最終話 フレンチレストラン シェ・セゾン
「スモさーん! 私今日誕生日なんです! 祝ってください! あわよくばなんか奢ってください!」
「うむ、その図太さ嫌いではない。だが小娘よ、せっかくの誕生日なんだから彼氏に奢ってもらえばよかろう」
電話口で騒ぐ小娘にそう言うと、一転してどよーんとした返事がかえってきた。
「いま彼氏いません。一人でケーキドカ食いしようかと思ったんですが、あまりにも寂しいなと気づきまして」
「それで我が輩に電話してきたと。なるほど二十歳を超えた誕生日、夜中にぼっちケーキとは実に哀れな図であるな」
むきーと叫ぶ小娘であった。小娘をおちょくるのが最近の我が輩の癒しである。
我が輩が荒み切っていたらバアルと一緒にボタン押しちゃうかって意気投合していたかもしれぬし、核戦争を防いだ立役者の一人だと考えれば多少は甘やかしてもよかろう。
「ちょうどいい、小娘に飲ませたかったスープがあるので奢ってやろうではないか。レストランゆえ小奇麗な服で来るといい」
「やったー! すぐ行きまーす!」
そんなわけで待ち合わせをし、山手線のとある駅で降りて閑静な高級住宅街を歩くことしばし。
辿り着いたのは歴史ある洋館といったたたずまいのフランス料理の店であった。
幕末のころにどこぞの旧大名家が別荘地として欧米の建築家に建てさせたという歴史ある邸宅で、今日では庭園を眺めながらフレンチを楽しむことができる。
「え、めっちゃ雰囲気あるじゃないですか。こんなところ奢ってもらっちゃっていいんですか?」
「誕生日ぐらい祝われても良かろうよ。それに、小娘にもあのスープを飲んでみて欲しいからな」
きっちりと給仕服を着こんだギャルソンに案内されながら、我が輩は小娘に説明する。
「そのスープは栗を使うから季節ものでな、秋にしかコースの中に並ばない。もちろんメインの肉料理であるとかも美味ではあるのだが、この店が名店として褒めそやされるのは我が輩に言わせるとそのスープがあるからだと思う。現に、肉料理でも魚料理でもなく、この時期この店のスペシャリテになっているのはそのスープなのだ」
昼間に来店したのでフルコースではなく、日本語で言うところの突き出し、アミューズは提供されない。
前菜、オードブルとして出てきたチェリートマトとアボカドのグラスサラダをさっぱりと頂くと、いよいよ我が輩が推す例のスープのご登場である。
「お待たせいたしました。栗とフォアグラのポタージュ、オマール海老のムースを乗せて、でございます」
うっすらと橙色で不透明なスープに、カプチーノのような泡があわあわと乗せられている。それを我が輩はスプーンで一口、すすってみた。うむ、我が輩が感動したあの味のままである。
「じゃあ、スモさんの推し、私もいただきますね」
笑いながら小娘も一口、スープをすすった。おいし……などと言いかけた小娘の動きがぴたりと止まり、笑顔が引っ込んだ。
口の中の感覚を疑うかのように、もう一口飲んでみる。そのまましばし、時が止まったかのように小娘は動かなかった。
「これが、スモさんの飲ませたかった、スープ?」
「すごかろう?」
悪戯が成功した子供のように、我が輩はにんまりと笑った。
我が輩も初めて飲んだときは驚いたものである。一口飲んだだけで、膨大な情報が舌の味覚を押し開いていくような感覚になるのだ。
「なにこれ鳥肌立ちましたよ、私。こんな感覚初めてです」
「小娘よ、それを味覚が開かれる、というのだ」
まず感じるのは、栗の甘みを含んだ味と、炙ったフォアグラを溶け込ませた濃厚なコク。それに生クリームのまろやかさと、オマール海老のうま味。
それらを、ベースに使ったブイヨンがしっかりと支える。それもすごく丁寧に作られたやつだ。
香味野菜と牛すじと鳥の骨付き肉の部分を、沸かさぬようにことことと、アクを取りながら気の遠くなるような時間煮込んだ、透き通る黄金のブイヨン。
味のバランスが壊れぬように、どれか一つが突出して他の味わいを押し潰してしまわぬように、ブイヨンに栗、フォアグラ、生クリーム、オマール海老という強い食材たちと組み合わせるのだ。
一杯のスープとして完成するまでに何十種類の食材が使われたかもわからないそれを口に運べば、凄まじい量の味という情報が舌の味覚を押し開いていく。これを作ったシェフの偏執的ともいえるこだわりさえ伝わってくるほどに。
「我が輩は、これを西洋料理の集大成というかな、奥義のようなものだと考えている。和食がかつお節と昆布で出汁を取り、色々なもののベースとするように、西洋料理は野菜や牛骨などからブイヨンを取り、それを色々な料理に活用する。出汁に対するこだわり、そしてその扱い方。それは、長い長い年月をかけて、ありとあらゆるシェフが進化させてきた、西洋料理の歴史そのものでもある。小娘が目指しているのは和食なのであろうが、和洋の差はあれど、同じことだと思う。我が輩は、小娘が今までの料理人が紡いできた歴史を受け継ぎ、そして新たな味を作っていくのを楽しみに待っているのだ」
食とは、そういうものだ。板前の技は一代限り。されど、先人の試行錯誤は若者に受け継がれ、そして発展していく。連綿と続く人の営みそのものと言っていいだろう。
それゆえに、我が輩はこの世界が壊れることを望まない。人はみなすべて、未来へ続く架け橋だ。
「ひょっとして、スモさんって思ったよりすごい料理人だったりします? どこかのでっかいホテルの料理長とか」
我が輩はからりと破顔した。説教じみたおじさんと思われることも覚悟していたが、どうやら小娘の心には響いたらしい。
「我が輩は料理などできぬよ。料理人の作ったものを飲み食いして、これうめえあれうめえなどと楽しむしか能がない」
「え、私いますっごいスモさんのこと尊敬してるんですけど」
「このスープを作ったのはここのシェフであろうに、我が輩など尊敬しても仕方なかろう。まだ魚料理も肉料理も来ていない、冷める前に飲んでしまいたまえ」
「それもそうですね、冷めちゃったらもったいない。うわ、やっぱり美味しいなあ」
さすがは一流店の魚料理に肉料理であった。
ひとしきりコースを食べ終え、満足した我が輩たちは店を後にした。
からりと晴れた夕暮れ前の秋空に、そよそよと風が心地よい。
「ところでスモさん」
「どうした小娘よ?」
閑静な住宅街を二人して歩きながら、小娘が何でもないことのように口を開いた。
「彼女って募集中だったりします?」
「ふむ」
我が輩は少し考え込んだ。何と言えばいいであろうか。
「我が輩は悪魔であると言ったな? あれは本当の話でな、魔界にいる我が輩の本体は女の子侍らせまくりというか、それが仕事なのであるが。いまはバカンスに来ているようなものなので、恋人を作るつもりはない。信徒になるというならばいつでも歓迎するがな」
「そうですか」
よくわからないことを言われて煙にまかれたと思ったのであろう、隣からしゅんとした気配が伝わってきた。恋人を作るつもりはないと言ったところだけを拾ったのであろう。
「例えば我が輩は、あそこに時計がついたタワーがあるな? あそこに十秒後に雷を落とすことだってできる。悪魔というものは凄い力を持っているのだ」
「あはは、ならやってみせて――」
瞬間。雲一つない青空を切り裂いて、雷がきらめくとともにすさまじい轟音が鳴り響いた。
びりびりと空気が震え、あちこちからキャーといった悲鳴が聞こえる。
着弾地点は我が輩が指し示した時計台のタワーであった。
ごくごく薄い可能性ではあるが、あり得るかもしれない事績。それを引き寄せる力を奇跡という。
振り返って小娘を見れば、我が輩を得体の知れないものを見るような目で、茫然と眺めていた。
「我が輩は、色欲を司りし大悪魔アスモデウスである。小娘よ、日常に帰るがいい。ただし、どうしても我が輩の信徒になりたいというのなら――歓迎するとも」
これが、悪魔のささやき。普通の人生を送るか、非日常へ足を踏み入れるかの分岐点。
我が輩たち悪魔は、いつだって選択肢を用意して答えを待っている。




