第十六話 異変と見送りと
「コーラル、少しいいだろうか」
「はい、ジェイド様」
最近、ジェイドはよくコーラルの執務室に顔を出す。騎士団の方も忙しいだろうに、領地経営に関する仕事も手を抜かないところは真面目で、やっぱり尊敬できる領主様だなと思う。
コーラルが知っている領主といえば、あの父しかいないから余計にだ。
「竜のことで話を聞きたくてな」
「竜、ですか?」
今日は領地のことではなかったようだ。竜と言えばジェイドの方がよほど詳しいはずなのに。
「今朝は竜達がやたらとそわそわしていて、言うことを聞いてくれないんだ。勝手に竜舎を飛び出そうとしたりな。コーラルならもしかして、あいつらが何を言いたいのか分かるのではないかと思ったんだ」
「まあ……そうなのですか。私に出来るかしら……」
「いや、ダメで元々だ。気負わなくていいから、少し竜舎に顔を出してみてくれないか?」
コーラルが緊張しすぎてしまわないように、そう言ってくれるのが分かる。見た目は無表情で、身体も大きくて威圧感があるのに、本当はこんなにも優しい人だ。
「分かりました。最近行っていなかったので、みんなにも会いたいですし」
「ありがとう。では、行こう。……手を」
差し出された手に、頬が緩む。誰に強制されるでもなく、そんな義務もない邸の中でもエスコートしてくれるのか、と。
そっと手を取り、竜舎へと歩みを進めた。足の長さがこんなにも違うのに、さりげなく歩調を合わせてくれているのだろう。竜達に何かあったのなら心配だというのに──こんな時間がもう少し長く続いてくれたら、と思ってしまう自分がいる。どんどん欲張りになっていくようで怖い。怖いけれど……嫌だとは、思えない。
竜舎に着くと、確かに聞いていた通りなんとなく空気がざわめいている。若い竜騎士のマルセロが、必死でフォンテの手綱を引いていた。
「待てって、フォンテ! だめ、だめだって」
『きゅぅぅ!』
今にも飛び出そうとするフォンテ。確かにこの様子はコーラルから見ても何かがおかしい。
「フォンテは今は話を聞かせてもらうどころじゃなさそうですね……」
「アゲートの方が落ち着いているかもしれない。こっちだ」
フォンテはまだ若い竜だ。それに比べてジェイドの契約竜のアゲートは年齢を重ね、強く、落ち着きを持っている。竜舎の最奥で、まるでコーラル達が来るのを待っていたというような様子で静かに佇んでいる。
『きゅ……』
「アゲート、こんにちは。今何が起きているのか、聞かせてもらえないかしら」
アゲートの元にゆっくりと歩み寄り、そっと手を首元に触れさせる。
アゲートも嫌がることなく、その首をコーラルにすり寄せて目を閉じた。
苔色の巨体と、赤珊瑚色の艶やかな髪を波打たせた美しい妻が寄り添っている。その様子を側で見つめるジェイドには、コーラルが神話の中の女神か妖精のように見えていた。この緊急事態に、ただ己の妻に見惚れていたことなど、他の誰も知りようがなかったのだが。
「──っ!」
「何か分かったのか?」
コーラルは身体をぶるりと震わせて、その手をぎゅっと握りしめた。早く伝えなければ、一刻も無駄にしてはいけないと思うのに、焦れば焦るほど息の仕方を思い出せなくて。言葉の紡ぎ方を忘れてしまったようで。
はくはくと息を吸うコーラルに、ジェイドがさっと近付いて来て、ふわりと身体を抱き寄せた。
「──大丈夫だから。落ち着いて、大丈夫。ゆっくり息を吐いて」
背中をとんとんと撫でられると、その暖かさに少しだけ力が抜けた。
「国境線の森に……隣国の兵が大挙していると」
「まさか……既に領内に入り込んでいる?」
「……そのようです。たしか……国境の検問では、許可証の無い者は通れないはずですよね?」
「ああ。許可証は厳重な身分証明の元に発行されるものだ。それが、何故……国内に間諜がいるのか、それとも裏切った者がいるか……」
「竜達は大量の火薬の匂いに興奮しています。あれは敵だと。サッジョを殺した奴らだと」
「──分かった。コーラル、ありがとう。君がいなければ事態は取り返しのつかないほど悪くなっていたかもしれない。今ならまだ間に合う……間に合わせてみせる」
ジェイドは少しだけ身体を離して、コーラルの肩に手を置いた。真正面から見つめ合う形になり、その翡翠の瞳の奥が熱く揺らめいているようにも見える。
「君にはここで待っていて欲しい。君が待っていてくれるなら、俺はきっと帰って来られるから。そうしたら……伝えたい事があるんだ」
「ジェイド様……お待ちして、おります。どうか……ご武運を」
辺境に嫁いで来た時点で、騎士の妻になった時点で、覚悟していたつもりであった。
彼らは常に領地を、国を、その命を危険に晒して護ってくれているのだから。その妻であるコーラルは、後に憂いのないように万事整えて待つのが仕事なのだ。
それが──こんなに、苦しいだなんて。
行ってほしくない、と、言いたかった。行かないでと。一緒にいてと縋り付きたかった。もっと抱きしめていて欲しい、と。
でもそれは決して口にしてはいけない言葉なのだ。だから、コーラルは笑う。全身全霊をかけて、彼の心残りになれるように。ジェイドが思い出す記憶の中のコーラルが、少しでも美しくあれるように。
「これを君に」
差し出されたのは、繊細なチェーンのネックレスだ。ペンダントトップは、艶やかで鮮やかな赤珊瑚。
「綺麗……」
「共に街に行った時に買ったんだ。どうしても目が離せなくて……コーラルの色だから。ずっと思っていた。君の髪は、赤珊瑚のように美しいと」
「……うれしいです」
血のようだと、錆のようだと、ずっと蔑まれて来た。青髪の家族の中で、異分子だと示す色。どうしても好きになれなかったそれを、美しいと言ってくれる人がいる。
「異国では、赤珊瑚は呪い避けのお守りとして使われているらしい。俺は……アルベルティに生まれた以上、君を近くで守り続けることは出来ない。だから、その代わりにこれが君を守ってくれるようにと……はは、こんな物語の中のような話を信じるタイプではなかったんだが。まあ、気休めだと思って、良かったら受け取って欲しい」
「……つけて、いただけますか?」
髪の毛をまとめ上げて背中を向けると、ジェイドの硬い指先が首筋に触れた。
胸元で、赤いペンダントトップが揺れる。心に空いていた穴が埋まったような気がした。
後ろからそっと、包み込まれるように抱きしめられて、耳元にさらりとジェイドの髪の毛が触れる。目頭が熱く、視界がぼやけて──
「行ってくる」
ぽたりと涙が落ちた。
振り返るともう、そこにジェイドはいなかった。
でっかいフラグ




