第十景 月を齧る魔物【月】
「つきをかじるまもの」
欠けている月を見あげて、なんとなく。
「あなたって、よく月を見てるわよね。
そんなに、月が好きなわけ?」
女の声は非難や呆れと言うより、どちらかといえば素直な疑問として、おれの耳へと響いた。
その問いにまともに答えるべきか?
少々、迷いはしたが。下手な嘘も思いつかなかったおれは、正直に答えることにする。
「月を見てるんじゃない。
月を齧って、欠けさせてる魔物を見てるのさ」
つきあいはじめて間もない女をあいてに、こんな話をするのはどうかしているのかもしれない。
理解しがたい変人に思われるのではないかと、そう気づいたが、もう遅かった。
予想だにしなかったはずのこたえを受けて、どんな表情を浮かべるのか? おそるおそる、うかがうおれに、女は笑いながら言う。
「はは、なあにそれ?
ちゃんと、くわしく聞かせてよ」
呑んだ息をゆっくり吐くような、安堵 のなかにも。そんな返しがくるとは考えもしなかった驚きを、おれは感じながら。
「ん。まあ、たいした話でもないんだけどさ」
そう前置きして。
おれは、父方のじいさんから聞いた話を、この女にもしてやることにした。
お月さんが欠けてくのは、空にいる魔物が齧っておるからじゃ。
赤かったり、黄ぃなかったり、うまそうに色づいておろう?
あやつは、そんなお月さんが大好物でなぁ。
だけんど、いくら魔物の食欲でも。あのまんまるいお月さんを食いきるには、15の夜をかけにゃならん。
だから毎晩、すこしずつ欠けてって、ひと月に一度。
魔物に食い尽くされて、空にお月さんのいない日があるじゃろ?
おぉ、泣くな、泣くな。
心配せんでも、お月さんはまたそのまんまるい顔を、見せてくれるわい。
魔物に齧られたくらいで、なくなりはせんよ。
そのかわり、お月さんがまたまんまるい姿を取り戻すには、15の夜をかけにゃならん。
毎晩、すこしずつ満ちていって。そして、またひと月に一度。空にまんまるのお月さんが浮かぶようになるわけじゃよ。
なに?
魔物はどうして、お月さんがまたまんまるくなるまで。腹をすかせても、ちっとも齧らないで我慢しておるのかって?
そりゃ、おまえ。
中途半端に欠けたお月さんよりもよぉ。
まんまるく、肥えたお月さんのほうが、うまそうだからに決まっとろうが。
がはは。
「今夜の月は欠けてく月なのか、満ちてく月なのか?
どっちだったっけ、って思ってね。
まあ、満月がいつだったかおぼえてりゃあ、迷うまでもないんだが。きのうの月と見比べただけじゃ、ちょっとわかんないもんだよな。
きみが言ってくれるほど。おれはちゃんと毎日、月を見られてないんだって思うと。
なんだか、じいさんがさみしそうな顔をしそうでさ」
こんな話は、こどもに聞かせてやるための、御伽噺にも満たないようなでっちあげだ。
そこになんらかの感傷を、おとなになってまで持ち続けているなんて、やっぱりおれは変人だろう。わかってもらおうだなんて、これっぽっちも思っちゃいないが、わざわざ口に出してまで変人扱いされたくはない。
やっぱり話すんじゃなかったと、自分の口の軽さを悔やむおれに。
「すてきなおじいさまじゃないの。
わたしもお逢いしてみたいわ」
馬鹿にするようすもなく、むしろ心底、興味をひかれたような目をして、おれに言う。
はは。
おれだけじゃなく、この女もなかなかの変人のようだ。
おれは妙な同朋感に、むずりとする胸と。ひさしぶりによみがえった、一抹の寂しさに唇の端を歪めながら、軽くはあるが心からの礼を告げる。
「ありがとう。じいさんも喜ぶよ。
ただ、3年ほど、遅かったかな」
あわてて、あやまろうとする女を左手で制して、右手はその肩を抱く。
あごで、くいっと合図をしてやると。
ふたりはそれから、しばらく無言のまま。
これから欠けるのか、満ちるのかもわからない月を見あげていた。
つきあいはじめてから、まだ間もない女だが。
じいさんが生きていたら、おれも逢わせてやりたかったな。
そんなことを考えていたら、女の肩を抱く右手にも力がこもる。その無骨な指に、か細い指が添えられたのに気づいて。おれたちは、月から目線をはずし、たがいにみつめあう。
空に浮かんだ月はあいかわらず、これから欠けるのか、満ちるのかもわからないが。
おれたちのなかに満ちはじめた、この感情は。真円とまではいかなくとも、やがて丸みを帯びるだろう。
いつか、そいつを齧る魔物が現れたとしても。
そして、たとえその丸みを食い尽くされたとしても。
また丸みを帯びるまで、何度でも育んでやればいい。
この女となら、そんな馬鹿げた恋愛も、悪くないな。
抱いた肩を胸もとにまで抱き寄せて、空いていた左手で女の頬を撫でる。
これから欠けるのか、満ちるのかもわからない月は、空に浮かんだまま、おれたちを照らしていた。




