第十五話 望みと落ちた墨と
『コーラル、金を用意しておけ』
『……お父様。何にお使いでしょうか』
『俺は領主だ、何に使おうが自由だろう』
『今我が家で自由になるお金はさほど多くないのです。それも、領民たちが必死で働いた税です。貴族の義務として──』
『ああ、うるさいうるさい! お前のそういうところはアイツにそっくりだ! 偉そうに、何でも知ったような口を利いて……! 馬鹿にしているんだろう! 女の癖に小賢しいんだよ、黙って頷いていればいいんだ!』
振り抜かれた父の手が頬に当たり、脳が揺れる。咄嗟に執務机の端を握り、崩れ落ちぬように身体を支えた。
簡単に結い上げていた髪飾りが飛び、コーラルの赤錆色の髪の毛がばらりと解けた。
『その髪色も……何もかもアイツにそっくりだ。忌々しい……まあ、俺たち家族のような青髪に似ていたとして、それはそれで目障りだ。錆は錆らしく、目立たぬように日陰で息を殺しておけ!』
コーラルの父ジュストと継母、そしてその息子は3人とも似たような系統の青い色味の髪であった。市井の飲み屋で働く継母が、「お客様は私の髪色と似ていらっしゃるわね」と声をかけたのがきっかけで知り合いになったのだとか。2人の遺伝子を継いだ義弟もまた同じような髪色で生まれたのは当然と言えばそうなのだろう。
父と継母が寄り添って座り、その膝の上では幼い義弟が微睡みながら、両親とよく似た青くふわふわとした髪を梳くように撫でられている。幸せな家族そのものといった光景だった。そしてその家族の中に、コーラルは含まれていなかった。
(──久しぶりにこの夢を見たわね)
書類を片付けていたはずが、少しの間うたた寝をしてしまっていたようだ。窓から差し込む光は暖かく、頬の痛みは幻となって霧散した。これは、アルベルティに嫁いでからしばらくの間はよく見ていた夢だ。
コーラルの赤髪は母とそっくりの色であった。といっても母はサラサラの直毛で、コーラルのふわふわの癖っ毛は父に似たものであったのだろうが。
赤錆のようだと言われ続けたこの髪色が、コーラルはずっと好きになれなかった。かといって、仲間外れの象徴である青髪も、コーラルの心をちくりと刺す、何とも言えない色だと言えた。
(私が赤錆ならば、あちらは青錆ではないの)
ずっと苦しかった。そして悲しかった。けれど、久々に夢を見て思ったのは、ふつりと湧いた怒りであった。
栄養も行き渡らず手入れもなされず放置されていた髪はパサつき、見窄らしかったであろう。けれど今は違う。毎日しっかりと栄養のある食事を摂り、湯に浸かり、香油を塗り、梳って。そうして手をかけた髪は見違えるほどに艶めいて、ふわりと良い香りを纏っている。
ジェイドは房事の際、口付けもしなければ甘い言葉も吐かない。けれど時折コーラルの髪の毛に優しく触れて、指を通すようにそっと触れる。その瞬間が何とも言えず好きだった。ただ単に妻の勤めと分かってはいても、心臓が大きく音を立てるのを止められないのだ。まるで大事なものを慈しむかのように触れられているようで。自分がその瞬間だけは、宝物になったように思えて。
だから今では、この髪色も少しは好きになれている気がするのだ。赤珊瑚の色だと言ってくれた、この色が。
そしてこの赤髪よりもっと好きになったのが、ジェイドの瞳の翡翠の色だ。
ともすれば冷たくも見える、感情の浮かびにくい瞳である。こめかみから頬にかけては大きな傷跡が走り、それを隠すかのように長めの前髪が顔にかかっている。表情も分かりにくいし、大体は難しい顔をしている。
けれど、アルベルティに嫁ぎ、ジェイドと暮らすようになって、だんだんと分かるようになってきたのだ。
彼は若くしてこの難しい辺境領を継いだこともあり、厳しいところもある。騎士団長として、そしてその中でも精鋭部隊とされる竜騎士として、血気あふれる者たちを率いていかなければならないのだ。甘えた者には容赦をしないし、決して手を抜かない。けれどそれは、尊い命を失わない為に必要な事だからだ。その厳しさが愛でなくてなんだというのだろう?
竜を甲斐甲斐しく世話してやる姿は温かく、その背に乗る姿は見惚れるほど凛々しくて。
めったに会うことのないコーラルとジェイドだけれど、コーラルに不都合のないように手配してくれていることだって分かっている。使用人達もよくしてくれるし、この居心地の良い部屋だってジェイド自らが整えてくれたというのだ。
月に1度の勤めだってそう。他の人達がどうなのかなんて知りようもないが、ジェイドは初めの時から慎重で、丁寧で、決して理性を失うことはなかった。できる限り痛みのないように取り計らってくれたし、それはあれから何度も体を重ねた今でも変わることがない。朝になって目を覚ませば、相変わらず広い寝台にコーラルひとりが眠るだけではあるけれど、そこには温かなスープやみずみずしいフルーツが用意されている。なんと、こまめに取り替えられる季節の花もジェイドが用意しているようなのだ。
悪い人ではない。むしろ──
『……君は、何が好きなんだ?』
最近、ジェイドがこちらを見る眼差しが変わってきたように思う。
これまではほぼ月に1度しか会わなかったのに、先日は視察にも同行した。もちろんそれも仕事のうちなのだろうけれど。
繋がれた手が硬く、熱かったこと。腰に回された腕が、ぐいと引き寄せられたこと。不器用にコーラルの服装を褒める様子も。
『……コーラルは俺のだ』
呟くように溢れた言葉も。
コーラルは、ジェイドの事を何も知らない。
そして──だからこそ──知りたい、と思う。これからの短くない日々を、夫婦として共に過ごす、唯一の相手なのだから。
「……望んでも、いいのかしら」
愛されるとは思わないけれど。
知りたい、と願うことくらいなら、許されるのではないだろうか。
◇
「……何だこれは、わけがわからん。何故私がこんな雑事をせねばならんのだ……おい! ダヴィデはどこだ! 誰かダヴィデを呼んでこい!」
「あなた、あの家令は歳を理由に先日退職したではありませんか」
「ああ……そうか、そうだったな。くそ……こんな面倒な書類はコーラルがいればやらせておけたのに……」
コーラルの父、ジュストはバレストラ伯爵家の三男であった。家を継ぐ者でもないため良く言えば甘やかされて育った。元来の性格もあったのだろう。教育の甲斐あって、それはもう怠惰で傲慢な男に育ち上がった。しかし矯正するにも手間や金や時間がかかる。兄が家を継ぐ頃に、適当な私兵団にでも放り込んで揉んでやれば良いだろうと思われていたのだ。
しかしその計画は脆くも崩れ去った。まずは次男が、遊学で訪れた異国の高貴な令嬢にみそめられた。逞しい体躯に、見目もいい男だったのだ。一応跡継ぎのスペアとしての教育もなされていたが、予備で置いておくよりも婿に出したほうが余程金になる話である。そういうわけで次男は遠い異国へ旅立って行った。手紙も簡単に届かない距離である。その日から彼が帰国したことはない。
それから間もなくして、長男が落馬によって怪我を負った。しばらく寝込んでいたが、動けないだけで意識は普通にあったし、暇だと言って寝台で書類を捌いていたほどである。それがある日急に容体が悪化し、あっという間に死んでしまったのだ。傷口から悪いものが血の中に混ざってしまったらしい。瞬く間の出来事であった。
残ったのは、搾りかすの三男のみ。ろくに教育も受けておらず、領主としての勤めを果たせるとは思えない男だ。ジュストの親は金を積み、聡明な令嬢を嫁に取った。ジュストは知らなかったが、相当無茶な要求を通したらしい。権力に物を言わせたのだ。
初めから、愛し合い支え合うことなど出来るわけがない関係だった。拗れすぎていたのだ。
「ねえ、あなた。私のお店時代の知り合いにね、とても優秀な人がいるのよ。その方を新しい家令として雇ってはどうかしら?」
「そうなのか? そいつはこの書類仕事なんかを任せられるのか?」
「ええ、もちろん。計算も早いし、店に来る商人なんかとも、こちらの有利になるように交渉していたわ。ふふ、出来るオトコって素敵よねぇ」
「……そうか。まあ、お前の紹介なら、いいのかもしれんが」
「そうでしょう! あの老人よりきっと役に立ちますわ。では、明日からこちらに呼びますね! そうとなれば部屋を整えて……あっ、お仕着せもいるわね。彼なら細身の……ふふっ、楽しみ。それでは準備は私にお任せあれ!」
「……ああ……まあ……書類を処理してくれるなら、良いだろう」
その時ジュストの胸の中には、言いようもない不安のようなものがじわりと広がっていた。澄んだ水にぽちゃりと落とされた、墨のように。泥のように。
「旦那様、こちらの書類に署名をお願いいたします」
「……こんなにか?」
「内容は私の方で精査しまして、不要なものは処分を。旦那様の許可のいらないものに関しては処理を済ませておきましたので。こちらはその残りの分でございますよ。それも、残すは署名を入れるのみですから、2時間もあれば片付けられるかと」
「そうか。ではただ名前を書いておけば良いのだな? それくらいなら良いだろう。今日の残りの時間は?」
「書類が片付けば自由にしていただいて構いませんよ。もちろん、花を愛でていただいても」
バレストラ夫人が用意した新しい家令は30代半ばほどのすらりとした男で、常に隙のない微笑みを顔に浮かべている。ジュストは当初、こんな若さで家令など務まるのかと訝しんでいたが、やらせてみれば驚くほどの有能さだったのだ。もとより領地経営のことなど何も学ばずに当主となり、仕事はほとんどダヴィデに任せきりだった。そしてコーラルが育ってからはコーラルがその一端を担い、ますますジュストの仕事はなくなっていった。それを「しめたものだ」「楽ができる」としか思わないのが、このジュストという男なのである。
誰にでもわかるよう簡潔に説明をして、ジュストがなすべきは署名をするだけというところまで整えてくれる若い家令は人当たりもよく、バレストラ家の使用人達もすっかり懐いて信頼関係を築いている。手が足りない時などは嫡男の面倒までも見ているようだ。
じわり、じわりと黒が広がる。波紋のように、だんだんと。
「旦那様、こちらにも署名を」
「ああ……ほら。これでいいか」
「ええ、確かに。それでは急ぎの書類を届けに、私は少々外出させていただきますが、宜しいでしょうか?」
「ふぅん、好きにしてくれ。私も少し……出かけてくる」
「ええ、楽しんでいらしてください。では少しばかりですが、こちらを」
「ほう、分かっているじゃないか。コーラルは一銭も出そうとしなかったからな。お前もついでに楽しんで来たらいい。ではな」
握った金貨をじゃりじゃりと弄り回しながら、機嫌良さそうに家を後にするジュスト。
その後ろ姿を見つめる細身の男は、いつもの貼り付けたような微笑みではなく、心から楽しそうに口端を上げていた。
この家令がバレストラ家に戻ってくることは、もうない。




