最終話 時には昔の話を
「ふう……」
書斎にいた俺は、四週先に掲載される予定の漫画の原作を書き終え、一息ついた。
窓の外を見ると、真昼のまぶしい陽光を受けて、都会のビル群がきらめいている。
ちなみに、いま俺の目の前にあるPCは、使い古したノートPCではなく、真新しいデスクトップだ。ディスプレイは目に優しく、キーボードはキータッチが軽くて疲れにくい、優れもの。
どちらも、以前だったら手が届かなかったような、高級品だ。
……あれから、色々なことが変わった。
けど……変わらないこともある。
俺は、執筆中は外している指輪をはめ直しながら、コーヒーを入れて一服しようと、席を立った。
……もちろんコーヒーは、愛する妻の分まで、忘れずに入れるつもりだ。
「姫乃」
俺は、リビングの仕事場でペン入れ作業をしている姫乃の前に、コーヒーを置いた。今日はアシスタントが来ない日で、仕事場にはいくつもの空いた机が並び、がらんとしている。
「ちょっと、休憩したらどうだ?」
姫乃は手を止めず、視線も画面から逸らさずに、俺に答える。
「んん~40秒待って~」
「無理すんなよ」
「話かけないで~」
「……」
いまの姫乃は、飾り気のない部屋着姿で、化粧もしていない。
週刊連載を一年も続けたせいで、普段からお洒落をするような余裕は、なくなってしまったらしい。
いま、俺の目の前にいる姫乃は……年相応の、つまり三十歳の、いや、もう三十一歳の、オバサンにしか見えない。
……けど、言うまでもなく、そんな姫乃のことを、俺は変わらず愛している。
ペンを自在に走らせ、画面の中に世界を創っていく彼女の姿を、最高にカッコイイと思う。
俺は、普段アシスタントが使っている椅子に腰掛けながら、姫乃が作業を切り上げるのを待った。
……あの日、俺たちが描き上げた漫画は、大手出版社の漫画週刊誌で連載が決まって、もうすぐ連載一周年になる。
単行本の売れ行きも好調で、メディアミックスの話も進んでいる……まあ一言で言うなら、何もかもが順調だ。
「うーん!」
姫乃は、切りの良いところでペンを置いて、思いきり伸びをした。
そして、俺が入れたコーヒーを手に取りながら、こう言った。
「ふふ……あれから、何もかもが変わってしまったのに……ダイちゃんがコーヒーを入れてくれるのは変わらない……いまは何よりも、そのことが嬉しいよ、私は」
ちなみに、姫乃はお洒落はやめても、ダイちゃん呼びはやめていない。
そんな姫乃に向かって、俺は肩をすくめる。
「大げさだな、姫乃は」
「そんなことないよ……売れっ子になったダイちゃんが、いまも私のためにコーヒーを入れてくれる……これってきっと、奇跡だよ。まったく、相変わらず無自覚なんだからなあ、もう……ねえ、ダイちゃん?」
「ん?」
「ダイちゃんはいま、どんな感じ? 漫画家として、これだけ成功して」
「……お前ってほんと、唐突に質問してくるよな。そういうとこ、まさに相変わらずだ」
「ちょっと、答えてよー」
「……そういうお前は、どうなんだよ?」
「私? 私は……思ったより普通、かな」
「普通?」
「うん……漫画家っていう、特別な仕事をしてる私でも……こうしてダイちゃんとお茶を飲んでいる時には、ちゃんと普通の幸せを感じる……だから漫画家にも、普通の幸せはあるのかもなって、最近は思い始めてる……あ、またあのマカロン買ってきてよ」
「ああ、いいよ。買ってくる」
「……それで? ダイちゃんはいま、どんな気持ち?」
「俺か。俺は、そうだな……」
俺は、コーヒーを一口すすりながら考えて、こう言った。
「『ほっとしてる』っていうか……『なんとか生き残った』って感じかな……」
「な……何それ?」
「あんまり『やったー!』って、大喜びするような感じじゃない、ってことだよ」
俺はバンザイのジェスチャーを交えながら、こう続けた。
「いまは……『なんとか、死なずに生き残れた』って……そういう、安堵の気持ちしかない」
「それはまた、ずいぶんと、その……寂しすぎない?」
「……」
「ダイちゃん? ……どうしたの? 急に落ち込んじゃって。元気出しなよ」
「……」
俺は、長い沈黙を挟んだ後で、こう切り出した。
「映画の『紅の豚』って、知ってるだろ?」
「もちろん。大学のサークルで上映会して、並んで見たじゃん」
「そうだったな、そういえばそうだった……あの映画でさ。どうしても目に焼き付いて、忘れられないシーンがあるんだ」
「忘れられないシーン?」
「戦闘機が燃えながら、次々と落ちていくシーンだ」
「……」
「ほんの、一瞬のカットだったはずなんだが……どうしても忘れられない……」
「だって……だってあれは……あの光景は……落ちていった仲間たちと、どうしても重なるんだ」
「一緒に作家を目指してた、大学時代の同級生」
「同じ回の新人賞でデビューした、同期の仲間たち」
「作家同士の飲み会で知り合った、若手の作家たち」
「今はもう……ほとんど残っていない」
「みんな……落ちていってしまったんだ……あの映画の、あのシーンのように」
「そりゃ、中には、明らかにつまらない本ばっかり書くやつだっていたよ」
「作品はまあまあだけど、人としてダメなやつだっていた」
「でも……でもだからって、そんな……」
「そんな……」
「……落ちていったやつらが、みんな不幸になったとは、思わないよ……あの後で幸せになったやつだって、たくさんいるだろう」
「でも……でもあいつらはみんな……『夢破れた後の人生』を、これから先も、ずっと生きていかなきゃならないんだ……」
「それはもう、一生かけても覆せないことなんだ……」
「それは……俺が何よりも、恐れていたことで……」
「それと同時に……俺が『もしかしたら、歩んでいたかもしれない人生』なんだ……」
「だから……だから、今の俺には……『自分だけは、あの中で生き残れた』っていう、安堵の気持ちしかないよ……」
「敵も味方もハエのように落ちていく中で……俺だけが……俺だけが生き残ったんだ」
俺の目の前に、次々と浮かんでは消えていくのは……「落ちていった仲間たち」の横顔。
みんな今頃、どうしているのだろう……?
……その時、姫乃の明るい声が聞こえた。
「つまりダイちゃんは、自分はポルコ・ロッソだ、って言いたいわけ?」
「はあ? お前何言ってんだ、いまそんな話――」
振り返った俺に、姫乃はキスをしてきた。
コーヒーの……ほろ苦い味がした。
「大丈夫……」
顔を離した姫乃が、俺を見つめながら、こう言った。
「ダイちゃんはもう……人間だよ」
―終―
姫乃のラストの行動は、ジブリ映画「紅の豚」を見ると意味がわかるようになります。
※なお、「紅の豚」は株式会社スタジオジブリの登録商標です。
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