とんだ顛末
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──とんだ顛末
あのままジークは宿屋に戻ってきた。
「ん? もう帰ってきたのか?」
「おかえりなさい、ジークさん」
宿では食堂で引き続き寝る前の晩酌をしていたセラフィーネとエマが出迎える。だが、彼女たちは返事をせずに何やら俯いているジークに首を傾げた。
「どうした?」
「……何でもない」
セラフィーネが改めて尋ねるのにジークはぼそりとそう言って部屋に向かう。
「どうしたんでしょう、ジークさん……?」
「さあな? 前にも花街に遊びに行ったのにがっかりして帰ってきたことがあったが。存外くだらないことなのだろう」
エマが心配するが、セラフィーネはそう鼻で笑いワインのグラスを口に運ぶ。
「ただ、妙に強い男の臭いがしたな。男が興奮した汗の臭いと血の臭いだ」
「え? 花街に行ったんですよね?」
「女の取り合いでもしたんじゃないか?」
それならば大層愉快なのだがとセラフィーネは笑う。
「さて、ジークも帰ってきたことであるし、我々もそろそろ部屋で休むか」
「そうですね。おやすみなさい、セラフィーネさん」
「ああ。また明日な、エミール」
そうしてセラフィーネがジークが先に入った部屋に入ったときだ。
「……どうした、ジーク? 気分でも悪いのか?」
ジークはベッドに腰掛け、頭を抱えるように俯いていた。セラフィーネが少しばかり怪訝に思って話しかけても無言である。
まるであのオーギュスト・ロダンの名作『考える人』を10倍ほど深刻にしたようであり、ジークは宿屋の床を穴が開きそうなほど見つめているようにも見えた。一言も発さないのがますます不穏である。
「なんだ? 花街で女に振られたのか?」
ちょっとばかりからかってやろうとセラフィーネがそんなジークの隣に座ってそういう。しかし、ジークは未だ無言であり、反応する様子がない。じっと座り、じっと床を見ている。
いや、違う。彼は床を見ているかと思ったが、そうではなかった。彼が深刻な表情で見ているのは──自分の股間である。彼は自身の股間をじいっとただひたすらに見つめ続けていたのである。
……まあ、そういうことである。
精力剤が催す興奮をトーマスとの喧嘩である程度発散したものの、未だにジークの中では性的なフラストレーションが暴れているのだ。強固な理性をきかせて我慢はしているものの、長旅で積もり積もったそれが精力剤という追加の燃料を得てジークの性欲をくすぶらせていた。
何せ普通ならば一晩中女を抱いても元気でいられると豪語されているものだ。それを一晩どころか一度も抱かずにいれば、どうなることやらで。
「ふん。よほど深刻らしいな……」
ジークが内なる情欲を抑え込もうと努力しているのをセラフィーネはいまいち理解しておらず、心を無にしようとしているジークの顔を覗き込んだ。
そこでふわりとセラフィーネから女性らしい香りがジークの鼻腔に吸い込まれた。本能的に男に女を感じさせるそれにジークの眉がぴくりと動く。彼自身、ここで興奮しては不味いと理解しているものの、本能がジークを絶えず刺激してくる。
「また花街で失敗したならば、私が相手してやろうか?」
この言葉は冷やかしのそれであったのだが、今のジークにその手の冗談は通じない。
「……本当だな?」
ジークは呟くようにそう言うと隣に座ったセラフィーネの肩を掴み、そのままベッドに押し倒し、その上に覆いかぶさった。
ジークが情欲に滾る目でセラフィーネを見下ろすのに、からかっていたつもりであったセラフィーネが珍しく目を白黒させて驚く。
「……お前、本気か?」
これまではどれだけ誘惑しても全くその気にならなかったジークが、今は目を血走らせるようにしてセラフィーネを見つめている。そのことに思わずセラフィーネはそう疑問を発した。
「ああ。あんた、前に言ったよな。英雄なら女は力で奪い取れって。じゃあ──そうさせてもらう」
ジークはそう言うと自分の上着を脱ぎ棄てた。戦いの中で鍛えられ、傷ついた肉体がセラフィーネの眼前に示され、その有無を言わさぬ空気にセラフィーネは息をのむ。
「……それならば是非もなし」
セラフィーネは運命を受け入れたかのように目を閉じて頷いた。
「だが、少し待て。せめて服は自分で脱ぐ」
そう言って彼女は自分の服を脱ぎ始めた。
赤い軍用外套を脱ぎ、黒いワンピースを脱げば、キャミソールとショーツの下着姿になった。黒を好むセラフィーネが身に着ける下着も黒く、黒く艶やかな髪と白い肌に黒い下着がコントラストを描く。
女性らしい起伏に富んだ体とは言えないものの、決して女性らしさがないわけではない。僅かに膨らんだ胸のラインと腰の締まった曲線は今のジークをさらに興奮させるのに充分であるはずだ。
「……私は初めてだ。あまり乱暴にはするな」
セラフィーネがそう言ったとき、彼女は信じられないものを見た。
「……おい、お前……。何を気絶しているんだ?」
ジークはベッドに目を開けたまま突っ伏していたのだ。鼻からは僅かに鼻血が滴っている。そう、彼はあまりに興奮しすぎて気絶してしまったのである。
これは我慢のしすぎが原因のひとつであった。本来ならばもっと早くに発散されるべきだったものをため込みすぎたせいで、頭に血が上りすぎたのだ。あの精力剤さえ飲まなければこういうこともなかっただろうに。
「信じられん。この阿呆が!」
セラフィーネは顔を真っ赤にしてジークの頭をひっぱたいた。
「本当にこの……女に恥だけかかせおって……」
憤慨するセラフィーネだが、心の中では少しだけ安堵していた。先ほどまでのジークが自分を優しく抱くとは思えなかったからだ。あれだけの情欲に狂ったジークに抱かれるというのは彼女も少し怖かった。
不老不死の魔女とはいえど、初体験には優しくしてもらいたいものなのである。
* * * *
翌朝。
「……おはよう」
頭に微妙な痛みを感じながらジークが宿の食堂に姿を見せた。
流石に昨日は興奮しすぎて、まだ頭に痛みに残っている。ジークの経験からすれば、これは朝飯を食べ終えるまでは続く痛みだ。どんな痛みも一晩寝れば治るはずのジークでも気絶するほど興奮していては。
「おはようございます、ジークさん」
エマは朝食のパンを片手にジークに挨拶。
「ふんっ」
セラフィーネの方は鼻を鳴らしただけで挨拶には応じない。まだ昨日のことが腹に据えかねている様子だ。
「あー。俺の記憶が飛んでいるんで尋ねるんだが……昨日は何もなかったよな?」
「知るか」
ジークが心配そうに尋ねるがセラフィーネはそう返すのみ。
「なんだよぉ。何もなかったなら腹立てなくていいだろぉ……」
ジークはセラフィーネの態度が理解できず、そのまま朝食のテーブルに座る。彼は何もなかったからセラフィーネが腹を立てていることに気づいていない。
「朝食です、お客さん!」
それからすぐにジークのためのパンとチーズ、それからスープの朝食が看板息子であるフィンの手で運ばれて来た。
「で、今日はどうする? 出発は明日を予定しているけど、それまでにやっておくべきことがあるか?」
ジークはパンを千切り、チーズを切って乗せ、口に運びながらそう尋ねる。
「そうですね。買い物は終わっていますし、ゆっくりしてもいいと思いますよ」
エマはそう言いながら、まだご立腹の様子のセラフィーネの方にちょっとばかり視線を向けたのちにジークの方を見た。
それは『時間はあるのだからセラフィーネのご機嫌を取ったらどうか?』と言っている様子であった。
「そうだよな……」
ジークも未だに腹を立てているセラフィーネを見てため息交じりに頷いた。
「なあ、魔女。今日は俺と一緒に過ごさないか? いろいろとふたりで見て回ろうぜ」
「ご機嫌取りのつもりか?」
「そんなんじゃないよ。純粋に一緒に観光しようってだけ」
ジト目でジークを見るセラフィーネにジークがそう弁解。
「……分かった。付き合ってやる」
セラフィーネはしばし沈黙したのちにそう言って同意した。彼女としてもジークをいつまでも責めるつもりはないのだろう。
今ジークとの関係がこじれるとルーネンヴァルトまでもう少しであることもあり、さらにはルーネンヴァルトへの道のりを知っているエマの存在もあって、ジークがセラフィーネを必要としなくなるかもしれない。
そうなると彼女が結んだジークと戦う約束もパーになってしまうのだ。
「よし。じゃあ、この街をしっかり観光してから出発だ」
ジークの方も同じ旅の仲間をぎすぎすするのは望んでいないので、セラフィーネとの関係を改善しておきたかった。
「エミール。ここの観光名所って知ってるか?」
「そうですね。運河にかかる跳ね橋とか、あとは古い神々の神殿がありますよ。それから市場は賑わいますね」
「ありがと。そこら辺、巡ってくるよ」
「いってらっしゃい」
エマに送り出されて、ジークとセラフィーネはヴェスタークヴェルの観光へ。
「……なあ、一応確認するけど昨日は何もなかったよな?」
「……ふん。安心しろ。何もなかったぞ」
「そ、そうか……」
なら、どうしてそんなに腹を立てているのかと聞きたかったが、ジークはそれは藪蛇だと思って言葉を飲んだ。
「まずは跳ね橋を見に行くか。運河にかかってるってよ」
「そういうものは昔はなかったな」
ジークはそう言い、セラフィーネを連れて運河にかかる跳ね橋を目指した。彼らが運河沿いを進むとその視線の先に大きな橋が見えてくる。間違いなくあれだ。
「おお! 凄いな。もうちょっとへちょい橋かと思っていたけれど」
運河に架かっているのはとても立派な跳ね橋で、運河を船が通る時には両岸に橋が上がるような仕組みだ。実際に運河に船が差し掛かると、橋の交通が止まり、それからゆっくりと橋が上げられる。
木製の大きな橋がきちんと稼働しているのにジークは満足そうに見入った。
「確かに面白いものではあるが、わざわざここまで見に来る意味はないな」
「そういうこというなよ。観光なんてこんなもんだって。普段とは違う場所でこういう珍しいものを見て、人生の経験にしておくの」
「ふうん」
セラフィーネはあまり跳ね橋に興味がない様子だったが、ジークにそう言われて一応は跳ね橋が再び下げられるのまでを見届けた。
「さあ、橋は見たぞ。次はどうする?」
「屋台の飯でも食いながら、神々の神殿に参っておこうかね」
「それなら興味があるぞ」
信心深いセラフィーネは跳ね橋より神々の神殿の方に興味があるようだ。
「しかし、この辺りは屋台が多いな。やっぱ観光名所には店が出るものか」
ジークはそう言いながら香ばしい香りを放つ屋台の列を眺める。ここら辺には多くの屋台が出店しており、観光に訪れた人間などに軽食を提供していた。
定番の魚醤を使ったタレを塗って焼いた美味しそうな串焼き。香ばしい香りを漂わせているボリュームたっぷりのミートパイ。他にも油で上げた白身魚のフライを売っている店や、新鮮なフルーツをそのまま売っているところなど様々だ。
「どれにしようかね。ここまで歩いてきたらちょっと腹が減ったよ。手っ取り早く串焼きなんか──」
「あ! 君は!」
そこでジークの耳に聞き覚えのある声が。
「あんたは……トーマスか。どうした?」
ジークが振り返ってみる先には昨日からそのままなのだろう、ジーク殴られた青あざを付けた魔法使いのトーマスがアマーリアを連れて立っていた。
「探していたんだよ、君のこと。昨日アマーリアが返金するというのに受け取らずに帰っただろう?」
「ああ。それなら別にいいよ、返さなくても。俺からのご祝儀とその目のあざの治療代だと思ってくれ」
「君は……いいやつだな。ありがとう」
ジークが苦笑いを浮かべていうのにトーマスはそう言って嬉しそうに頷く。
「それより無事に身請けできたんだな? 何よりだ」
「そう。これからルーネンヴァルトで暮らすことになる。君はこれからどこへ?」
「俺と連れも目的地はルーネンヴァルトだ。そこにある大図書館が目的地」
「おお。それならルーネンヴァルトを訪れたときに俺の家を訪ねてくれ。アマーリアと一緒にもてなすよ」
「ありがとう。じゃあ、お幸せにな」
「ああ!」
トーマスはアマーリアに腕を抱かれながら立ち去って行った。
「あれが昨日のトラブルか?」
「まあな。いろいろあったんだよ」
セラフィーネがジークとトーマスのやり取りから察したように尋ね、ジークは困ったような笑みを浮かべてそう返す。
「では、昨日も女は抱き損ねていたわけか」
「ついてないよな、本当」
ジークはため息をつきながら改めて屋台を見渡す。
「串焼き食ってから神々の神殿に行こうぜ」
「ああ」
それからジークとセラフィーネは串焼きを買い、豚肉を焼いたものを味わう。労働力として貴重な牛や鶏卵目的の鶏と違って、豚肉は市場に出回りやすいので大抵の屋台の肉は豚肉だ。
「結構いけるな、これ」
「そうだな。タレに工夫がしてあるのだろう。これはタレの旨味だ」
「そういうの分かるの?」
「私だって無駄に700年生きたわけじゃないぞ」
ジークたちは運河を眺めながら串焼きを平らげ、それから神々の神殿を目指す。
神々の神殿は基本的に都市の中心部にある。神々が実在し、地上に干渉するこの世界において神々への信仰は政治経済に直結するものだからだ。
「この街の神々の神殿も随分と歴史が出てきたな」
「へえ。ヴァイデンハイムのそれより古いな」
ヴェスタークヴェルの神々の神殿の歴史は300年ほど前までさかのぼるそうだ。この街が成立したときから存在するのだとかで。
「あんたは知ってるんだろう? この神殿の歴史ってやつ」
「ああ。この街が成立したときに商業神ガネーシャから祝福を得たそうだ。それを記念して世界でもっとも大きな神殿を作ろうということになった。各地から有名な建築家を招き、そうして建てられたのがこの神殿だ」
「へえ。ご利益はあったの?」
「もちろんだ。ガネーシャの加護のおかげでこの街はこうして有数の商業都市になったのだからな」
「ふむ。確かにこの街は栄えている。それも神々のおかげか」
ここに参れば自分も金持ちになれるかねとジーク。
「ふふ。それは貴様の努力次第だ。神々は祝福すれど願いを勝手には叶えてくれん」
「みたいだな。だけど、まあ、拝んでおいて損はないだろう」
ジークたちはそれから神殿の中に足を踏み入れる。
当時は確かに世界最大の神殿だったのだろう。ヴェスタークヴェルの神殿はとても広かった。ヴァイデンハイムのものとは違い数千名を収容できるものだ。
そして、象の頭を持つ商業神ガネーシャの石像とそのほかの神々の石像が礼拝堂を囲むように祭られている。
「お金持ちになれますように」
ジークはそう言ってガネーシャの石像を拝む。
「いつ来てもここの神殿は賑やかで、神々への侵攻が感じられる。いい場所だ」
「あんたは本当に信心深いよな。昔、何かあったのか?」
「あったぞ。いずれお前にも話してやろう。私が戦神モルガンに見初められた経緯も」
「期待している」
ジークはそう言い礼拝堂の椅子に腰かけた。セラフィーネもジークの隣に腰掛ける。
「……あのさ。機嫌、少しは直った?」
「……ああ。一応は、な」
「それはよかった」
セラフィーネは機嫌がいいとは言えないが悪くもない様子であり、ジークはひとまずは安堵。
「けど、どうしてあんなに機嫌が悪かったんだ? 俺、何もしなかったんだろう?」
そこでジークはそう尋ねる。
「そう、お前が何もしなかったからだ」
セラフィーネは再び腹を立て始め、ジークは寝た子を起こしてしまったと焦る。
「きょ、今日はおごるからさ。あとでまた飲もうぜ? な?」
それから再びジークがセラフィーネの機嫌を直すまで、かなりの時間がかかったのであった。そして、結局ジークはセラフィーネがどうして機嫌を損ねていたのか、分からずじまいであったのだ。
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