誇り高き獣
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──誇り高き獣
魔法学園にてアレクサンドラがデュラハンと交戦し、エマがジークたちを呼びに走る中、ジークは依然として公園で巨大な狼を相手にしていた。
「はああ──っ!」
「────ッ!」
人と獣。勇者と狼。その2体の戦士が方向を上げて交錯する。
狼の爪と牙がジークの身を裂き、ジークの“月影”が狼の体を裂く。
「へへっ。お互いしんどくなってきたみたいんだな!」
ジークの息も狼の息も荒い。両者ともに全身で呼吸しており、そうしなければ呼吸が止まってしまいそうなほどに疲労している。
それでもジークのブラウンの瞳からも、狼の赤い瞳からも戦意は全く失われていなかった。彼らは人生で初めて遭遇する強敵を前に、未だに燃え盛る戦いへの意志を燃やし続けていた。
さて、この世界で人間が他の動物たちと異なる点はその持久力だと言われている。
人間は狼ほど速くは走れない。だが、狼より長く走っていられる。それが人間の長所であり、人類がこれまで生き延びられた点だ。
そういう意味ではこの根競べで有利なのは人間であるジークである。狼の方が負担は大きく、長期戦による疲労も大きい。
それでも狼は獲物を逃すまいと決意しているかのようだ。いや、今やジークはただ捕食されるだけの獲物ではない。好敵手だ。それは生物学の知識だけでは言い表せない存在である。
「お前ほどの敵を殺すってのは勿体ないとすら思えるよ。お前が他の人間を害さないっていうなら見逃してやってもいいんだが──」
ジークのその言葉に狼は不満そうに低く唸る。人間の言葉を理解しているような反応にジークは思わず苦笑い。
「すまん、すまん。そうだな。手抜きはなしだ」
ジークはそう言って笑ったのち、その笑みの一切を消して“月影”を構える。
「さあ、やろうぜ」
狼は身を低くして唸りながらジークの周りを歩きつつ距離を測り、ジークはどっしりと今の場所に構えて狼を迎え撃つ構えを取った。
このままそう何度も衝突してはいられない。ジークはまだ戦えるが、狼の方は出血しており長期戦の疲労も蓄積しつつある。狼はこれ以上の長期戦をするつもりはないだろうし、ジークも短期決戦ならば確実にここで狼を仕留めるつもりだった。
両者のにらみ合いは続き、暗雲の立ち込めた空からは雨が滴ってくる。
ぽつり、ぽつりと雨粒が落ち、ジークを濡らし、狼の体毛の表面にも水滴が垂れていく。そして公園の地面ではこれまでジークと狼が流した血が雨粒によって赤黒くにじんでいった。
そして、永遠とも思えるにらみ合いがついに終わった。
「────ッ!」
一瞬身を低くした狼が咆哮し、ばねのようにその四肢を跳ねさせてジークに襲い掛かる。その牙は間違いなくジークを捉えており、爪もジークを引き裂くはずだった。
「この左腕はくれてやる」
ジークはあえて左腕を差し出していた。狼の狙いはその左腕だけではなかったが、彼が真っ先に狙ったのはジークの左腕であった。
狼はそれを食いちぎり、鮮血が舞う。
さらにその先に向けて狼が牙と爪を伸ばすが、それを迎え撃つのがジークの策だ。狼がジークの左腕に食らいつくことでその身を一度止めた瞬間にジークが右腕で構える“月影”の刃が狼を襲った。
「食いやすい獲物には警戒すべきだったな……!」
ジークは左腕をもがれた痛みを笑い飛ばすように不敵な表情を浮かべ、右腕で“月影”の刃を大きく振るった。
「────……ッ」
これは流石の狼も回避できず、直撃を受けた。体が裂かれ、赤い血を流しながらも狼はジークを屠らんと力なく顎を開き、前に出る。
だが、ジークに向けて数歩進んだところで力尽きた。狼はどさりと大きな音を立てて地面に倒れ込み、起き上がってくることはなかった。
「……ふうっ。何とか勝てたな……正直、危うかったぜ……」
血を流して倒れている狼を見て、ジークはそう呟く。
ぎりぎりの勝負だった。一歩間違えればジークが不死身であっても一方的になぶられる可能性すらあった戦いだ。それほどまでの狼は強敵であった。
「しかし、これだけの騒ぎが起きてるのに魔女のやつ、手伝いにも来ないなんて……」
ジークがそう愚痴る。
この公園での騒ぎはすでに神々の神殿にも知らされたはずだ。それなのにジークを手助けに来ないなんて薄情なやつだとジークがそう思って、彼は違和感に気づいた。
いや、セラフィーネが戦いの機会を逃すなんてありえないと。やつならば絶対にジークが巨大な狼に襲われたと聞けば飛んでくるはずだ。
それがないというのは……。
「まさか神殿も襲われてるのか……?」
それしか考えられない。神殿も襲撃を受け、セラフィーネはそちらの対応に当たっているとしか。それならば全て納得がいくのだ。
「クソ。不味いぞ!」
ジークは公園から駆け出し、丘を駆けのぼって神々の神殿を目指す。
耳をすませば丘の上から戦闘音がする。セラフィーネの朽ちた剣が交錯する音だ。
襲われたのはセラフィーネだけだろうか? ロジーや他の神官たちも襲われてはいないだろうか? そういう心配がジークの心中で渦巻き、彼を急がせる。
「間に合ってくれ……!」
神々の神殿に続く階段を駆け上り、そしてジークは神殿の正門に到達した。
「あれは!?」
そこでジークは前庭の地面を引き裂いて現れている赤い触手を見つけた。その無数の触手はぐねぐねとうねりながら、神殿の方に迫っている。
「魔女! 無事かっ!?」
さらにジークはその触手を食い止めているセラフィーネを見つけた。血まみれの彼女は単騎で触手を、ローパーを食い止めているようである。
「ジーク! 手を貸せ!」
セラフィーネはジークに気づくとそう声を上げた。彼女の纏っていた祭服はすでにぼろぼろであり、血で赤く染まっている。かなりの激戦となっているようであった。
「あいよ!」
ジークはすぐさま参戦し、ローパーの触手に挑みかかる。
「臭い触手をうねらせてるんじゃねーぞ!」
ジークの“月影”がローパーの触手を襲い、切断していく。ローパーはジークが参戦したことに気づき、触手をジークの方にも差し向けて攻撃を開始した。
さて、ローパーは獲物を音で捉える。正確には振動だ。
地面と空気の振動で獲物の位置を捉えるため、ローパーに目というものは存在しない。その代わりに皮膚が高度に発達しており、小さな振動でも把握して、獲物の位置を逃さないのである。
ローパーは現在ジークとセラフィーネの振動を捉えていた。セラフィーネが触手を回避するためにステップを踏むのを捉え、ジークが攻撃のために駆けるのを捉えていた。
しかしながら、そうであるがゆえにローパーには敵がどのような存在であるかという情報が欠如していた。相手がどんな武器を持っているのか、相手がどんな魔法を使うのか。そういうものを把握するのが難しい。
ローパーは相手がどのような存在であろうと触手で襲うだけだ。
「斬っても斬っても次が生えてきやがるな」
ローパーは触手を失うとすぐに次の触手を形成してけしかけてくる。しかし、ローパーは不死身ではない。このまま触手を切り裂かれ続ければ、いずれは果てるだろう。ジークたちが勝てない相手ではないのだ。
しかし、無傷で勝てるかと言われるとそうではない。ローパーは陸のクラーケンのようなものだ。その力と生命力は強力だ。
「しまった!」
ローパーは地下から触手を出現させるとジークの足を掴んだ。そのまま足を引きちぎらんと振り回し、すさまじい力によってジークの足がもげる。
「この野郎! クソ……」
ジークは片足で応戦を試みるが、ローパーはジークの首に巻きついた。そのまま彼を締め上げながら触手で今度は首を引きちぎろうとする。ジークは呼吸ができなくなり、反撃するのが難しくなり始めていた。だが──。
「────ッ!」
そこで咆哮が聞こえた。狼のものだ。
そう、先ほどジークに倒されたはずの狼が神殿の前庭に現れたである。狼は大きく咆哮を上げるとジークを掴んでいるローパーの触手に食らいつき、噛み千切った。
「げほっ、げほっ」
ジークの体が触手から解放されて地面に落ち、彼はせき込みながら自分を助けた狼を驚きの表情で見る。
「お前……助けてくれたのか?」
ジークのその問いに狼は鼻をふんっと荒く鳴らすのみ。しかし、狼は再びジークを襲うようなそぶりは一切見せなかった。
「オーケー。ありがとよ。助かったぜ!」
ジークは狼に助けられて攻撃を再開。
そのジークの攻撃に狼も従い、彼らは次々に触手を斬り倒してく。ジークは“月影”で、狼は鋭い牙と爪で触手を引き裂いた。それに対するローパーの動きには明らかに動揺のそれが見て取れた。
「いいぞ、ジーク! そのまま引き付けておけ!」
ジークと狼の猛攻でローパーが圧倒される中、セラフィーネが動いた。
彼女は空に無数の朽ちた剣を召喚するとその切っ先をローパーの根に向ける。
「死ぬがいい、化け物」
セラフィーネが手に握る朽ちた剣を下に向けて振ると上空の刃が一斉に降下。そのままローパーの根を次々に串刺しにしていく。鋼鉄の嵐とでもいうべきものをローパーはまともに浴びてしまったのだ。
ローパーはそれが致命傷になったらしく、その赤い触手が紫色に変色していき、そのまま植物が枯れるように触手は萎えて倒れていった。
「オーケー。やったな!」
ジークはローパーが倒れたのを見てにっと笑みを浮かべる。
そして、狼もローパーが倒れたのを見ると満足そうに鼻を鳴らし、それからジークに背を向けた。もうここに用事はないという具合に。
「行っちまうのか?」
ジークがそう呼び止めると狼はジークを振り返り、小さく吠えるとそのまま走り去っていく。狼が再び振り返ることはなかった。
「……分かり合えたのかね?」
そんな狼の態度にジークはそう呟く。
「ジーク。助かったぞ」
ここでセラフィーネが血まみれの祭服のまま、ジークの下にやってきてそう告げる。彼女にしては珍しく苦戦したようで僅かに疲労の色が顔には見えた。
「おう。しかし、あれはもしかして……」
「スライムをけしかけてきたのと同じ人間の仕業だろう。さっきの狼は? 戦っていたと聞いたが飼いならしたのか?」
「まさか。飼いならすなんて無理だよ。あいつは誇り高い獣のようだからな」
「ふん?」
ジークはどこか感慨深くそう言い、セラフィーネは怪訝そうにする。
「だが、一連の襲撃は我々が目的ではなかったはずだ。苦戦はしたが不老不死である我々をどうにかできるような襲撃ではなかった。これは恐らく足止めだ」
「足止め? 何のために?」
「今は分からんが、別の攻撃は必ずすでに行われているはずだ」
セラフィーネはそう断言。彼女はそう言うのにジークも敵の狙いを考える。
「スライムは俺たちがアルトフィヨルド交易にたどり着いたときに襲ってきた。今回も俺たちが何かしらの手がかりを手に入れたのを察知して妨害してきたって可能性は?」
「何の手がかりだ? 我々には今は新しい情報はないぞ」
「憲兵隊か、それか……エミールとアレクサンドラが手に入れた、とか?」
「なるほど。それで我々とあいつらを引き離したというわけか」
ジークが推理するのにセラフィーネは納得したように深く頷く。
エマとアレクサンドラとはずっと別行動をとっているが、彼女たちはアルトフィヨルド交易で押収した資料からクラーケンの取引先を探っていたはずだ。その彼女たちがついに誰がクラーケンを取引したのか特定したのかもしれない。
「ジークさん、セラフィーネさん!」
ここで神々の神殿に駆け込んできたのは憲兵隊長のパウロとエマだ。パウロの方は険しい表情をしており、エマの方は顔面蒼白で汗びっしょりであった。明らかに何かあったと思わせるものだ。
「どうした? 何があった?」
「学園が襲撃されています。エミールさんが言うにはアンデッドによる襲撃だと」
「アンデッド!? つまり、死霊術師が学園に……?」
パウロの報告を聞いたジークが驚愕の表情を浮かべる。彼もアンデッドについては知っていた。死霊術によって生み出される怪物であると。
「は、はい。オレたちは学園理事のロタール氏がクラーケンの取引先だということを突き止めて、彼から事情を聞くために学園に向かったのですがそこで首のないアンデッド──デュラハンが現れて……」
「ほう。デュラハンと来たか。敵はかなりの死霊術の使い手だな……」
エマが絞り出すような震える声で報告するのにセラフィーネがそう感想を述べる。デュラハンを生み出せるほどの死霊術師はそう多くはない。
「ちょっと待て。アレクサンドラはどうした? 逃げてるのか?」
「それが違うんです! アレクサンドラ館長はジークさんたちに知らせるまでの時間を稼ぐと言ってその場に残って……! だから、急がないといけないです!」
「クソ。なんてこった!」
エマの口から衝撃の事実が告げられるのにジークが思わず悪態をつく。
「学園に急ごう。アレクサンドラも他の人間も危ない」
「ああ。いくら吸血鬼でもデュラハンを相手にまともに戦えるとは思えん」
ジークとセラフィーネがそう決意したとき神々の神殿からロジーが神官たちを連れてやってきた。
「勇者ジーク、魔女セラフィーネ! あたちも一緒に行くのです!」
「ロジー。あんたは死霊術の知識はあるのか? そいつが必要だ」
「相手は死霊術師なのですか。それならば任せてくださいなのです。あたちが十分に力になれるのです」
「よし、決まりだ」
こうしてロジーも加わり、ジークたちは学園を目指すことに。
「ロジー様。どうかこの馬車をお使いください。装甲が張られていますから不意打ちは防げるはずです」
「ありがとうなのです、パウロ司令官」
パウロはロジーのここまで乗ってきた憲兵隊の装甲馬車を勧めた。薄いが矢などの貫通は防げるだけの装甲が張られた馬車にロジーが乗り込む。
「我々はフギンとムニンで急ぐぞ」
「おう。急ごうぜ。アレクサンドラが危ない」
ジークとセラフィーネは軍馬に変身したフギンとムニンに跨り、同じく騎乗しているパウロたちに続いて学園を目指す。
* * * *
そのころ、魔法学園では事件の規模が拡大していた。
「う、うわあっ! あ、あれはレ、レイスだ! 亡霊だぞ!」
「なんでこんなところにアンデッドが!?」
「逃げろ、逃げろ!」
学園のドーラ棟の周辺にはアンデッドが溢れて、近くにいた学生や教師を襲撃していた。剣を持った亡霊レイス、動く腐乱死体ゾンビ、そして首なし騎士デュラハン。それらが暴れまわり、学園を占領しつつあった。
「秩序とは一瞬で崩壊するものだな」
その様子をドーラ棟の上階から腐敗卿パイモン──ロタールが眺めていた。
「人間が愚かだと大勢が言う。だが、その理由を考えた人間は少ない。しかし、私はその理由を考えてきた。我々がどうして愚かなのかという理由だ」
ロタールは死人の仮面をかぶったまま独り言のようにそう語る。
「人間が愚かなのは肉の体に縛られているからだ。この肉の体には限界がある。この体は老い、病み、衰える。そうであるがゆえに人間はその愚かさを露呈してしまうのだ。もし、人間が神々のように永遠であれば我々はどこまでも聡明なはず」
ロタールは自らの説を讃えるように両手を広げる。
「そうであることをこの私が証明して見せよう。我々が神々と同じ肉体を手にすることによって。それは実に興味深い結果になるはずだ──」
そして、ロタールは背後を振り返った。
「そうは思わないか、アレクサンドラ大図書館館長殿?」
その視線の先には壁に鉄の槍で腹部を串刺しにされたアレクサンドラが、力なく壁にもたれていた。彼女の足元には大量の赤い血が流れて、血だまりができている──。
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