第六話 呪いと森の主と
「熊が出て来たぞ! 理性を失っている……森から出すな、射かけろ!」
「狼の群れだ、逃すな!」
次々と森から躍り出てくる獣達を、竜騎士が上空から攻撃して弑していく。
ここは元々肥沃な森だ。野生の獣も多いが、その分彼らの食べ物も充分賄える。獣には知能もあるし、本能で知っている。本来外に出てくるはずはないのだ。彼らとて、人間と出会って殺されたくはないのだから。
「あ、いたいた、団長ー。大体分かりましたよぉ」
馬に乗ったイグナツィオが地上で大きく手を振っている。錯乱した獣がどこからともなく飛び掛かってくるというのに、相変わらずのんびりとした雰囲気だ。もちろん自分に向かって来た獣に関しては、虫でも叩くかの様に斬り伏せているのだが。
指揮を部下に任せて、少し離れた場所にアゲートを降ろす。
「どうやら呪いらしいですよぉ」
「……呪い、だと?」
「ええ、団長もくらったアレ! 懐かしいですよねぇ」
「あの王弟だか、前王弟だかの男はあの場で始末したよな?」
「間違いなくこの手で殺しましたねぇ。ただ、全く忌々しいことにぃ、あいつの撒いた種が市井に残ってたらしいんですよぉ」
「……仮にも王族が愚劣な事を」
「ま、そんな阿呆だからあんな事をやらかしたんでしょうけどねぇ。見事にその形質を受け継いだ息子がいたようでして。これまた見事に呪いの魔術も遺伝したってわけですねぇ」
「……裏に何者かが付いているのか?」
「流石団長、お見通し! まあ見た目もそっくりらしいですしぃ。顔と力で見つかっちゃったんでしょうねぇ。旧貴族の奴らが都合よく煽てて使ってるというところでしょうかぁ」
「……間もなく王国の官僚が10年の任期を終える。バライアもかなり安定したから惜しくなったというところか。こちらの支援がなければあっという間に元通りだというのに……愚か者はどこまでいっても愚かだな」
ため息が溢れる。無辜の民の為にと苦心したこちらの努力が、あっという間に無に帰されたような気分だ。
「権力に付随した責任の重さというものを知らんのだろうな……」
「ああいう奴らは美味しいところしか食べませんからねぇ」
「面倒だが、放って置いても余計腐ったところが増える未来しか見えない。さっさと片付けるか──俺は早くコーラルとの旅行を楽しみたいんだ」
「はは! いつまでも仲の良いことで! んじゃこっちは無駄に肥えた美食家達をディナーに招待しておきまぁす」
「ああ、頼んだ」
こういう仕事はイグナツィオに頼んでおけばまず間違いが無い。きっと万事抜かり無く整えておいてくれるだろう。こちらはその呪いとやらをどうにかすればいいということだ。
森には森の生態系がある。本来バランスの取れていたはずのそれを、余りにも壊してしまうことは避けたかった。かといって呪いをかけられたフェンリルを殺してしまうと、神の使いを殺したとして民衆からの批判が集まる事も考えられる。呪いの詳細がよく分からない以上、また余計な力が反転されてくるのも避けたいところだ。更には本当にそれが神の使いであるならば、失うことによって良くない事態が起きる事も考えられるし──
「これはなかなか難儀な……」
眉間の皺を指で揉む。心なしか頭も痛い。せめて向こうから攻撃を仕掛けてくれたら、こちらも応戦するという言い訳が立つのだが。
獣は森を出てくるが、フェンリルは未だに姿を見せる様子がないのだ。動く気がないのか、動くことが出来ないのか──森の奥深くだと、竜に乗って上空からではその姿を捉える事も叶わない。
「……やるか」
ぱん、とひとつ己の腿を叩いて腰を上げる。アゲートには森の最奥まで連れて行って貰い、そこからは自らの足でひたすら歩いてみよう。やれる事がひとつもないわけではないのだから、そのたったひとつの方法でも地道にこなしていくのが最短の道なのだ。
「流石に疲れるな……」
ジェイドは未だ騎士団長として現役だ。鍛錬も欠かす事はないし、体力も20代の時と比べれば多少の衰えは感じるが、かといってそれを上回る経験や工夫を身に付けて来た自負もある。
しかし、見つからぬ対象物を探して当てもなく彷徨う森歩きというのは、これまでに経験した事のない疲労感を蓄積させた。
アゲートはジェイドの上空をゆったりと移動しながらホバリングを続けている。木々に隠れてその姿は見えないが、確かにそこにいるという感覚は感じられている。ジェイドが指示さえ出せば、躊躇う事なく森の木々も住まう動物も、根こそぎ薙ぎ倒してしまえるだろう。
「少し休むか……」
倒木に腰を下ろし、背嚢から携行食をひとつ取り出す。コーラルが考え出したショートブレッドだ。配合や味も年々改善されて、また包装にも工夫が込められている。飽きがこないような多種多様な味。傷みにくく長持ちさせる為の包装。そして失われた体力や気力が湧き上がる鰐瓜の効能。そこには、アルベルティの騎士や民達の心身の健康を祈る、コーラルの想いが込められている事をジェイドは知っている。
腹が膨らめば十分だというばかりに、野草と干し肉を塩で煮込んだ不味いスープを食べていた頃を思い出せば、今の幸せがより一層腹の底を温かくした。
『今回は自信作なんですよ! なんと、チーズを入れてみたんです。塩気もあるし、食事っぽくすれば甘いものが苦手な男性でも食べやすいでしょう?』
そう言って笑ったコーラルの笑顔を思い出し、胸元に下げた指輪を服の上からそっと握った。
「コーラルは今頃ファスマン家に行っているかな……ディーターという男はコーラルに見惚れていたから……近付き過ぎないように牽制しておかねば。あぁ、早く帰りたい。コーラルに会って……抱きしめたい。匂いを嗅ぎたい。食べたい……」
『……グルルゥ』
「そうか、お前も腹が減ってるか……」
『グルゥ』
「…………」
じわりと背中に滲んだ汗を感じながら、ゆっくりと首を背後に回す。誰よりも他者の気配には敏感だという自負があったのに、この瞬間まで気づく事ができなかった。敵が敵ならジェイドは既に死んでいたかもしれない。
そして振り返ったジェイドは、はっと息を呑んだ。
3mほど先、少し開けた場所に佇む大きな一頭の獣。白銀の毛並みはサラサラと風に靡いて美しく輝き、その瞳は夜の闇を溶かしたような艶やかな黒だ。明らかに理性を持ったそれはジェイドを検分しているかのようで、心の裏側まで見透かされているような気さえする。
見つめ合っていたのは数秒か、数分か。
静かに立ち上がってかの獣に身体を向けたジェイドは、膝を突いて恭しく首を垂れた。
「この森の主とお見受けする。私は御身とこの森を無闇に傷付けたくはない……どうかご助力頂けないだろうか」
こちらをじっと見つめた神獣は、崩れる様にゆっくりと地に伏した。
「……神獣殿?」
よく見れば、その胸元は激しく上下し、何かが詰まっているかのようにごぼ、ごぼと居心地の悪い音を立てている。
「──呪い、か?」
ゔゔゔ、と低い唸り声が響く。ジェイドに呪いを解く力などない。けれど、神獣をここでこのまま死なせてしまうのが良くない事だというのは分かる。
アゲートに頼んで医師の所まで運ぶか? 俺が行って連れて来た方がいいだろうか? この国には解呪師はいるのか? イグナツィオは犯人を捕まえただろうか?
ゔゔゔ、ゔゔ。その白銀の毛が震え、はっ、はっと荒く息が乱れる。どうする、あまり時間がないかもしれない。やはり、アゲートに頼んで──




