クラーケンの痕跡
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──クラーケンの痕跡
ジークたちは魔法学園を出て、エマやパウロたちと合流するためにルーネンヴァルトの神々の神殿を目指した。
「ジークさん、セラフィーネさん。戻られましたか」
それから神殿の礼拝堂に入るとエマ、パウロ、ロジー、そしてアレクサンドラが彼らを出迎えた。パウロの方は2名の憲兵を従えている。
「魔法学園は空振りだった。あそこでクラーケンは扱ってないってさ」
「そうでしたか。しかし、こちらには進展がありましたよ」
「おお。マジで?」
パウロが僅かに笑って見せるのにジークが関心を示す。
「ええ。エミールさんとアイゼンローゼ商会の助けもありまして、過去にクラーケンを輸入した業者を特定しました。今から踏み込もうと相談していたところです」
「ほう。随分とあっけなく解決しそうだな」
パウロの言葉にセラフィーネがそう感想を告げる。
「まだまだ終わりじゃないですよ。その業者は悪魔崇拝者かもしれないというだけで、まだそこに確信はないのです。あたちたちはこの街にいる黒書結社の規模すら把握できていないのですから」
「分かってるさ、ちびっ子。これからが勝負だ」
「あたちはちびっ子じゃないです!」
ジークが任せておけというようにそう言うがロジーはそう突っ込む。彼女は実はセラフィーネのように何百歳というわけではなく、本当に7、8歳の幼女ではあるのだが。
「その前にその業者について聞かせてくれ」
「はい、それについてはオレが」
セラフィーネが求め、ここでエマが手を上げる。
「疑惑のある会社はアルトフィヨルド交易という名前です。主に南方やこの近海でとれる海産物を扱っているのですが、過去には魔獣の標本も扱っていました。そして、ここ最近では西方のクラーケンを食用目的として輸入しています」
「食用? あれを? 冗談だろう?」
「ええ。その点からしてちょっと疑わしいんです」
ジークはクラーケンの放っていたアンモニア臭を思い出して眉をゆがめる。
「食用でなければ何のためにクラーケンを輸入したのかという話になります。輸入されたクラーケンは幼体が10匹と言われていて、その中で何匹が生きたまま輸入されたのかまでは分かっていませんが、商会長に聞けば分かるはずです」
「で、踏み込もうってわけか。商会長の名は?」
「オズワルド。年齢にして50歳になるベテランです。憲兵が詳細な情報を持っています。取り逃すことはありませんよ」
「オーケー。いつ踏み込む?」
エマから報告を聞いたジークがパウロに尋ねる。
「今すぐにでも」
「いいじゃん。善は急げだ。やってやろうぜ」
パウロが準備は万端だというように言い、ジークはそう決断した。
「では、行きましょう。現地で憲兵隊の主力と合流します」
「了解だ」
ジークたちは非戦闘員のエマ、ロジー、アレクサンドラを残し、アルトフィヨルド交易への捜査を行いに向かう。
アルトフィヨルド交易は商会通りにあり、その商会通りでは憲兵たちが黒書結社の攻撃に備えていた。もし、アルトフィヨルド交易が黒書結社と繋がっているのであれば、捜査の手が伸びるのに抵抗する可能性があったからだ。
「パウロ司令官。憲兵隊は準備を整えております!」
「よろしい」
ジークたちはそこで現地で待機していた憲兵隊主力と合流し、アルトフィヨルド交易の建物に向かう。
「あれがアルトフィヨルド交易?」
「そのようだな」
アルトフィヨルド交易の建物も商会通りの建物の例にもれず、赤い屋根とレンガ造りの建物であった。正面の扉の上には帆船を描いた看板が掲げられている。
「踏み込むぞ。戦闘の備えろ」
「合点」
パウロがそう憲兵たちに指示を出し、ジークが先頭に立つ。
そして、ジークがゆっくりと正面の扉を開く。
「お邪魔しまーす」
そうしてジークが中に入るが、中には全く人気がない。
「……誰もいないぞ?」
ジークはアイゼンローゼ商会の建物の構造と似たようなアルトフィヨルド交易の建物内に入り、中をしっかりと見渡すがそこに人の気配は全く存在しない。
しかしながら、最初から人がいなかったというわけではなさそうなのだ。先ほどまで人がいたような空気は存在している。散らばった羊皮紙や置かれている温かさが残る飲み物などだ。
ジークは誰かが隠れて攻撃の機会をうかがっているのではないかと警戒する。
そこにセラフィーネとパウロたち憲兵隊が合流。
「誰もいないのか?」
「どうにも怪しい。何かあったくさいんだよな」
セラフィーネが中を見渡して言うのにジークはそう唸る。
「気を付けて捜索しろ。待ち伏せの可能性もある」
「了解」
不気味ではあるものの、ここに来たのにはちゃんと理由がある。クラーケンについて調査しなければならない。そのためパウロの指示で憲兵たちがアルトフィヨルド交易の中を捜索し始める。
カウンターの向こうに人が潜んでいないか調べ、その奥に進む。
「なんだ、この臭いは……?」
そこで憲兵のひとりが不快そうに眉をゆがめた。
酸のような刺激臭。それが建物の奥から漂ってきているのだ。
「パウロ司令官! 何かこの奥に何かあります!」
臭いをかぎ取った憲兵はすぐさまそのことを報告。報告を受けたパウロたちが憲兵の下に集まってくる。
「酸のような不快な化学薬品臭……。これは……」
パウロも臭いを嗅ぐが、その正体を特定できない。
「まさか……不味い! 下がれ!」
そこでセラフィーネが不意に声を上げると刺激臭が濃くなる。それと同時に何かが蠢くような粘着質な水音が聞こえた。
ずずずっとその粘着質な音は奥の方から近づいてきている。確実に。
「おい……これって……」
「パウロ、憲兵をさがらせろ! こいつは──」
そして、その音と臭いの源が姿を見せた。
毒々しい緑色をしたゲル状の存在。不気味に蠢くそれが無数の触腕を生やしてアルトフィヨルド交易の建物の奥からはい出てきていた。
「スライムだ!」
スライム。それは魔獣の一種であり、魔獣の中でも危険な部類に入る存在だ。
見た目通り、ゲル状の粘液で構築された体をしており、自由自在にその形を変えて行動する。さらにその粘液は強酸の体液を分泌することで知られ、捕らえた獲物を生きたまま溶かして捕食するのだ。
「クソ。こんなところでスライムに遭遇するとはなぁ!」
「ああ。信じられん……!」
ジークが素早く“月影”を構え、セラフィーネも朽ちた剣を構える。
スライムは決して市街地に出没するような存在ではない。暗くて、湿った場所を好むスライムは大陸の古い洞窟などで暮らしている。その外で活動するときも夜行性であり、夜間に行動するがメイン。そういう魔獣だ。
それが真昼間に市街地の真っ只中に姿を見せているのは異様とすら言える。
「どうやって撃退する?」
「考えている。時間を稼いでくれ」
「了解だ」
ジークはスライムの前に立ちふさがり、その前進を阻止する構えを見せた。
スライムは蠢きながら床を這い、壁を這い、ジークを捕食するような動きを取る。スライムは音は聞こえず、目も見えないが、その体は相手の熱源を感知できるという特性を持つ。まさに今スライムは熱源によってジークを把握していた。
暫くの間、ジークとスライムは様子を見るように対峙し続けていたが、ついにその触腕が鋭くジークの方に伸びて攻撃が始まった。
「そらよっと!」
ジークは伸びてきた触腕を斬り落とし、スライムの触腕はぼとりと床に落ちると強酸を染み出させながらのたうち、そして溶けていく。
しかし、スライムはすぐに次の触腕を繰り出す。スライムには痛覚というものがなく、ジークにいくら斬られようと痛みを感じることはな。それゆえに攻撃もすぐに繰り出されてきた。
「クソ。全く怯まないってのも厄介だな!」
ジークは触腕を斬り落としていくが、スライムは次の触腕を形成して攻撃を繰り返す。流石に斬り落とされた触腕を再び体に取り込むようなことはないので、スライムの体積は減っているはずなのだが、これでは切りがない。
「魔女! 策は思いついたか!?」
ジークは攻撃の速度が速くなってきたスライムに焦って尋ねる。
「ううむ。根本的な解決にはならないが、一応は」
「じゃあ、やってくれ!」
セラフィーネが唸りながら言うのにジークは焦ってそう返す。
「行くぞ」
そして、セラフィーネの攻撃が繰り出された。
彼女は無数の朽ちた剣を生み出すと、それをフレシェット弾のようにスライムに叩き込んだ。朽ちた剣はスライムを貫き、破砕し、分断する。それによって周囲に強酸の体液がまき散らされたが、スライムの体積は大幅に減少した。
セラフィーネの狙いはこれだった。地道でもスライムの体積を削ることで相手に着実にダメージを与えていくというものだ。
痛みは感じずともこの状況を不利と感じらしく、セラフィーネの攻撃を前にスライムは撤退を始める。ずずずっと素早い速度で部屋の奥の方に引いていき、残されたのは強酸の体液で溶かされた壁や床、調度品だけだ。
「何とか撃退したが、ここに誰もいないのって……」
「恐らくはあれに食われたな」
「やっぱりか……」
このアルトフィヨルド交易の建物内に誰もいなかった理由。それはスライムによって襲撃を受けて、生きたまま食われたからだと推測された。状況的にそのことに間違いはないだろう。
「しかし、どこからスライムが来たか、だな。あっちに引いていったようだが」
「追うぞ、ジーク」
ジークとセラフィーネは撤退したスライムを追って建物の奥に慎重に進む。
ジークたちが散々切り刻んだので酸でできた痕跡が床や天井に残っており、ジークたちはそれを追って進んだ。地面に敷かれた絨毯に、壁に飾られた絵画に、スライムが這って行った痕跡が刻まれている。
「ここから地下に向かったみたいだ」
ジークたちがそれらの痕跡を追って進むと、地下に続く階段にそれは続いていた。
「地下か。明かりを出す。気をつけて進め」
「あいよ」
セラフィーネは魔法で火を灯し、ジークはその明かりを頼りに地下に降りる。
明かりに照らし出されるのは数々の商品だ。アルトフィヨルド交易が主に取り扱っている北方の品々。木彫りの彫刻から絨毯などなど。
「これは……」
その中でジークは少し違和感を感じるものを見つけた。
それは絵画だ。船を襲うクラーケンを描いた精巧な絵。ジークたちが海峡で襲われた状況をそのまま描いたかのようなものであり、何も見ずに想像で描いたとは思えないものだった。
「西方で描かれた絵だろう」
ジークが絵画を見つめるのにセラフィーネが後ろからそう言う。
「分かるもんなの?」
「ああ。使われている顔料の色、絵のタッチ、そして何よりクラーケンを描いていることからも分かる」
「ふうん」
ジークはそう呟きながら、地下室の捜索を続ける。
「この悪臭は……下水か?」
ここでジークの鼻が地下室の一角から漂ってくる悪臭を嗅ぎつけた。貴重な商品を保管している場所でこんな悪臭を漂わせるとは思えないが、確かに下水の汚物の臭いが漂ってくるのだ。
「おおっと。見ろよ、これ。スライムはここから侵入してきたんだ」
ジークがそこで指さすのは地下室に穿たれた穴。
酸で床と壁と溶かされてこじ開けられたと見られ、石造りのそれに強引に穴が開けられていた。そこからジークが嗅ぎつけた下水の悪臭は漂ってきている。
「スライムがたまたま偶然ルーネンヴァルトの下水道に住み着き、そして黒書結社とのかかわりが疑われたこの商会を襲ったって可能性、あると思うか?」
「ありえん。このルーネンヴァルトには自然環境中に暮らすスライムはいないからな。魔法学園で飼育されているか、クラーケンと同じように外部から輸入されたものだけだ。前者は厳しく管理されている」
「ってことは、これはまさに黒書結社の仕業である可能性があるわけか……」
黒書結社との繋がりが疑われたとたんに、ルーネンヴァルトには自然に存在しないスライムによって襲撃されたアルトフィヨルド交易。
この事件の裏に黒書結社がいることを疑うのは当然であった。
「しかし、人間はスライムで消せても書類の類は残っているはずだ。ここに見張りを立てて、商会内を捜索するようにパウロに指示しよう」
「あいよ。そうしましょう。誰か来るまでは俺が見張ってるよ」
ジークはそう言ってスライムが侵入してきたであろう下水道につながる穴を見張り、その間にセラフィーネはパウロに状況を伝えに向かった。
「パウロ。スライムはとりあえず撤退に追い込んだ。倒せてはいないが、今はジークがスライムが入って来たであろう地下の穴を見張っている」
「クラーケンの次はスライムとは。この街はどうなってしまったのか……」
「それについて調べに来たのだろう。人間はスライムに食い殺されているが、書類の類は無事のはずだ。全て押収してひとまずここから運び出せ。またここにスライムが戻ってくる前にな」
「了解。そうしましょう」
セラフィーネの助言を受けて、パウロたち憲兵はアルトフィヨルド交易から取引先の記録や財務記録などを押収し、運び出していく。箱に収められた書類は表に止めてある憲兵隊の馬車に乗せられ、憲兵隊本部へと運ばれた。
それからパウロが地下に降りてきて穴を見張るジークの隣に立つ。
「スライムが入ってきたというのはここから?」
「ああ。見ろよ。酸で溶かされた形跡がある」
パウロの問いにジークは松明でかすかに照らされた中で、明らかに酸による浸食を受けている地下室の石材を指さした。
「私も長年このルーネンヴァルトで憲兵をやっていますが、このような事件は初めてです。地下にスライムが存在するとは……」
「それも誰かが飼っていたスライムだ。ただのスライムじゃない。悪意を持って操られている魔獣だよ」
パウロが呻くように言い、ジークが今も悪臭を漂わせてくる穴を険しい表情を浮かべて見つめる。
「案外黒書結社の拠点が下水にあったりするのかもな」
「どうでしょうか。それはともあれスライムは撃退されただけで、死んではいません。一度地下下水道を掃討する必要があるでしょうな」
「手を貸すぜ。あれは人間が相手にするには荷が重い」
「感謝します、勇者ジーク」
ジークが軽い調子で協力を約束し、パウロはそれに敬礼で応じた。
「一度神々の神殿に戻ってロジー様とアレクサンドラ館長にことを報告しましょう。おふたりならスライムについても知識をお持ちのはずだ」
「オーケー。そうしましょう」
ジークはパウロに促されて地下室から出ていく。
地下室に穿たれた下水に繋がる穴に光はなく、今も湿った暗黒の中にこの魔法の都市ルーネンヴァルトにとっての甚大な脅威を覆い隠している。
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