第七話 解呪と嫉妬と
「──ド様……」
「ジェ……ド……!」
風に乗って涼やかな声が流れてくる。今ここにいるはずのない彼女の声が。
「ジェイド様ー!!」
「──コーラル?」
「受け止めてくださぁい!」
見上げた木々の隙間から覗くのは、オレンジ色が太陽の光を受けてキラキラと輝く竜の姿と。
ミントグリーンのシンプルなドレスを風にはためかせて、落ちてくる己の妻が──落ちて。……落ちて?
「わぁぁぁあああ!」
どん、という衝撃と、腕の中にすっぽりと収まる柔らかな感触。じぃんと痺れる腕が、これは夢ではないのだと実感させる。
うふふ、とはにかむコーラルは可愛くて、はぁっとため息を吐きながらぎゅっと抱きしめた。
「──君が案外お転婆だって事、今思い出したよ」
「ジェイド様なら、受け止めてくれると、思って……」
ちらっと上目遣いで見つめないで欲しい。可愛過ぎて何でも許してしまいそうになるからだ。
「こんな私では、だめ……でしょうか?」
「……最高だよ」
許す。可愛いから許す。
「でもドレスで空から落ちてくるのは今後一切禁止だ」
「乗馬服ならよろしいですか?」
「……俺以外に受け止められるのは駄目だから」
「分かっています!」
危ない事はして欲しくない。けれど、コーラルを閉じ込めてしまい込む様な事もしたくない。それならば、コーラルに及ぶ危険はジェイドが取り除くしかないのだ。それが、ジェイドの決めた愛し方なのだから。
「それでどうしてここへ? 危険だって分かっていただろう?」
「……くて……」
「ん?」
「お役に、立ちたくて。イグナツィオさんに状況を聞いたんです。それで、もしかしたら私の力が役に立つかなって思ったら、黙っていられなくて」
「コーラルの力?」
ゔゔゔ、という呻き声に、コーラルの視線が神獣へ向かう。
「まぁ……! あちらが、フェンリルさんでいらっしゃる……?」
「ああ。おそらく呪いで苦しんでいるのだが、俺にはどうする事もできず……」
こくり、と喉を鳴らしたコーラルが、神獣に向かって近付いて行く。手負いの獣は総じて危険なものだ。コーラルが行く先にある危険を排除するのは、ジェイドの役目。寄り添う様に後をついて行く。
苦しむ神獣の背を、コーラルの白い手がそっと撫でた。唸る神獣を見ながら、ジェイドは自らの剣の柄に手を掛ける。
(──コーラルの身に危険が及ぶなら、神でも何でも迷わずに斬る)
闇夜の様な瞳をすうっと細めてジェイドを流し見た神獣は、ひとつ瞬きをすると、甘えるようにその首をぐるるとコーラルの手に擦り寄せた。
「なるほど……ジェイド様、何か食べるものを持っていますか?」
「……食べ物? 携行食ならあるが」
「ひとついただけます?」
手渡したそれを、コーラルは神獣の口元に差し出した。
「お口に合うと良いのですけれど。一応、自信はあるのですよ? あ、これ私が開発した携行食で。きっとフェンリルさんも元気が出ますわ!」
あの神獣は呪われていたのではなかったか。腹が減ってあの様に倒れたというのか。コーラルの力とは一体何のことなのか。分からないことだらけで混乱もするが、しかし今この目に見えている現実は。
「あ、食べましたよ! ね、ジェイド様!」
ぱくりとショートブレッドを噛み下した神獣が、より一層毛並みを輝かせながら悠然と立ち上がる。ぶるっと大きく身体を震わせると、にこにこと喜ぶコーラルの手をぺろりとひと舐めし。ジェイドの方を流し見ると、フンッと鼻を鳴らした。実に、感じが悪い。
「──えっ、まあ……ええ。そう、ですけれど。やだぁ、ふふ。ええ、だと良いなと思いますわ」
「……」
「フェンリルさんは? そうなんですの。まあ、えぇっ? むぅぅ……」
「コーラル?」
「あらっ、それは……ええ、きっと──」
ぐいっとコーラルの手を引き、自らの腕の中に閉じ込める。どうやらコーラルは竜と同じ様に、このフェンリルとも意思疎通を図る事が出来るらしい。それは見ていて分かったし、行き詰まっていた現状としてもありがたいと思う。けれど、自分に分からない話を目の前で楽しそうにしている妻を見て、何とも思わないほど心の広い夫ではないのだ。
「コーラル。俺にもわかる様に、教えてくれるな?」
「──はい……」
コーラルから聞いたのは、このような話だ。
コーラルの家系には、魔力を持つ動物とコミュニケーションを取れる魔術を使える者が多く出ていること。コーラルの母であるイザベル様もこの力が強く、受け継いだペンは魔術の行使に影響する媒体であったこと。知らず知らずのうちに竜とコミュニケーションを取れていたコーラルは魔力が強く、訓練すればもっと多くの動物と意思疎通を図れる可能性があること。それがアルベルティの役に立つと思い、こっそりファスマンの家で魔術の訓練を受けていたこと……。
「驚いたな。コーラルにそんな力があったなんて」
「はい。結構筋がいいって褒められたんですよ? 少しでも、ジェイド様の力になれたらって……」
恥ずかしそうに笑うコーラルが一層可愛らしくて、思わずその白く柔らかな頬を撫でた。そのまま身体を引き寄せ、赤く色付いた唇に──
『ワフ!』
その唇に──
『ワフ!!』
唇に──
『ワフッ!!!』
「なんだ! 良いところなんだから邪魔しないでくれ!」
『フンッ』
「お前今、鼻で笑ったな? 魔術が使えなくても分かる。舐めてるだろう、お前、俺の携行食をやらなかったらみっともなく地面にへばっていた癖に!」
『ガウッ』
「五月蝿い、神がなんだ! 俺の女神はコーラルだけだ!」
「……ジェ、ジェイド様……」
「……あ」
腕の中でコーラルが真っ赤になっている。せっかくの触れ合いを邪魔されて、すっかり理性を失ってしまった。ただでさえここ数日、コーラル不足が祟って、ストレスが溜まっていたのだ。
「えっと……フェンリルさんはお腹が満たされて呪いも跳ね返せたそうなので……もう、森の獣達も理性を取り戻せたみたい、です」
「そ、そうか。ではこの森はもう大丈夫ということだな」
「はい。ただ……その呪いをかけた犯人? は、アルベルティの者に攻撃をしかけろと命じていたらしくて……戦争を、起こそうとしたのでは、と」
「……愚かな事だ」
「ええ。なので、フェンリルさんも、自ら片を付けに行きたいそうです」
「ああ、そちらにはイグナツィオが行っているから段取りは付いていると思うが。バライアの神獣であるフェンリルが始末を付けるという形を取った方が、民達の感情としても理解が得やすいかもしれないな」
「理不尽な支配は反感を買いやすいですものね」
頷き合って、アゲートとサンを呼ぶ。
「ところで、神獣……殿は、どうやって、移動を? 竜には乗れるのか?」
「確かに……フェンリルさま、私より大きいですものね」
ジェイド達は神獣というものをよく知らない。どんな能力が使えるのか、竜のように飛べるのか。2人でじっと見つめると、フェンリルはその目を細めて笑った……ように見えた。
その身体は、四つ足故に体高こそジェイドの腰ほどだが、体長や体重で言えば確実にコーラルよりも大きいだろう。サンはアゲートよりも大きな野生種の竜だから、単純に乗せることは可能性だろうけれど。
ふいにフェンリルがこちらへ近付いて来たかと思うと、鼻先をコーラルの脇に差し込んで首をひょいっと捻った。何が起きたか分からないうちに、コーラルの身体は半回転してフェンリルの背にすとんと乗せられている。ぽかんとした顔のコーラルは可愛いが、しかし──
「おい、お前っ、コーラルの脇に無断で触れるとは許し難い蛮行だ! そこを触れて良いのは俺だけなんだぞ、しかも鼻を突っ込むなど……っ、羨ましいが過ぎるっ!」
「えっ、ジェイド様、うら、うらやま……えぇっ!」
しまった、本音が漏れた。焦るジェイドとコーラルを尻目に、フェンリルはジェイドの首根っこに噛み付いて、そのまま大きく跳んだ。
「きゃぁぁぁ!」
突然のことに驚き、振り落とされないようにしがみつくコーラルが見える。どうにかしてやりたいが、自分は惨めに咥えられてぶら下がっている状態だ。痛くはない、牙を立てられているわけでもない。が、まさかこのまま移動するつもりか?!
流石に血の気が引いたその時、ジェイドは自分の身体が宙に放り出される浮遊感を覚えた。と同時に、馴染んだ鱗の感触が滑り込む。
「アゲート……助かった」
『きゅ』
相棒の背を軽く叩き、首元の不快な唾液を袖で雑に拭う。そしてコーラルを見れば、同じくサンが身体の下に飛び込んで、しっかりと受け止めていた。ぽかんとするコーラルの手には、いつの間にか子犬ほどにまで小さくなったフェンリルの姿がある。
「あいつは大きさを変えられるのか……」
あのくらいの大きさなら確かに共に行動しやすいだろう。そして今の突飛な行動も、森の中に着陸出来ない竜達に乗るためにした事だというのは分かる。分かるが。
「ジェイド様! フェンリルさまは竜に乗る手伝いをして下さったのですってー!」
意識を取り戻したコーラルが、嬉しそうに笑いながら手を振っている。
「……だったら先に言っておいて欲しかったな?」
心なしか自慢げな顔をしながら、コーラルの服の胸元に収納されているフェンリルは、絶対に性格が悪いと思う。あそこに触れて良いのも俺だけの特権だというのに。




