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夜の誘惑

……………………


 ──夜の誘惑



 それからジークたちはたっぷりと食事をし、酒を飲み交わし、いい気分になったところで部屋に向かった。


「湯を準備しました。どうぞ」


「おお。助かるぜ」


 今日の疲れを拭い去ろうとジークは神殿の聖職者が準備してくれたお湯と布で体を拭き始める。走り回って流した汗もグールから浴びた血も洗い流し、すっきりしてから眠りたかった。


 ジークはギュンター少佐たちからもらった衣服を脱ぐ。ギュンター少佐のウールの外套は寒さを凌ぐのに役立つがちょっとタバコ臭いのが難点だ。それ以外は予備だったので新品同様であり、ジークはリネン地のシャツとリネンを裏地に使った麻のズボンを脱ぐ。


 それから下着ひとつになると布でしっかりと体を拭き、長旅の汚れとこの街で繰り広げた戦闘のせいで桶が濁ってくる。


「あー。本当に風呂に入りてぇよ~」


 お湯で体を拭くだけでもある程度すっきりはできるのだが、やはり湯船にしっかり浸かってお湯で体をほぐす喜びには代えがたい。温かい湯の中でゆっくりと体を伸ばし、汗を流す。


「まあ、ここまでしてもらっただけ良しとしよう」


 この街はさっきまでグールによって滅びかけていたのだ。そんな中で食事や寝床、そしてこうして湯まで準備してもらえたのは素直に感謝すべきである。


 でも、やっぱりお風呂が恋しいジーク。次の街では絶対に風呂に入ろうと決意し、用意してもらった桶と布を返却する。


「さあて。そろそろ寝ようかな」


 久しぶりに缶詰や固いパン以外の上等な食事、そして何より美味い酒に恵まれ、ジークはすでに眠気が生じていた。今日はこの眠気に任せてぐっすり寝ようと、そう決意してベッドに飛び込む。


「ん?」


 しかし、そこでジークは何かを感じ取った。


「誰だ?」


 ジークが虚空に向けて呼びかけると、空間に裂け目が生じた。空間操作だ。


 その切れ目を白い手がぐいと押し開け、出てきたのはセラフィーネである。


 しかし、今日の彼女はいつもの軍用外套と黒いワンピース姿ではなく、白いキャミソール姿だ。割と上質そうな布地で作られたそれが、セラフィーネの少女らしいささやかだが確かな膨らみを見せている。


「ふふ。流石は勇者だな。すぐに気づくか」


 まだ少し酔っているのか、頬をかすかに紅潮させたセラフィーネは怪しく笑う。いつもの強気さが窺えるツリ目がちな目を細めて。


「なんだよ。寝込みを襲いに来たのか?」


 これから気持ちよく寝ようと思っていたジークはそれを邪魔されて渋い顔。


「まさか。別に襲いに来たわけではない。ただ癒してやろうと思ってな」


「癒し?」


 セラフィーネからは連想もできない単語が飛び出したのにジークはますます渋い顔をして彼女の方を見つめる。


「お前、今日も給仕をしている女の尻を目で追いかけていただろう?」


「え、えーっと。それは、まあ……」


 今日、食事を給仕してくれた女性は若く、美人だったのでジークは彼女の尻をずーっと視線で追い回していたのだ。


 それもそうだろう。ジークは若くして不老不死になった。肉体のパフォーマンスが全盛期のままながら、当然ながら性に関する元気も若いときのままだ。


 それが何日も若くて美しい女性と旅し、それでいながら禁欲生活を強いられれば、その手の鬱憤もたまるというものである。


「いつまでもあんなみっともない真似をさせておくわけにはいかないからな。英雄の名が汚れるというものだ。よって、ここは私が相手してやろう」


 セラフィーネはそう言うとジークが横になっているベッドに上がり込み、ジークの腰の上に馬に乗るように跨った。軽いが確かな体重がジークの腰に感じられ、ベッドが軋みを上げる。


「おいおいおい。それやったら冗談じゃすまないぞ?」


 ジークはセラフィーネに向けてそう警告する。


 流石に性的対象に見ないようにしてきたセラフィーネだが、ここまでやられて自制できるほどジークも鍛えられていない。


 ジークの頭の中ではこのまま押し倒してしまえという欲望に率直な気持ちがはやり、それをセラフィーネをこういう関係を持つのは危ないという気持ちが後ろに一生懸命に引っ張っている状態だ。


「ふふ。お前が相手ならば構わないぞ。それとも私では不満か……?」


 それからセラフィーネはどこか寂しげにそう言い、ゆっくりと上半身をジークの方に倒す。ふわりとセラフィーネの長い髪が垂れ、ジークの鼻腔を甘い香りがくすぐる。石鹸と女性の使うかすかな香水の香りだ。


「ぐぬっ」


 ジークもこれには参った。今のセラフィーネからはいつものバトルジャンキーさが消え、血の臭いもしない。それこそ外見年齢相応の魅力的な女性に見える。人形のような可愛らしさで、男の本能を刺激する甘い香りのする女性だ。


 だが、中身が変わったわけではない。中身は変わらずいつものセラフィーネだ。殺し合いを好むイカレた戦闘狂である。それとこういう関係を持つのは……のちのち絶対に不味いことになる。そうジークの本能の一部が警告していた。


 悶々と欲望と理性の間で苛まれたジークはついに──。


「俺はお情けで抱かせてもらうほど安い男じゃない」


 そう言って起き上がり、ひょいとセラフィーネを抱えるとベッドの横に下した。


「……いいのか? あとでやっぱり気が変わったなどといっても聞かんぞ」


「ああ。俺だって500年前だけど名をはせた英雄だぜ? 女を抱かないくらいで死にはしないさ」


 ジークはそう言ってにやりと笑って見せた。まあ、しかし半分以上は強がりである。


「ふっ。そうでなくてはな。英雄ならばそちらから私を押し倒し、奪い取るように抱くぐらいでなければならん。しかし……」


 セラフィーネはジークの隣に座り、不意に彼の顔に自分の顔を近づけた。


 次の瞬間、ジークの唇にそっとセラフィーネの柔らかな唇が触れる。それがキスだと気づくまでにジークは数秒かかった。セラフィーネの行動が突飛だったからだ。


「え? なんで……?」


「英雄が不躾な武具に汚されたままでは気に入らんからな。上書きさせてもらった」


「あ……」


 確かに“月影”の化身の吸血行為をセラフィーネは気に入らないようすだった。だが、今の彼女の顔には単純な怒りではなく、嫉妬のような色が見て取れる。


「……もしかして、“月影”に妬いたのか?」


「そんなわけあるまい。失礼なことを言うなよ」


「すまん、すまん」


 ふんと不快そうに鼻を鳴らしてセラフィーネが言うが、その頬は酒のためか、それとも別の要因か、未だ僅かに紅潮していた。


「それではな。お休み、ジーク」


「ああ。お休み」


 それから眠ろうとしたジークはセラフィーネが残していった甘い残り香にしばし悶々として過ごしたのだった。


 数か月にわたる禁欲生活は、やはり辛いものがあった。



 * * * *



 その翌日。


 ジークたちは市民が用意してくれた朝食を食べ、それから再びヴァイデンハイムのグールの掃討戦に参加した。


 とは言え、昨日の段階でグールはほぼ掃討されており、今日はほとんどやることはなかった。活躍といえばセラフィーネが負傷した兵士を魔法で治癒したぐらいであり、ジークも数体グールを斬った程度。


 その間、市民たちも元の暮らしに戻ろうと努力を始め、まずはこの災害で犠牲になった死者たちが埋葬され、神々の名において弔われた。


 この世界では宗教的な理由というより、単純な燃料代などの問題から火葬にすることはあまりなく、ほとんどの場合は土葬となる。


 棺に収められた死者は街の郊外にある墓所へと埋葬された。


「冥界神ゲヘナの名において。安らかに眠れ……」


 墓所には冥界神ゲヘナの姿をかたどった石像が死者たちを見守っている。ゲヘナは竜の血を引く女性として描かれており、翼と角を持ち慈愛に満ちた表情をした少女の像が墓所を守護していた。


 災害で生じた大勢の死者とは言えど、ひとりひとりにこれまでの人生があり、家族がいる。だから、雑に埋葬することはできない。ひとりひとりを市民と聖職者が丁寧に埋葬し、ゲヘナの名において祈りの言葉を捧げる。


 ジークたちも何度か葬儀には参加し、死者を弔った。


 死者たちの埋葬が終わってからグールの後片付けが始まる。グールの死体には経緯は必要なく、可能な限り街から離れた場所に大きな穴を掘って、そこに死体は放り込まれていった。


 街の近くに埋めればグールの有する毒が地下水を汚染するかもしれないし、仲間の死体の臭いに反応したグールたちがまた街を襲うかもしれない。そういう理由からグールたちの死体は荷車で遠くに運ばれたのだった。


 ジークたちは道中で街の市民が襲われてないように護衛につき、グールの死体の処理を手伝った。幸いにしてそちらでも新手のグールが現れることはなく、ジークたちはヴァイデンハイムとその外を何度も往復しただけだった。


 それから混乱の中で死亡した市長の代わりとなる臨時の市長にヨナタンが選出され、順次商店街の店舗が経営を再開し、神殿も祈りの場としての機能を取り戻したことで街には落ち着きが戻り始める。


 臨時の避難所になっていた神殿から市民たちが自宅に帰宅を始めたことも、街の回復を物語っていた。神殿の周りに合った天幕は片付けられていき、市民たちは自宅での生活を取り戻した。


「そろそろ俺たちの役目は終わりかね?」


 ジークは街が元通りになっていくのを眺めて、セラフィーネにそう問う。


「そうだな。グールはもう街にはいない。地下まで探したが、見つからなかった。これで隠れていたとしても1、2体ならば生き残った民兵たちで処理できる」


 すでに危機は去ったと言ってよい。グールはほぼ完全に駆逐された。これからはジークたちの力を借りずともヴァイデンハイムは復興していくだろう。


「じゃあ、そろそろお別れを告げて次の街に向かいますか」


 なので、ジークたちはそろそろ出発することに。


「ヨナタン市長! 俺たちはそろそろ行くよ」


 ジークたちは街の復興の指揮を執っているヨナタンの下に向かってそう告げた。


「やはり先を急がれているのですか?」


「まあね。別に時間はいくらでもあるんだが、いつまでもここでただ飯食ってるわけにはいかないし」


「そんな、ただ飯だなんて。ジークさんたちのおかげでこの街と市民は助かったんです。もてなさせてください」


「はは。もう十分もてなしてもらったよ」


 ヨナタンが言うのにジークはそう言って苦笑して返した。


 数日間、毎日のように美味い料理と酒を出してもらっていて、グールも駆逐されてやることがなくなってきたジークとしてはこの手厚いもてなしに逆に申し訳なくなり始めていたのだ。


「それではせめて最後にみんなで宴の場を囲みませんか? これからのジークさんたちの旅の安全とこの街の復興を願って」


「いいね。俺たちも別れをみんなに告げておきたいし」


「では、準備しますね」


 それからヨナタンたちはジークたちを見送るための宴の準備を始めた。


 その宴は街にある大きな宿屋の食堂で盛大に開かれることとなり、そこにジークたちは集まった。


「おお。もういい匂いがしてきたぜ。肉の匂いだな。たまらん」


 夕方の街の通りを歩きながら、ジークは鼻を鳴らしてそういう。


「旅の準備は問題ないのか?」


「ああ。携行食糧は新しく買い足したしな。明日には出発できるぞ」


「それならばいうことはない。今日は勝利に酔うとしよう」


 ジークとセラフィーネはそう言葉を交わし、宿屋の扉を潜った。


「お! いらっしゃったぞ!」


「ようこそ! ジークさん、セラフィーネさん!」


 街の市民が声を上げてジークたちを出迎える。


 すでに宿の大きなテーブルの上には子牛の丸焼きが乗せられ、他にもゆで上げられた腸詰肉や炙りベーコン、シチュー、ミートパイ、それからケーキなども並べられていた。それから樽で準備されたワインも。


「おおおっ! 凄い料理だな! こいつはいいや!」


「ええ。今日は盛大に食べて、飲んでと楽しんでいってください!」


「そうするよ。ありがとうな」


「礼を言うのはこちらの方です」


 それからは宴は盛り上がった。


 市民のひとりがリュートで音楽を奏でる中で市民たちが男女で踊り、料理は次々に運ばれてこられ、酒のグラスも空けば次がすぐさま注がれる。


「一曲踊りませんか、英雄様!」


「いいぞ!」


 ジークも町娘と一緒にリュートの音色に合わせて踊る。酔っているが、なかなか優雅なステップを踏んだ踊りに市民からは歓声が上がった。ジークも500年は生きていて、その中で何度も宴には参加したのでダンスの心得はあったのだ。


「どれ、私とも踊れ、ジーク」


「え? あんたも踊ったりするの?」


「悪いか?」


 ここでセラフィーネが酒のグラスをおいて立ち上がり、ジークが戸惑う。


「ふうん。意外だぜ。戦い以外興味がないかとばかり」


「戦いは私の人生の中心だが、戦いだけが人生ではない」


「じゃあ、お手並み拝見と行きましょう」


「行くぞ」


 ジークとセラフィーネは手を握ると踊り始める。


 ジークの素早いステップのリードにセラフィーネは簡単についてくる。それどころが途中からはセラフィーネがリードを握り始めた。セラフィーネの鋭く、素早いステップに対してジークはにやりと笑って従っていく。


 戦いにおける動きにも似たふたりの全く無駄のない動きに、市民たちはいつしか見とれていた。リュートは彼らの速度に合わせて曲のテンポを上げていき、ジークとセラフィーネは一曲を踊り切ったのだった。


「あんたと踊るのもなかなか楽しいな」


「だろう?」


 ジークが満足そうに言い、セラフィーネはいつもの不敵な笑み。


 宴はそのまま夜遅くまで続き、ジークたちは料理、酒、音楽に踊りを楽しんだ。


 ヴァイデンハイムの夜は更け、出発の時間が近づいてくる。


……………………

無事に10万字到達いたしましたので、1週間お休みをいただきます。

次の更新日は11月21日です。


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