第百二十四話 音を立てて
「――以上が三百年前に起きた出来事です」
長い長い物語を語り終えた教皇はそう言って話を締めくくる。
聞き終えた俺は無意識のうちに大きく息を吐き出していた。教皇の昔語りはそれくらい密度が濃かったのである。
鬼門に封じられているのは鬼神ではなく龍であり、それを成したのは初代剣聖ではなく鬼人族のアトリだった。鬼神を打ち倒して世界を救った御剣家の勲は、ソフィア・アズライトと御剣一真がつくりあげた幻想にすぎなかった。
その幻想をたしかなものとするため、ふたりは鬼人族を徹底的に悪役に仕立て上げて大陸から駆逐した。幻想種から大陸を守るために最も力を尽くしたのは鬼人族だったというのに、人間はソフィアたちに踊らされるままに鬼人族を狩りたてていったのである。
その結果、大陸における鬼人族は絶滅寸前まで追い込まれた。ソフィアと一真によって鬼界に閉じ込められた鬼人たちも、不毛の荒野で同族同士が相食みながら血みどろの三百年を過ごすことを余儀なくされた。
光神教の来歴や、皇帝アマデウス二世の言葉から推測するに、法神教やアドアステラ帝国もふたりの策謀に加担していたに違いない。彼らは鬼人族にすべての罪をなすりつけることで戦後の大陸の主導権を握り、それを利用することで今日の繁栄を築くに至ったわけだ。
御剣家が帝国内部で特異ともいえる立場を保持し続けてこられたのも、幻想一刀流という図抜けた武力の他に、三百年前の真相を知る共犯者だったから、という理由が大きいのだろう。
――これまでの大陸史を根底からひっくり返してしまう事実の数々。『鬼門の秘密が解き明かされたとき、人の世は大きく揺れることになる』とはアマデウス二世の言であるが、なるほど、このことが広まれば大陸諸国は激震に見舞われるに違いない。
ただ、そのあたりのことを考えるのは国王や皇帝といった権力者の仕事である。俺が考えるべきなのはもっと別のことだ。
すなわち、俺に真実を伝えた教皇ソフィア・アズライトの目的である。
まさか三百年前のことを伝えて、はいさよならで終わらせるつもりはあるまい。眼前の不死の王は大陸の歴史を改竄した黒幕だ。その黒幕が今日まで徹底的に隠していた秘密を明かしたのだから、対価として俺に求めるものがあるはずだった。
「貴重な話を聞かせていただき感謝します。それで、俺に何を求めているのですか?」
あえてまっすぐにたずねる。腹芸をしかける場面ではなかったし、その気分でもない。
教皇の返答は、予想どおりといえば予想どおりのものだった。
「わたくしと一緒に来てください。そして、二人で浄世を成し遂げましょう。三百年前に果たせなかったことを、今度こそ共に」
教皇はにこやかに微笑むと、俺を抱きしめようとするかのように大きく両腕を広げる。恋人の抱擁を待ち受けるにも似たその姿からは、俺に断られるかもしれないという危惧は露ほども感じなかった。
信頼に満ちた眼差しは、いったい誰に向けられたものなのか。
そんなことを思いながら、俺は短く返答する。
「お断りします。光神教にも、浄世にも興味はありません」
拒絶を突きつけられた教皇は、それでも表情に微笑みを湛えたまま問いかけてきた。
「浄世を成し遂げなければ、龍の呪いはいつまでも大陸を蝕み続けるでしょう。それはつまり、幻想種の爪牙がいつあなたの大切な人たちを引き裂くか分からないということです。それをよしとなさいますか?」
「よしとするつもりはありません。ですが、それはあなたの言うとおりにしても同じことでしょう。世界を浄めると言えば聞こえはいいですが、ようするに龍に対して何ひとつ抵抗せずに這い蹲っていろ、ということです。それこそ、いつ私の大切な人が引き裂かれるか分かったものではない」
光神教なり法神教なりに帰依すれば龍の標的にならない、なんて与太話を信じる気にはなれなかった。龍がそんな話のわかる存在であるのなら、千年前の恨みを今に生きる命に叩きつけたりはしないだろう。
教皇はなおも笑みを浮かべたまま、こてりと首をかたむける。
「それでは、どうあってもわたくしと共に来るつもりはない、と?」
それに対して俺は「はい」と応じようとして、意識的に言い方を変えた。
ここまでは礼儀だと思って敬語を使ってきたが、いいかげん面倒くさくなってきた。初めて顔を合わせてから今に至るまで、ただの一度も俺を見ようとしない相手に敬意を払う必要はないだろう。
「ああ、そういうことだ」
「そうですか、それは残念です」
そう口にする教皇の顔にはなおも笑みが張りついていた。まるでそういう種類の能面をつけているかのように教皇の笑みは崩れない。にこやかなはずの笑貌にうそ寒さを感じ、自然と表情が引き締まる。
すると、教皇はそんな俺を見やりながら言葉を重ねた。
「本当にとても、とても残念です。叶うなら、あなたの意思で共に来ると決めていただきたかった」
言うや、教皇はぱちんと両手を叩く。
次の瞬間、教皇の小さな身体から噎せ返るような高濃度の魔力があふれ出た。迸る魔力は突風となって吹き荒び、教皇と対峙していた俺は圧力に押されて一歩二歩と後ずさる。
俺は相手の魔力を恐れたりはしなかったが、驚きは感じた。
同じ不死の王であったシャラモンとは比較にもならぬ。ベヒモスを焼き払ったときのラスカリスでさえ、ここまでの魔力は発していなかった。
洪水を思わせる魔力の荒波、その中心に立ちながら教皇の目は俺をとらえて離さない。
「ですが、断るというのであれば致し方ありません。少しばかり手荒い手段を取らせていただきます」
その言葉と共に教皇の魔力はますます吼え猛り、奔流となって周囲を駆け巡る。あまりにも濃密な魔力はマナやオドといったくくりを超えた原初の力――龍穴から湧き出す魔力と酷似していた。いや、はっきりと同質であると言っていいだろう。
教皇の後ろで塔のようにそびえたつ龍の巨体が、身じろぎするようにぶるぶると震える。それが俺をせせら笑っているようだと感じたのは、はたして気のせいであったのか。
「三百年、待ちました。もう寸秒とて待ちたくないのです――――神格降臨」
教皇がその言葉を紡いだ瞬間、世界が音を立てて軋んだ。




