木下水月の憂鬱
ちょっと隙間がつきました
初めて私が雫君を見たのは厨房でうちのレシピとにらめっこしていた時だった。
彼自身厨房を希望したらしく、翌日からはもう厨房で作ってもらう予定らしい。
そんな彼の横顔はとてもきれいだったのを覚えている。まるでどこかの画面から抜け出してきたような非現実感に苛まれそうになるほどに。
私もこれまでいろんな人に綺麗だと、美しいと言われるくらいには容姿は整っているし、それを保つくらいには自分に自信もあった。
でも何故か彼を前にすると、自分自身が心から納得してしまうような美を感じてしまった。それが多分彼を初めて見た時で、私が恋に落ちた瞬間でもあったように思う。
私と同じように休憩室にいて駄弁っている女の子たちはよく彼の話をするようになった。
これまで店に来る男の人たちを数値化して笑い合っていたこの娘たちは、完璧な彼という存在の前でそれはもう興奮していた。
始めは小さい会話がどんどん大きくなっていく。
私はそれを側から見ているだけだったが、なかなか最近の女子高生はませた子どもが多い。
子どもの頃から人の感情を読むのに長けていた私はそういう空間にいると、とても居心地が悪く感じていた。
そんな空間にドアを開いてやってきたのは言わずも知れた彼だった。
厨房側のドアはあまりここから遠くない。
かなり大きな声を上げていた彼女たちの話は十分厨房に聞こえていただろう。
それを察してか、彼女らも彼がやってきたと同時に散々に動いていた口を噤んでいた。
そんな様子に彼は笑ったように口にしたのをよく覚えている。
「もう、時間ですよ。話しても構いませんが、仕事はしっかりしましょうね、先輩」
そんな彼の表情は確かに笑っていた。
でもどこか愛想笑いなのが私には伝わってきていた。
それからわたしは彼を目で追うようになっていった。
その容姿もさることながらそれに奢らずみんなに気遣えて、紳士的。バイトに入ってから数日だともいうのに、すでにみんなが彼を認めている。
ただし、そんな彼にはどこか大きな闇を孕んでいるように私は感じていた。
「やぁ、こんにちは。私は木下水月。気軽に先輩って呼んでくれていいよ」
いつのまにか私は彼に話しかけていた。
多分彼がどこか苦しそうに見えたから。助けて欲しそうな瞳をしていたから。
でもそんなこと昔の私はわからない。
だからそれを私は同じように私を助けてくれたお姉ちゃんに重ねることで、私が彼に近づく理由を作っていたのだと思う。
理由もなく私が彼に近づくことは、しちゃいけないような気がしたから。
でも今になって私はひどく後悔している。
雫君の抱えているものはこんな一、二ヶ月程度で解決できるようなものでもなく、その一片すら知ることができなかった。
きっと悲惨な過去があったのだろうと、思うことはあった。
何かこうなってしまう理由があってそれを私が解決してあげられればよほど良かったか。
でも、彼からはなにも言われなかったし、探ろうとしてもきっと見つからないままで今よりひどいことになっていたように思う。
彼の笑顔はいつかの愛想笑いのような笑みではなかった。そういえばまだ聞こえはいい。
でもそうじゃない。
彼のあの笑顔はきっと彼自身がしようと思ってした顔ではない。自然と漏れ出た、普通なら美しい均整さを感じる笑顔が、ただ大きな闇を孕んで浮き出たものなのだと、私には感じさせた。
私があの時、何も知らない彼に適当なことを言ってしまったのがいけないのだろうか。
私がキミの思うキミであれ、とありきたりな言葉さえ使わなければ雫君はあんなに寂しい瞳はしなかっただろうか。
やっぱり私では誰も救うことなどできないのだろうか。あの時のように。
私は昔から感情を読むのが得意だった。
どんなに笑顔で近づいてくる人も、どんなに丁寧な言葉で誘ってくる人がいても、みんながみんなつまらなかった。
その感情はとても黒くて汚いもので、幼いながらに達観してしまわなければならなかった。みんなこんなにも卑しいものを抱えていて、みんな皮をかぶって生活をしているのだと。
そしてそれは親も例外ではなかった。
最初の頃はみんな綺麗なはずだった。
私とお姉ちゃんと優しいお母さんとお父さん。休みの日には必ず構ってくれるし、遊んでくれた。いろんな人の汚いところが見えていたけど、私は家族のおかげで私でいることができた。
でも、お父さんの仕事が忙しくなっていったあたりでおかしくなっていった。
幼い私ではなんであの優しい親が言い合っているのかわからなかった。
お母さんがお父さんのことを責め立てて、そんな日々が続いて夜の暴言が聞こえない日はなくなっていた。
ある日私がいつものようにお父さんと遊ぼうと近づいた時、私ははっきりと気付いてしまう。
お父さんの瞳から滲み出る黒い、汚らしい何か。
私の前でいつものように微笑んでくれているはずなのに、どこかその瞳の奥では禍々しい何かを感じる。
それはくしくも忌まわしい大人そのものの姿だった。
ただ幼い私がここでいつも通りに遊んでいればよかったのかもしれない。
そう思った日は何十回とある。
でもその日私はお父さんを避けてしまったのだ。
手を伸ばしてくれたのにそれを跳ね除けてしまった。
どうしてもいつものように接することなどできなかった。
「水月……み、水月……」
あの時のお父さんの声は今でも私を蝕んでいる。
何かから逃げようとした時、私はいつもこの声を聞く。
お前も俺を避けるのか、と。呪いのように頭にこべりつく。
それからお父さんは家を追い出された。
その日の夜はこれまでの怒鳴り合いが嘘だったかのように消えた日だったからよく覚えている。
でも、それからの日々も地獄は終わらなかった。
優しかった母がお酒におぼれるようになって、はきどころのないその鬱憤が私たちに向くのにそう時間はかからなかったのだ。
そしてちょうどそのころからだったように思う。
お姉ちゃんが変わり始めたのは。
もともとお姉ちゃんは引っ込み思案で何でも前から突き進んでいた私とは正反対だった。
「ちょっと水月ちゃんやめようよ……」
「なんで?多分ここに行ったんだよ、ミケは」
「でもこんなことお母さんにばれたら……」
「大丈夫だって。ミケも私たちを探してるって!」
「水月ちゃん……」
私たちがお母さんに内緒で飼っていた三毛猫だ。
餌もあまり与えてあげられなかったが、私たちが現れれば必ずその顔をのぞかせてくれた。
目つきは鋭かったが、私たちが目の前に現れると顔を穏やかにさせていたから余計かわいかった。
特にお姉ちゃんによくなついていたのを覚えている。
そんなある日、いつもの神社に現れなかったからその奥にあるちょっとした林に私たちは足を運んでいた。
もちろんそれにお姉ちゃんは及び腰だった。
「あ、ほらミケの鳴き声がするよ!」
「で、でもここは危ないって前お母さんが」
「もしかしたらミケが危ない目に合ってるかもしれないじゃん!いこ!」
その時私がこれ以上進んでいなければお姉ちゃんがあんな目に住む必要はなかったのに。
私はそのまま直進するようにしてか細く聞こえる猫の声を頼りに進んでいっていた。
その声に近づけば近づくほど周りは異様な雰囲気をまとわりはじめ、太陽の光が届かなくなっていた。
そしてミケの声も次第に消え入るような声になっていく。
「ミケ?いる?いるなら返事して~!」
「ミ、ミケ~、どこ~~」




