幕間 出会い
鋭い叫び声をあげて上空から襲ってくるグリフォンに対し、仁は笹雪を振るって魔力の刃――颯を浴びせる。
見えざる刃は疾風となって敵を斬り裂き、グリフォンは苦悶の咆哮をあげて空へと舞い戻っていった。
仁は額の汗をぬぐい、いまいましげに口をひらく。
「ええい、きりがない!」
戦いが始まってからどれだけの時間が過ぎただろう。半刻(一時間)か、一刻(二時間)か。さすがに二刻(四時間)は経っていないはずだが。
そう思って太陽の位置を確かめようとした仁は、頭上を飛び交うグリフォンの数が先刻から一向に減っていないことに気づき、音高く舌打ちする。
幻想種――黒いグリフォンが姿をあらわしてからというもの、皐の氏族は一方的にやられっぱなしだった。三人しかいない心装使いのひとりを失い、戦況は打開の「だ」の字さえ見えていない。
仁としては、自分たちが敵の攻撃をしのいでいる間に、他の心装使いが幻想種を討ってくれる展開を期待していたのだが、その気配は今のところまったくなかった。
他のふたりも黒いグリフォンに手出しできずにいるのか、あるいは、あまり考えたくないがとっくに幻想種に食われてしまったのか。
実際、皐の氏族による反撃は目立って少なくなっていた。たまにおこなわれる反撃も散発的なもので、効果はほとんど出ていない。
もともと幻葬の志士は軍隊のように組織化された武装集団ではなく、心装使いという絶大な個を中心として寄り集まった者たちである。要となる個がいなくなれば、まとまりが失われるのは必然だった。
「逃げる、にしてもなあ……」
仁は天幕の陰に身を隠しながら、困ったように後ろをうかがう。そこには気を失った女性がふたり、地面の上に横たえられていた。先ほど落命した心装使いに託された者たちである。
彼女たちは心装使いの無残な死に様に衝撃を受けて意識を失い、今に至るも目覚めていない。仁と親方はふたりを半壊した天幕に運び込むと、あえて目覚めさせずにそのままにしておいた。無理に起こして暴れられても困ると判断したのだ。
仁にとっては名前さえ知らぬ他人であるが、戦死した者に託された相手である。見捨てて逃げるという選択肢はない。
当初、仁と親方はふたりを背負って東の森に逃げ込もうとしたのだが、上空のグリフォンがそういった者たちを優先的に標的にしていることに気づき、かえって陣内に留まることを選んだ。
じっと息をひそめて敵の様子をうかがい、相手に気づかれたら仁が攻撃して敵を退け、即座に天幕を移動する。そうしてグリフォンたちが退却するのを、あるいは心装使いによって戦況が好転するのを待つ、というのがここに至るまでの仁たちの行動だった。
しかし、残念ながらどちらも叶いそうにない。それにこちらからの反撃が減ったということは、それだけグリフォンは自由に動けるということ。標的の数が減ったわけだから、仁たちが標的にされる可能性も増した。これ以上この陣に留まり続けるのは無謀であろう。
仕方ない。仁は内心で覚悟を決めて口をひらいた。
「親方」
「おう、なんだ、新入り」
皐の氏族の厨房を一手に任されている大男は、右の腋に野太い丸太を抱え込みながら仁の呼びかけに応じた。
仁はその相手に向けて自分の考えを披露する。
「私が囮になって西に逃げます。親方はその間に、この人たちをかついで東の森に逃げこんでください」
それを聞いた親方が血相を変えて何か言おうとするのを制し、仁は冷静に言葉を重ねた。
「私ではひとりを担ぐだけで精一杯ですが、親方ならそのふたりを抱えて走ることもできるでしょう? 親方がいつも運んでくる何十何百という芋の山に比べれば軽い物ですからね。身軽な者が走り、力持ちが担ぐ。適材適所というやつですよ」
そういってパチリと片目を閉じる仁を見て、親方は毒気を抜かれたように口を閉ざす。
状況が悪化する一方であることは親方もわかっているのだろう。このままでは死を待つばかりである、ということも。
親方は、ふう、と大きな息を吐いた。
「たいした肝の座りようだ、新入り――いや、仁、だったか。さっきからの妙な剣技といい、お前さんには包丁より剣を持たせるべきだったな」
生き延びたら戦士として推挙する、と親方は言った。だから死ぬなよ、とも。
ようやく皮むきを卒業し、志士としての第一歩を踏み出せることになった仁だったが、それもこれもこの危急を乗り越えてこそである。
仁は親方から鉄兜を借り受けると、それをかぶって天幕の外に出た。そして、西へ向かって走り出す。
森が広がる東と異なり、西は平原が続いており、さらに進むと小高い丘がある。丘上にはまばらに木が生えており、どうやら丘向こうに続いているようである。
あそこまで逃げ切ることができれば、上空の敵から逃れることもできるだろう。
――心装の力を我が物にするためにも、ここで死ぬわけにはいかない。単純に生き残ることだけを考えるなら、囮になるふりをして姿を隠し、逆に親方たちの方を囮にする手もあるが……
仁はわずかにその考えを検討したが、すぐに肩をすくめて下らない思案を打ち捨てた。別段、正義感やら良心やらが仕事をしたわけではない。このとき、仁の行動を支えたのはもっと単純で、もっと切実な感情だった。
「ここで逃げたら、儺儺式使いどもと何もかわらない」
あいつらの同類になるのは死んでもごめんだ――そんな思いと共に、仁は西の平原に向かって駆けだした。
ちらと空を見上げれば、何体かのグリフォンが仁に注意を向けているのがわかる。狙いどおり、陽光を浴びた鉄兜が良い目印になっているようだ。
つけくわえれば、グリフォンたちはすぐに襲いかかろうとはせず、互いを牽制するように仁の頭上で旋回行動を繰り返している。これも仁の狙いどおりだった。
先刻からの襲撃を振り返ってみると、グリフォンは上空から容赦なく志士たちに襲いかかっていたが、複数でひとりを襲うことはなかった。
もともとグリフォンに多数で群れる習性はない。必然的に多数で獲物を狩る習性もないわけだ。
今、頭上にいる群れは幻想種によって集められたに過ぎず、個々のグリフォンの習性に変化はない。となれば、目立つ的を放り込むことで混乱を招くこともできるはず。魔獣たちが牽制しあっている間に逃げ切ってしまえれば言うことはない。そこまでいかずとも時間をかせぐ程度のことはできるだろう。
問題があるとすれば、それは他の牽制を歯牙にもかけない上位種が動いたときだ。仁はそう考えたのである。
――結論から言えば、仁の狙いは図に当たり、同時に危惧も的中した。
牽制しあうばかりの同族に業を煮やしたのか、それまで悠然と同族たちの上を飛んでいた黒いグリフォンが遠雷を思わせる咆哮をあげる。
すると、仁を狙っていたグリフォンたちが怖じたように動きを乱し、仁の頭上から散った。
黒いグリフォンの視界に、地上を走る仁の姿が映し出される。
丘上までの道のりはまだ半ば。あたりには身を隠せるような場所はない。
上空からの無音の圧力に気づいた仁が頭上を振り仰ぎ、此方を見下ろす幻想種に気づいて表情をひきつらせる。
直後、黒いグリフォンは大きく翼をはばたかせると、仁めがけて降下を開始した。先刻、心装使いをその心装ごと喰らった攻撃だ。あのときまったく反応できなかった仁には、迎え撃つことはおろか避けることさえできはしない。
幻想種に狙われた時点で仁の命は終わりなのだ。
仁にかぎった話ではない。それは人間であれ、鬼人であれ、あるいは心装使いであれ、変わることのない絶対の真理。何故といって幻想種とはそのために生み出された存在だから。
分かっているつもりだった。幻想種がそういう存在であることは。
だが、それが「つもり」にすぎないことを、仁は今痛切なまでに感じとっていた。
どうしようもないほどの『死』に晒されて、初めてわかるものもある。それは幻想種の意思とでもいうべきもの。
――貴様らはただ在ることさえ許されぬ。
物理的な圧迫感さえともなった瞋恚の思念。気の弱い者ならそれだけで気死したかもしれない鏖殺の意思。
先刻、何もできずに殺されたように見えた心装使いも、これとまったく同じものを浴びせられたに違いない。殺意とも敵意とも違う、まるで生きていること自体が罪だと言わんばかりの否定の具現を前に、仁はその場でくず折れそうになる。
自分ごときがあらがえるわけがない。そう諦めてしまいそうになる。
……それでも。
「――ッ!」
砕けんばかりに奥歯を噛みしめて、仁は踏みとどまった。たとえ瞬きひとつの後に命を失うとしても、ここで膝をつくことだけはすまい。そう思う。
ちっぽけな意地だ。幻想種は何の痛痒も感じまい。
だが、それでもかまわない。仁は頭上に目を向けて腰の笹雪に手をかける。意地を張るついでに、せめて一太刀なりと浴びせてくれようと思ったのだ。
鈴を振るような可憐な声が仁の耳朶を揺さぶったのは、そのときだった。
「心装励起」
迫りくる幻想種が疾風ならば、駆け抜けた人影は迅雷だった。
目にも止まらぬ速さで交錯するふたつの影。
「――叛け、蚩尤」
その人影が何をしたのか、仁にはさっぱりわからなかった。そもそもいつ現れたのかすらわからなかった。
仁にわかったのは二つだけ。
ひとつはその人影が口にした言葉。
そしてもうひとつは――
「ぐるぅおあああああああ!!」
絶対的な死の象徴であったはずの黒いグリフォンが、血煙をあげて地面に叩きつけられたことである。
身体が浮き上がるほどの衝撃に襲われ、仁はわずかによろめいた。
激しい土煙が舞い上がり、幻想種がもがいているのが伝わってくる。すぐにも立ち上がって攻撃してくるかと思われたが、黒いグリフォンは立ちあがることも、ふたたび空に飛び立つこともしない。
いや、しないというより出来ないのだろう。
直前の交錯によって、幻想種は致命的な一撃を浴びせられていた。
――あの一瞬で、幻想種を。
半ば呆然としたまま、仁は幻想種を討った者を探す。
相手はすぐに見つかった。仁からさして離れていない場所に立ち、倒れた幻想種に鋭い視線を浴びせている女性。
長く黒い髪、額から伸びる二本の角、白い小袖に緋色の袴。
その姿を見て、はじめに仁の脳裏に浮かんだのは巫女という言葉だった。巫女が前線に立って戦うなど聞いたこともないが、女性の手に握られた長剣は幻想種を討った者の所在を如実に示している。
仁の視線に気づいたのだろう、女性が仁の方を振り向いた。もう幻想種に反撃の余力はないと見定めたらしく、上空のグリフォンに注意しながら仁に近寄ってくる。
「私は神無の氏族のアトリと申します。皐の氏族に属する方と見受けますが、お怪我はありませんか?」
丁寧で穏やかな問いかけだった。今しがた幻想種を討ったばかりとはとうてい思えない。
その姿を見た仁は雷に打たれたような衝撃を受け、その場に立ち尽くした。そして直感する。
この人こそ自分が教えを請う人物である、と。もっと言えば、自分はこの人と出会うために御剣家を離れたのだ、と確信した。
仁は深々と頭を下げると、自らの思いを余すことなく声に乗せる。いまだ頭上を飛び交うグリフォンのことは脳裏から消えていた。
「師匠と呼ばせてください!」
熱意にあふれた仁の言葉を受けて女性――アトリはぱちぱちと目を瞬かせる。
ややあって、その首がこてんとかたむき、桜色の唇から「…………はい?」と戸惑ったような声がもれた。




