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144話 笑み


 その勁圧けいあつが消えた瞬間、ゴズ・シーマは反射的にたたみに手をつきそうになるのをこらえなければならなかった。


 額には玉のような汗が浮かびあがり、口から重い呼気がこぼれおちる。御剣家の司馬であり、第一旗三位のゴズをして、そこまでの消耗をいるほどに邸外で発生した戦闘の余波は巨大だった。


 肩で息をしているのはゴズだけではない。大広間に集められた旗士の多くがゴズと同じように今しがたの勁圧けいあつに当てられている。彼らの顔には一様に驚愕と、そして緊張があった。


 けいから推測するに、勝ったのは間違いなく空である。鬼人の走狗そうくになったかつての嫡子が、現在の嫡子と三旗の旗将副将を打ち破ってこの場に来ようとしているのだ。驚愕も緊張もやむをえないことであろう。


 ゴズが見るところ、平静を保っているのは剣聖と双璧くらいのもの――いや、もうひとりいるだろうか。


 御剣家の司馬の視線が第二旗の副将の後ろ、三位の席に座るアヤカ・アズライトに向けられる。


 アヤカは静かに目を伏せたまま端然と座しており、驚愕あるいは緊張している様子はまったく見受けられない。直属の上官である二旗の旗将副将よりもよほど落ち着いているように見えた。


 と、ここで式部がおもむろに口をひらく。その声は静まり返っていた大広間にことのほか良く響いた。



「至ったか、ラグナ」



 くつくつと楽しげにのどを震わせる当主の姿を、配下の旗士たちは半ば呆然としながら見つめる。冷厳、冷徹で知られる剣聖が配下の前で笑うなど久しくなかったことだった。


 ゴズはそんな式部の様子を見て内心で考える。


 ――御館様はこうなることを予期しておられたのか。


 ラグナが式部の命によって大広間を出て行ったのはつい先刻のこと。ゼノンとルキウスはラグナと同行することを望み、式部はそれを許した。ふたりを連れて南天砦なんてんさいにおもむいたラグナは、空を御剣邸の前まで連れてきて戦いを挑んだに違いない。


 御剣邸の前であれば、大広間に集まった旗士たちも否応いやおうなしに戦いの顛末てんまつを感じ取ることができる。


 その状況で空に勝利して己の評価を引き上げ、嫡子としての地位を確固たるものにする、というのがラグナの狙いだったのだろう。当然、敗北した際はその結果も諸将に知られることになるが、それはラグナも織り込み済みだったに違いない。


 あのとき、ラグナは空への戦意をあらわにしながら「御剣家の嫡子として不足なき働きをお約束いたします」と宣言した。鬼人の走狗そうくになりはてた兄を斬ることが、御剣家の嫡子としての務めであると公言したのである。


 である以上、敗北すれば嫡子として不適格であると判断されるのは当然のこと。ラグナは廃嫡も覚悟の上で空との戦いに臨んだのである。


 式部もその覚悟をんだからこそ、本来は衆議で発言する資格を持たないラグナの提言をれ、淑夜しゅくやの代わりにラグナを空のもとへ向かわせたのだろう。


 その証拠というべきか、式部は先の戦闘中に一切動かず、また配下の旗士を動かそうともしなかった。式部が兄弟の戦闘を予測していなかったのなら、配下を差し向けて空たちの戦いを止めようとしたはず。それをしなかったことからも、式部が兄弟の戦闘を予測していたことは明白だった。


 気になることがあるとすれば、式部が兄弟を戦わせた目的である。


 前述したように、式部がラグナの覚悟をんで空との戦いを許したのはおそらく間違いない。ただ、その結果としてラグナが空装を会得することまで読んでいたとは思えない。それはもう予測というより未来視の領域だ。いかに剣聖といえどもそこまで万能ではないだろう。


 ラグナが空装を会得したのはあくまで結果に過ぎない。であれば、式部にはそれ以外の目的があったはずなのである。


 空を殺すことではないだろう。空を殺すつもりならゴズより下位のゼノンたちではなく、双璧の片方、もしくは両方にラグナと同行するよう指示したはずだ。


 それをしなかったことから、式部の目的は空の抹殺ではなかったと判断できる。残る可能性は、そう、鬼界から帰還した空の実力をはかること、だろうか。


 ラグナ副将ルキウス旗将ゼノン。あの三人に対して空がいかにして戦うのかを式部は見定めようとしたのかもしれない。


 負ければ論外。けれど、ただ勝てば良いというものでもない。苦戦の末に勝つのか、相手を圧倒して勝つのかで意味合いは変わってくる。また、何の工夫もなく以前と同じ戦い方で勝つのか、少しでも強くなるために工夫を凝らして勝つのかでも評価は異なってくるだろう。


 それらを見定めた上で式部は判断しようとしたのではないか。



 ――御剣空は己が戦う相手として相応しいか否かを。



 そこまで考えたゴズは、自分でもよくわからない理由で寒気をおぼえた。そして、のろのろと主君の方に顔を向ける。


 視線の先にはあいかわらず笑みを浮かべる式部の姿があった。その笑みが意味することを悟ったゴズの背に氷塊がすべり落ちる。


 そのとき、不意に大広間の旗士たちがざわめいた。


 足音が聞こえてきたのだ。ゆっくりと、そして堂々とした足どりで大広間に近づいてくる者がいる。その気になれば足音など立てず、一瞬でこの場に現れることも可能であるにもかかわらず、あえて足音を響かせているのは自分の存在を告げるためだろう。自分は逃げも隠れもしない。そう宣言しているのだ。


 幾人かの旗士が式部の顔をうかがったが、式部はやはり動かない。そして、式部が動かない以上、配下の旗士たちも動けない。


 ややあって大広間の入り口に黒髪の青年が姿をあらわした。髪も衣服も乱れたままで、おまけに肌や衣服のそこかしこに戦闘で流れた血が生々しく張りついている。


 その恰好のまま青年――御剣空は旗士たちを揶揄やゆするように唇の端を吊りあげた。



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