第18話 ビューティフル・ドリーマー -Ⅱ-
なんだか、少しばかり未来の光景が見えていたような気がするが……きっと気のせいだろう。
俺と姫乃は、漫画を描き上げてから数日後……分析の結果、最もリツイート数が多く期待できると予想された日時に、PCの前にいた。
……そろそろ、時間だ。
「じゃあ、投稿するぞ、姫乃……」
「待って!」
マウスに伸ばそうとした俺の手を、姫乃が掴んだ。
「どうした」
「……この間は、はぐらかされちゃったけど、今日はちゃんと聞いてもらうから」
「……」
確かに、この前の俺の「もう遅いよ」という返事は、はぐらかしと受け取られても、仕方なかったかもしれない。
赤の他人なら、あれで良かっただろうが……姫乃は、特別だから。
「わかった……」
俺は腹を括った。
「何でも言ってくれ。今度は、ちゃんと答える」
姫乃はうなずいて、こう切り出した。
「ダイちゃん……普通の人生に、戻る気はないの?」
「……」
「この間も言った通り、ダイちゃんなら、きっと会社員でも成功できる」
「……まさか。俺、三十歳だぜ?」
「親戚のおじさんが言ってたよ。最近は若い人が減ってるから、三十でもその気になれば、十分チャンスがあるって。ましてや、ダイちゃんほどの人なら……『もう遅い』なんて、そんなことないよ!」
「それにしたって……」
「なんなら、そのおじさんがやってる会社で、雇ってもらえばいいよ! 私が口聞いてあげる!」
「そんな……なんでそのおじさんが、俺なんかを……」
「私と結婚すれば良いよ! あのおじさん、小さい頃から私には甘いから!」
「……そんなヒモみたいなことはできない」
「ダイちゃん! ちゃんと答えるって言ったでしょ!」
「姫乃……」
俺は、姫乃の取り乱しぶりに驚いた。
「いきなり、どうしたんだ……怖くなったのか?」
「そうだよ! 当たり前じゃん!」
「……どういうことだよ?」
姫乃は言った。目に涙を滲ませながら。
「だって……この漫画は、きっとヒットする。私にはわかる……でも、もしそうなったら、もう後戻りできないんだよ?」
「……売れない作家や、芽の出ない作家志望者だったら……普通の人生に戻るのは、難しいかもしれないけど、でも決して不可能じゃない」
「けど……一度でもヒット作に恵まれてしまったら、もう後戻りできない。そこから先は、ずっと前に進み続けるか、力尽きて倒れるだけ」
「わかる? それから先の人生をずっと、読者アンケートとか発行部数とか、そういう顔のない数字に決められることになっちゃうんだよ?」
「あの、残酷で身勝手な読者たちのわがままに、一生振り回され続けることになるんだよ!?」
「ある日突然『もう飽きた』って言われて、ポイって捨てられちゃうかも知れないんだよ!?」
「そしたらきっと、今みたいにこうしてくすぶってるよりも、ずっと惨めな人生だよ!?」
俺は、落ち着いた低い声でこう指摘した。
「……確かにな。でもそんなこと、覚悟はとっくにできてたはずじゃないのか?」
姫乃は……震える自分の肩を、両手で抱きしめていた。
「覚悟できてたのは、私には他に取り柄がないって思ってたからだよ……私はダイちゃんと違って、絵を描くことと、サブカルに詳しいことぐらいしか取り柄がない。だから漫画家になれなきゃ、人生ずっと灰色だって思って頑張って来た……でも……でもそんな私の前に、急に別の人生がチラついて来て……」
「……」
「サラリーマンになったダイちゃんと結婚して……私もイラストか何かの仕事をして……子供ができて……そんな生活だって、そりゃちょっとは退屈かもしれないけど、でもきっと幸せでしょう?」
「……」
「ダイちゃん……答えを聞かせて。作家の人生と、普通の人生。あなたには選ぶことができるのに、どうして作家を選ぶの?」
「……」
……こいつはまた。
クライマックスに相応しい、究極の問いが来たもんだ。
俺は考えた。
……そうしたら、頭が真っ白になってしまった。
だって……いくら考えても、不誠実としか思えない答えばかりが、頭に浮かんできたから。
自分が天才だって、確信しているから。
明日をも知れない、不安定な生活のスリルを、楽しみたいから。
小説を書いている時や、完成させた時、ものすごい興奮を感じるから。
……きっと、その全てが正しい。
全て俺の本音だ。
大体、どんな理由を並べ立てたところで、「作家である必要はあるのか?」とか「他の誰かじゃなくて、お前がなる必要があるのか?」とか聞かれたら、俺は答えに窮してしまう。
そもそも……俺は、二十代の全てを捧げても、選ばれなかったわけだし。
だから、俺はこの質問には……答えられない。
答えられない……けど。
俺には……この質問に直接答える代わりに、言いたいことがある。
「姫乃……」
俺は言った。
「……やめちまえ」
「……え?」
呆然とする姫乃に対して、俺は心を鬼にして続けた。
「こっから先は、迷ってるやつのことをいちいち励ましてる余裕があるような、甘い世界じゃない」
「だから……迷いがあるなら、降りてくれ」
「……俺は一人でも、漫画原作者になる」
「そんな……そんなああああああっ!」
俺からの切り捨てるような言葉を前にして、姫乃の綺麗な顔が、絶望に歪み、涙に濡れていく。
「姫乃!」
だが俺は、姫乃の肩を掴んで、しっかりと立たせた。
「いま言ったのは、俺の本心だ……でも……それとは別に、聞いて欲しいことがある」
「……?」
黙って俺を見つめている姫乃に対して、俺は語り始めた。
「ラノベ作家も、小説家も、漫画家も……イラストレーターもアニメーターもゲームクリエイターも、映画監督も作曲家も画家も、そのほか、なんだっていい」
「そういう風に、何か、作品を作る仕事っていうのはな……」
「素晴らしい仕事だ」
「どこに出しても恥ずかしくない」
「誰に対しても恥ずかしくない」
「素晴らしい仕事なんだ」
「サラリーマンと比べても、きっと、同じぐらいに素晴らしい仕事だ」
「……俺たちの仕事のことを、夢を見せる仕事だって、言うやつもいる」
「その中には、人が現実から目を背けるのを、手助けする仕事だ、って言うやつもいる」
「確かにな」
「フィクションを見過ぎのやつは、もっと現実と戦った方がいいって、俺も思うことはあるよ」
「……でもな」
「それだけじゃ、ないだろ?」
「それだけじゃないって、俺たちはわかってるはずだろ?」
「だって俺たちは……」
「……救われたから」
「かつて、一度は……誰かの手で、魂を救われたことが、あったはずだから」
「美しい世界に」
「カッコイイキャラクターに」
「感動的な物語に」
「俺たちは、」
「魂を救われたことが、あったはずだから」
「いや……そればかりじゃなくたっていい!」
「ひどい世界や、性格の歪んだキャラクターや、ナンセンスな物語だって……」
「俺たちに……何かを与えてくれたはずなんだ」
「お前なら……わかるだろ!」
「『現実逃避』だけじゃない」
「これは、『魂の救済』でもあるはずなんだ」
「決して、恥ずかしい仕事なんかじゃないんだ!」
「……誰にでも出来る仕事じゃない」
「才能がなきゃできない」
「でも……」
「俺はお前の才能を信じてるし、お前もきっと、俺の才能を信じてくれているはずだ……」
「……最後に一つ」
「十年だ」
「十年間ずっと、俺はこの道でやってきた」
「最初は、自分の魂を救いたくて」
「でもその次は、誰かの魂を救いたくて」
「かつて、自分が救ってもらったように……誰かを救えたら、と思って」
「そんな俺にとって……もうこれは、夢なんかじゃないんだ」
「現実だ」
「他の誰も、認めてくれないかもしれないけど……」
「これは俺にとって、夢なんかじゃない」
「これが……これこそが、俺の現実なんだ」
「俺はずっと、夢を見てきたわけじゃない」
「俺はずっと……現実と戦ってきたんだ」
「……さあ」
「これで俺は、言いたいことは全部言った」
「……ちょっと待ってろ」
そう言って、俺はマウスを操作する。
姫乃はそんな俺を、じっと見つめていた。
彼女の涙はもう、止まっていた。
……俺はPCを、あとワンクリックで投稿、というところまでセットすると、マウスから手を離した。
「……最後は、お前が選んでくれ」
「さっきはああ言ったけど……取り消すよ」
「俺は、お前が決めたことに従う」
「お前がボタンを押せば、俺たちは『向こう側』に行く」
「押さなければ……いいよ。二人で、普通の人生に戻ろう」
「さあ……」
「選んでくれ」
「……」
姫乃は、俺から視線を外し、パソコンへと向き直ると、
恐る恐る、
まるで、生まれたての子鹿を連想させるような、おぼつかない手つきで……
ボタンを、押した。
俺たちの作った最初の漫画は、こうして、ネットの海へと放たれた。
その結果は、もうすぐ出るだろう。
……でもその前に、俺にはやることがあった。
「……届くと思ってたよ」
「……え?」
「ありがとう、姫乃……選んでくれって言っといて、おかしいけど……そっちを選んでくれるって、信じてた」
「ダイちゃん……」
そしてついに、俺は言った。
「愛してる、姫乃。結婚しよう」
言ってから、俺は姫乃の前にひざまずき、隠し持っていた安物の指輪を、彼女に差し出した。
……その後、俺たちの描いた漫画は、ものすごい勢いで拡散されていった。
一週間のうちに「ぜひウチで描いて欲しい」っていう依頼が、大手だけで三社も来た。
……『向こう側』への扉が、ついに開いたのだ。




