改善、改良
力の制御というのは自分にとってもひとつの大きな課題だったのだと、ナナは最初のトレーニングが始まる前に語ってくれた。
「普通の人は自然にできてるように見えるけど、彼らだって小さな蜘蛛とかイクラみたいな柔いものを指先でつまもうとして潰しちゃったりするでしょ? 誰も彼も自分の力を隅々まで使いこなせてなんかいないし、ただ単に制御しなきゃいけないほどの力を持ってないだけなんだよ。その方が幸せだとは思うけどね」
じゃあ先輩は使いこなせているんですか、なんて。
聞き返そうとしてやめた。少なくともまくらよりは遥かに上手に使えるに決まっているし、何より自分のためにわざわざ時間を割いてくれているのだから。
「持って見た感じ、マーちゃんの今の体重比は正中線で割った時で左4:右6ってとこだよ。あ、今そんなにバランス崩れてないなって思ったでしょ。臓器とか骨格とか血液とか色々差し引いたらこれでも左右で1:2……つまり倍くらい筋量差があるんだから」
少なくとも見た目上は同じように見える身体。
それはつまり、筋肉の密度が倍違うということになる。
外見的にも触ってみてもピンとはこないが、まくらは今のところナナを全面的に信じてみることにしていた。
ちなみに「持ってみた感じ」というのは言葉の通りで、体重計ではまくらの体重の偏りを上手く計れないという問題を、ナナはまくらを抱き上げることで解決した。
傍目から見る以上に、自分の手で触れて持ち上げる方が体内構造はわかりやすい。とはいえナナは医学に詳しい訳ではないため、あくまでも中身の比率がわかるだけではあるのだが。
「マーちゃんの筋量はだいたいわかったけど、後はそれがどれだけ使えてるのかを調べないとね。とりあえず筋力のテストからかな。パワーのコントロールをするなら自分の天井を理解しないと始まらないし」
そう言ってやらされたのは、歪な肉体での全力運動。
例えば全力で走ったり飛んだり跳ねたり殴ったり蹴ったりと、とにかくあらゆる動作を全力でやらされた。
と言っても、どれも極めて短時間だ。長時間の運動は困難だと伝えてあるし、そこは気を使ってくれている。
面白いことに、ナナの言うところの「左右のバランスが取れてない身体」は、同じだけの力を入れたつもりでも左右で全く異なる結果を引き起こした。
握力だけを見ても、上限は左右で1.8倍近く違う。
パンチも、キックも、投擲も。利き手側かどうかの差では言い表せないほどとてつもない出力の差があり、走ればバランスを崩して転けそうになるし、跳ねればまっすぐ上に跳ぶことさえできない有様だった。
怪我をするのは嫌だし、痛みだって大っ嫌い。
少しでも力を入れて運動をするとほぼ必ず怪我をするから、できる限り同じ力加減だけで生きていけるように努力を重ねてきた。
そんなまくらが今回に限って頑張れた理由は、怪我をしないようにナナが徹底的に補助してくれたからだ。
走り出して転びそうになった時、キックに失敗してひっくり返りそうになった時、パンチをスカって顔面から地面に落ちそうになった時。
横で見てたナナが必ず助けてくれるから、思い切って力を出せた。
自分より遥かに力強い人が近くに居て、全てを受け止めてくれる。補助輪付きで自転車を漕いでいるような安心感のおかげで、まくらは初めて全力の運動をすることができた。
全ての指示された運動を終わらせてからは、裏山をおりて白糸本家……つまりまくらの自宅の近くにある、小さな離れへと移動した。
腰を落ち着けてから、まくらの拙い運動を見て何やら取っていたらしいメモを見ながら、ナナが現状のまくらを総評してくれた。
「わかってたけど酷いもんだね。運動神経がまるで無い。指の先っぽまで錆び付いちゃってる。だからその体でその程度のパワーしか出せないんだ。不器用すぎる理由もそこにある……とはいえいい所も見えてきたよ」
錆びたロボットみたいだね〜なんて言いながら、ナナはまくらの目を指差した。
「まず、目がいいね。静止視力も動体視力もずば抜けてる。全身の筋肉と同じで眼筋も発達してるのかも。ま、目の構造とかそういうのって筋肉由来なのかとか、詳しいことは私もよくわからないけど」
褒められるのは嬉しい。人より目がいいのは視力検査で知っていたけれど、まさか動体視力までいいとは思わなかった。
それも当然のことだ。動体視力は正確な計測をするかスポーツの中で優位性を経験しない限り、主観的に「見えてる気がする」ものでしかない。
人生においてあらゆるスポーツ経験から逃げてきたまくらにとっては、全く知りえない長所だった。
「後は反射神経もかなりいい。スポーツのトッププロにも負けない……いや超えちゃってるくらい、文句なしの伝達速度だと思う。まあ、反応した後の身体の動きが悪いからほとんど意味ないけど」
「……上げて落としますね……」
「まずはありのままを見ないとね」
反射神経と言われれば確かに転んだ時に受け身を取ったりするのは得意だったかもしれないなぁ……などと過去を思い返す。
バランス感覚が悪くよく転んでいたせいで慣れたのかと思っていたが、単純に自分の知らない才能のおかげだったのかもしれない。
「さっき運動神経が悪いって話したけど、実際に運動神経なんて名前の神経はなくてさ。身体を、筋肉を、思った通りに動かせる才能のことを運動神経っていうんだよ。つまりマーちゃんは常人の数倍の筋肉を従えなきゃいけない。大変だよねぇ」
「……うぅ」
あっはっはと軽く笑うナナの言葉に、その身体を動かす感覚が致命的にかけていることに悩まされてきたまくらは項垂れるしかなかった。
「パワーコントロールのやり方……といっても、基本的にはやっぱり自分の中で折り合うしかないんだけどね。マーちゃんは幸い『普通』のパワー感覚は身につけてるから、何度か『全力』を試してみて、『普通』と『全力』の間を細かく分割していくといいよ。普通が1なら全力は10で、2~9はこのくらいで……みたいな感じ。何となくの感覚じゃなくて、握力計とかを用意するといいね。慣れるまでは数字と感覚を結び付けた方が覚えやすいから」
さっき使ったやつあげるよと言って渡されたのは、なんと500キロまで計測できる握力計。当然体力テストで使うようなものより遥かにでかくて重い。
こんな代物をどこから……とまくらは思ったが、カロリーバーと同じでツテがあるのだろうと割り切った。
「それとは別にトレーニングもね。イメージ的には右の重さに左を合わせてく感じだから、体重は増えるよ。いくつか簡単なメニューを教えてあげるから、1ヶ月くらい頑張ってみようね」
まくら自身も、ナナも、ミオスタチン関連筋肉肥大の人間がどの程度の速度で筋肉を発達させるのかがわからなかったため、筋力増強に関しては様子を見ながらという話になった。
「マッサージに関してはしばらくはかなり痛いと思うけど我慢してね。コリが解れたら痛みもほとんどなくなるからね」
「……は、はい」
最後の全身マッサージに関しては、バイト先での痛みを思い出して緊張した。
一旦自宅の離れに集まったのは、多分悲鳴を我慢できないと思ったからだった。
離れであれば普段はほとんど使わない、インフルエンザにかかった時などに家族を隔離するための部屋があり、マッサージで悲鳴をあげても家族を心配させることもない。
「マーちゃんの筋肉が強すぎて、普通の人の力じゃ圧がかからないんだよね。こればかりは仕方ない。じゃあ行くよ」
「うぐっっっ!!!!???」
この苦痛と快感のダブルパンチをなんと喩えればいいものか。
獄炎の中で濃厚なアイスクリームを味わうような感覚とでも言えばいいか。
どうしても漏れてしまう悲鳴に、やはり離れを選んだのは正解だったなとまくらは思った。
実の所、まくらは自分のパワーをできるだけ抑えるために、動作に使う筋肉以外を限りなく硬直させていた。
それは筋肉で筋肉を抑え込む行為。動かす筋肉を周囲の筋肉でギプスのように押さえつけることで、最低限のパワーしか出ないようにしていた。
本人は意識してのことではない。パワーを抑えようとした結果、たまたまそういう筋肉の使い方をしていたというだけだ。
ソレは日常生活を送るには良かったが、過度な緊張は恒常的な筋肉の硬直を招き、まくらは気づけば全身に固着しかけた硬い筋肉の鎧をまとうことになってしまった。
内側から、あるいは自力で解すには既に固まりすぎていて、かと言って外からの圧力で解すにはそこらの整体師ではパワーが足りない。
故にナナはまくらを大きく傷つけない範囲で無理やりマッサージで解すことにした。
まくらがその事実を知ったのは、3回目のマッサージを受けた頃だった。
☆
トレーニングとマッサージは、だいたい二日に一回のペースで行われた。
言われた通り「全力」を出すトレーニングと、ナナに言われた左半身の筋トレ。そして全身を解すためのマッサージ。
変化は劇的だった。
(……どんどん全力が上がってく。なかなか上限が見えない)
ナナに言われた「その身体でその程度のパワーしか出せない」という言葉の意味がよくわかる。
過度に硬直し半ば機能停止していた筋肉によって、まくらは肉体ポテンシャルの大半を封じていた。
それがマッサージと「全力」を出す練習のおかげで徐々に解放されていっている。故に、今のまくらは測る度に全力の出力が上がってしまう状態にあった。
(運動神経なんて神経は存在しないって、ナナ先輩は言ってた。でも、身体がほぐれればほぐれるほど……全力に慣れれば慣れるほど、全身に神経が通っていくのがわかる。筋肉を少しずつ支配下に置いてる感覚が確かにある)
思えば、幼少期からずっと「力を抑えたい」とばかり願ってきた。
今になって思う。それは逆効果だったんじゃないかと。
(ちゃんと身体の声を聞いてあげて、全力で活かしてあげてれば……今よりずっと楽に生きてられたのかな)
なんて。
そんな後悔をナナに伝えてみたら。
「だろうね。でも今考えても意味ないよ」
とバッサリ切り捨てられた。
「せっかく改善してるんだから前向きに行こうよ」
「……ですね」
ナナは本当にさっぱりした人だった。
まくらのためにわざわざ時間を割いて色々としてくれてはいるものの、まくらの気持ちに寄り添ってくれる人ではなかった。
(改めて、不思議な人だな)
それでも、日に日に改善していく身体のことを思えばナナを信じる気持ちがぶれるようなこともなく。
不定期にくる精神的な落ち込みをその度にナナに一蹴されたりしつつ、二ヶ月ほどが経過した。
(あ……包丁が、自然に動く?)
バイト中、仕込みをしている時にふとそう感じた。
自然に動くというか、パワーのコントロールに集中しなくても動かせるというべきか。
そのことをナナに話すと、微笑みながら褒めてくれた。
「いいじゃん。どんな感覚か説明できる?」
「……えーと、いままでだとですね……」
今までのまくらは自分の力の上限がどこにあるかわからないため、常に「一定」のパワーしか出さないように必死に集中しながら作業していた。
そこを逸脱してしまった時、どんな結果になるかがわからなかったからだ。
しかし今のまくらは自分の力の上限を把握したことで、今まで「一定」としてきたパワーが、全力の中のどの程度の位置にあるのかを理解できるようになった。
例えばそれが上限100の中の「5」なのだと理解できれば、「3~7くらいの範囲であれば力がブレても大きな差は生まれないよね」という気持ちの余裕が生まれる。
パワーコントロールの精密性を僅かに落とす代わりに、作業そのものへの集中力が上がったわけだ。
(なんというか、力を緩められるようになった気がする)
マッサージの効果ももちろんあるのだろう。
少なくともこれまでであれば3~7くらいのパワーなどという狭い範囲での力の加減はできなかった。
体感だが、もしナナのマッサージを受ける前に同じ感覚で包丁を握っていれば、2~30くらいの幅で不規則に増減することになっていたような気がする。
「うん、いいね。たった2ヶ月だけど筋量のバランスもかなり改善されたよ。左1:右2だったのが左1.25:右2くらいまで改善したかな。普通の人はこんなおかしなペースで筋肉がついたりはしないから、体質に感謝するところだね」
「……よかったです」
「でも、少しペースを落とそうか。マーちゃん、最近少し顔色が悪いよ。多分食べ過ぎてる」
「うっ……」
ナナに言われたからではなく、自発的にやっていた努力を見抜かれて、まくらはバツが悪そうに俯いた。
実はまくらは、身体がどんどんと軽くなったり筋肉を意識できるようになるにつれて、二人で相談して決めた以上のトレーニングを行っていた。
沢山動けば、その分多くのエネルギーを消費する。
さらに筋肉の修復のためにより多くのタンパク質も必要になる。
多くのエネルギーとタンパク質を賄うために食事量が増える。
食事量が増えたことで臓器にかかる目に見えない負担が増す。
まくら本人の体感では内臓の負担による不調をマッサージによる復調が上回っていたため、気づけなかった。
しかしそんな身体の内側の負担を、ナナの目は見逃さなかった。
「頑張るのを悪いとは言わないけど、成果が出た以上スローダウンはしよう。肉体の改造なんて本来なら何年もかけるようなことなんだから」
「……わかりました。私、焦ってましたね」
「そうだね。でも、取り返しはつくからさ」
責められはしなかった。
ただオーバーヒートする前にストップをかけてくれただけのことだ。
「全身のマッサージもそろそろ効果がないってくらい筋肉は解れたし、これまでのトレーニングで右側の成長がほぼないから、力の上限もこれ以上は無理しなければ上がらないと思う。成果もでてきたことだし、トレーニングの進捗確認は週一回くらいに減らそうと思ってるんだ」
「……そう、ですね。私も、最近は転ばなくなりましたし」
「トレーニングは続けてね。不安なことがあれば相談してくれていいから。解決できるとは限らないけど」
「……ありがとう、ございます。こんなに色々してくれて」
「気にしなくていいよ。単にお節介しちゃっただけだしね。あ、もうしばらくはバイトの時間は合わせるようにするから」
「……はいっ!」
たったの2ヶ月。
しかし人生で最も実りのある2ヶ月でもあった。
こうして、まくらのトレーニング生活は少し落ち着きを見せることとなった。
マッサージ以外は割とたまたま上手くいっただけだったり。
この頃のナナは過去の大半がふわっとしてるので、自分がやったトレーニングも朧気にしか覚えていないからです。





