決別の涙
15歳のクリスマス。
ナナの両親が亡くなった日。
解決した今でこそトーカには茶化して伝えたものの、実のところあの日のナナは本当に失踪していた。
トーカに姿を確認されたのを最後に、街から消えたのだ。
事情を聞いたロン姉が手を尽くして、数日後に2つ隣の県で浮浪しているところが見つかるまで、私は気が気でない思いだった。
あの街で鷹匠家の監視網を撒いて抜け出すなんて、ありえないことだったのに。
心配だった。
心配じゃないはずがなかった。
だって、私は知っていた。
ナナにとって、両親がどれほど大切な存在かを知っていた。
両親と、私。たった3人だけしかいない、ナナにとって数少ない大切なもの。それはあの子にとって生きる理由の全てと言ってもよかった。
それが2つも無くなった。もともと脆くて不安定だったナナの心の支えが崩れ落ちた。それも、自分の目の前で死なせてしまったのだ。
トーカから聞いた事実に愕然とした。
ナナが泣くところなんて、私は見たことがない。
怪我の痛みをこらえて涙目になるところは見た事があるけれど、涙を流してはいなかった。
猛犬から命を救ってくれたあの時でさえ、ナナは笑っていたのだから。
心が壊れてしまったのだと思った。
出会った時から少しずつ溶かしてきた、凍りついた心。それが溶け切る前に砕けてしまったのだと思った。
ナナが見つかったと聞いて、私は急いでロン姉の個人研究所に向かった。
自分がナナを支えてあげないといけないと、そう思ったからだ。
見つかったナナは、とびきり頑丈な部屋に隔離されていた。
ふとした拍子に再び失踪してしまわないように。
そして何より、自殺をしないよう監視する為に。
「ナナ!」
たどり着いた拍子に、部屋の外から叫ぶようにナナに呼びかけた。
格子状の窓がついた扉。声はきっと届くはず。
仕方がないとわかっていても、まるで囚人を収容しているみたいで吐き気がした。
なんて言ってあげればいい?
どう慰めてあげればいい?
そんなことばかり考えていた私に、中から声が返ってきた。
「……だめ」
か細い。けれど、はっきりとナナの声が聞こえた。
「もう、だめ。わたし、もう、りんちゃんと、いられない」
ぽたぽたと、涙が落ちる音がした。
ナナは静かに泣きながら、たどたどしい口調でそう言った。
「いっしょにいたら、だめなんだ。おとうさんも、おかあさんも、いなくなっちゃった。りんちゃんまで、いなくなったら、わたし、もう、たえられない」
「…………っ!」
両親を、目の前で失った。聞く限り、遺体が原型さえ留めないほど凄惨な事故だった。
それがどれほどのショックだったのか想像することさえおこがましいほどに、ナナの心は傷ついていた。
それは間違いない。
間違いない、けれど。
強く握り締められた手からは、血が流れていた。
コンクリートなんかより遥かに硬いはずの床が、豆腐のように抉られているのが見えた。
背中越しで表情は見えないのに伝わってくる、煮え滾るような怒り。
思わず冷や汗を流してしまうほどの壮絶な感情の嵐。
それは私が初めて見る、ナナの激情の発露だった。
大切な人を失った喪失感。
両親を殺した人への……いや、世界そのものへの憎悪。
そして、両親を守れなかった自分自身への怒り。
切ないほどの悲哀と、燃え盛るような憤怒と。
爆発しそうなほど強い感情をいくつも抱えながら、ナナは必死に我慢していた。
たどたどしい言葉遣いは悲しみによるものじゃなくて。
暴れだしそうな自分を、必死に抑えていた結果。
長い付き合いだ。
家族よりも深いところで、私とナナの絆は繋がっている。
だからこそ、わかった。
あの子は今、ギリギリのところで、ニンゲンを保っているのだとわかってしまった。
虚ろな瞳で街をさまよっていたと聞いた。
ここに閉じ込められてからも、ずっと黙って俯いていたと聞いた。
そんなナナが、事故から時間の経った今になって感情を爆発させかけているのはきっと、私の声を聞いてしまったからだ。
「大好きなリンちゃん」の声を聞いてしまったから、押さえ込んでいた感情が溢れてしまった。
自暴自棄になりかけて、一歩間違えたら私ですら殺されてしまうかもしれないほど、危うい均衡の上にあの子は立っている。
ナナが私を嫌いになるなんてことはありえない。
嫌いになんてなれないから、今のナナは必死に我慢してる。
だからきっと、この拒絶は最後の抵抗だ。万が一にも私を傷つけてしまったらもう止まれないと、あの子自身がわかっているのだ。
ここで私が扉を開いてナナを抱きしめたところであの子を癒すことはできない。むしろ傷を広げるだけだし、最悪の事態すら招きかねない。
そうやって両手を握り締めて、必死に我慢するナナを見て。
私は少しだけ、安心した。
(……そっか。強く、なろうとしてるのね)
何もかもを投げ出す訳でもなく。
私に依存することもなく。
自分の命を絶つ訳でもなく。
どうにかしてその激情を飲み込もうとしている。
自分の力で解決しようと頑張っている。
本当は私を頼って欲しい。
いくらでも慰めて甘やかしてあげたい。
でも、ナナが自分の意思で頑張ろうとしていることを、私の独善で妨げるのは違う。
だってナナは、私の子分でも奴隷でもない。
私たちは対等な親友なんだから。
私は込み上げる思いをグッとこらえて、どうしても震えてしまう声でこう言った。
「………………わかったわ、ナナ。少しだけ距離を置きましょ。……また、来るわね」
その言葉を絞り出すのに、どれほどの苦痛を伴ったか。少なくとも、これまでの人生で一番の痛みだったのは間違いない。
文字通り半身を引き裂かれるのと同じだけ、心が痛かった。
☆
「いいのかよ、リン。ああ言っちゃいたけど、今のナナはいつ死んだっておかしくないくらい弱ってる。……アタシじゃナナは癒せねぇ。それができるのはもうお前しかいねぇんだ」
「いいの。ホントは私もそうしたいけど……ナナが、変わろうとしてるんだもの。それを止めたくないから、今はいいの」
帰り際にロン姉から声をかけられて、私ははっきりとそう答えた。
私が思っていたよりずっと、ナナは強い子に育っていた。
今は痛みで涙を流していたとしても、いつかは自力で立ち直れるだろうと思えるほどに。
それにどれだけの時間がかかるかはわからない。
一週間? 一ヶ月? あるいは何年もかかってしまうのかもしれない。
それでも今、私が傍にいたところでナナを癒すことはできない。むしろ、成長の妨げにしかなれないだろう。
「だから、後はロン姉に任せるわ。私も……強く、ならなきゃ」
「……わーったよ。ナナを一番わかってるリンがそう言うんだ。あの子がまたお前と会えるくらい回復するまでは、アタシが面倒見といてやる。カウンセリングはわりかし得意なほうだしな。ただまぁ……その泣きそうな顔だけは、どうにかしてから帰んな」
「……そんな顔、してる?」
「おう、ひでぇ顔してるよ。せっかく綺麗な顔が台無しだぜ。ほれ、泣きたきゃ胸くらいなら貸してやる。生憎ぺったんこで柔らかくはねぇけどな」
ロン姉はそう言って、強がる私を抱き寄せた。
ポンポンと頭を撫でられて、全身の力が抜けた。
「…………ばかよね、わたし」
「そうだな。でも、間違っちゃいねぇさ」
どうしようもなく優しい従姉の言葉を聞いて、我慢していたものが決壊する。
その日、私は泣いた。
ナナにゲームで負けて泣いたことはあったけれど、これ程わんわんと声を上げて子供のように泣いたのは、生まれて初めてのことだった。
ずっと一緒にいるはずだった親友との初めての決別が、どうしようもなく辛かったから。
泣き疲れて眠るまで、ずっとずっと泣いていた。





