとご飯食べよう。
「少しね。でも大丈夫。あんまりひどくないから」
当たり障りのないように伝えて私は早速本題に移れるように話題を持って行った。
その時に飲み物を注文したのだが、案外一ノ瀬がコーヒーを飲めないことを知って驚く一面もありながら話を進めた。
「本当にそこまで深刻な話ではなくて、ちょっと聞いてもらいたいなって感じで綾先輩に相談したんですけど、綾先輩に言ったらそういうことならいい人を知ってるって言われてこういう運びになったんです」
「それより、千代ちゃん自己紹介したら?あなただけ先輩から聞いただけじゃわからないでしょ?」
「あっ、ごめんなさい!私は森下千代って言います。綾先輩と同じ学校の三年です」
「よろしく。改めて木下水月。力になれるかはわからないけど、とりあえず一ノ瀬に呼ばれた限りは頑張るよ」
「ありがとうございます!早速で失礼なんですけど、実は私の彼氏の倉野圭って言う同い年の男の子のことなんです。圭くんはこれまでずっと幼なじみで、どこかほっとけない感じもあって彼氏になってからもどこか弱々しい感じだったんですけど、最近はなんか私に対しても素っ気なくて休みの日も全然遊ばなくなって……。もしかしたら圭くん男に襲われてしまったのかもって!」
「ん?」
「一六〇センチの低身長に女の子顔負けな童顔にボブカットくらいの髪がとっても女の子みたいで可愛い圭くんが、もしかしたら誰か毛汚い男と一緒にいるなんて考えたくなくて。もしかしたら私と一緒にいない時に変なやつと遊びに行ったりとか、あわやあんなことやこんなことまで……」
千代ちゃんはどこかその瞳を血走らせるようにしてすごい剣幕で言葉にしていた。
それはもう般若と見紛うほどに。
「もしかして彼女……」
「はい……。千代ちゃんは極度の可愛いものと綺麗なもの好きで、どんなにかっこいい人でも男ってなるとどうしてもこうなっちゃうんです。千代ちゃんの彼氏はなんだか例外みたいで、一度写真を見せてもらったんですけど本当に女の子みたいに可愛い子なんですよ。一種の男性恐怖症みたいなものだって本人は言ってます」
男性恐怖症……。お姉ちゃんと同じだ。
「それに圭くんだってこれまで私と一緒にいるのが楽しいって言ってくれたのに、週に一回遊びを断っていたと思ったら二回になって、休みの日までも断るようになって。そんなの不安でしかたなくて……」
「千代ちゃん。ちょっと落ち着いて……」
「あぁ、ごめんなさい、取り乱しました」
彼女は一ノ瀬によって一呼吸してコーヒーを飲んだ。
「それで相談したいのは、圭くんはなんで私の誘いを断るようになったんでしょうってことです。それがもし男のせいだったらって考えるといてもたってもいられなくて」
そもそも男に襲われるとまで言ってしまうとは、そこまで圭くんとやらは可愛いのだろうか。
それに彼女のあの目。
心底圭くんのことが心配でたまらないといった様子。彼女はどこかで圭くんを自分の拠り所とすることで、男に対する苦手意識を考えないようにしてきたのだろう。
「私も千代ちゃんって呼んでいいかな?」
「あ、はい」
「千代ちゃんは何かその圭くんとの接し方でも変えたのかな?」
「接し方……?」
「例えば、うーん圭くんが変わり始めた頃から千代ちゃん自身が変わったこととか」
少し悩んだ状態を作ったものの、心当たりはないといったように首を横に振る。
「じゃあ、千代ちゃんってこれまで彼とどんな会話を良くしてた?」
「うーん、会話っていってもよく私が話をするのに相槌を打ってくれたり、いろんなことを話してるので……」
なるほど。特に千代ちゃん自身特質して何かおんなじ話題をしていたわけではないようだ。
ただ、聞いて察するに圭くんとの会話で真っ先に出てくるのが相槌となると圭くんはかなりの聞き上手と見るのがいいだろう。となると少し前提が変わってきそうだ。
「ーーもしかして、千代ちゃん、圭くんが彼氏になったのって最近じゃない?」
「え?あ、はい。確かに圭くんとはここ一ヶ月でそういう関係になったんですが、よくわかりましたね」
「え!?そうだったの?てっきりもっと前から付き合ってるものだと……」
そこで意外だというように一ノ瀬は驚いていた。
「そうですよ、綾先輩。ま、もともとが距離近かったのであんまり変わってはありませんからね」
私はその言葉を耳で聞きながら、コーヒーを手に取る。
ここのコーヒーは少し苦かった。
「それで、もしかしてだけど圭くんが変わり始めたのもそのあたりじゃないかい?」
彼女は少し考えるようなそぶりを見せた。
「確かに、そうかもしれません」
「となると、話は簡単かもしれないね」
「本当ですか!?」




