賢くなりたい(3)
それからひとしきり、他の生き物が自力で手に入れられないものを与える危険だとか、食べ物と身体の違いだとかを教えられ、姫は口をとがらせながらも納得した。ついでに背赤も反省した。反省したけれども。
「でも、仲良くなりたいひととは、一緒にごはんを食べたいですよね」
ぽつりとこぼれた背赤の一言で、途端に姫は強気を取り戻し、えへんと胸を反らせる。
「共に食事をするというのは、社交の基本だもの。同じテーブルについて、敵意のないこと、話し合えることを確かめるのよ」
背赤はきょとんと首を傾げた。一緒にごはんを食べて、美味しいね、って言うだけのことじゃないのかなぁ、ニンゲンって難しいなぁ、と目をしばたたく。
そんな反応に、姫はやや鼻白んだ顔をして、ぷいとそっぽを向いた。
「冷静に考えてみれば、背赤の食卓になんて同席したくないわ。虫とかトカゲだなんて!」
「……やっぱり、わたしたちのごちそうは、あんまりほかのひとたちは好きじゃないんですね。生きているのも嫌になっちゃうんですね……」
背赤はしょぼんと耳を垂れる。ドラゴンがなにやら身じろぎしたが、姫は気付かず、もったいぶっておほんと咳払いした。
「虫もトカゲもぞっとするけど、何も載ってない食卓なら、いいわよ」
まわりくどい言い方に背赤はしばし悩み、意味を理解するなりぱあっと満面の笑みになった。
何も載っていない食卓、つまり風の糸で編んだ網を見たい、ということだ!
背赤は尻尾を揺らしながら、いそいそと全部の罠を見て回った。そうして、まだ一匹の虫もかかっておらず、ほつれも破れもないきれいな場所を見つけて、こっちこっち、と手招きする。
無視しろ、とドラゴンに言われたことも忘れて、背赤はすっかりはしゃいでいた。
「この網は自信作なんですよー!」
「すごい……わたしの持ってるレースが全部、古ぼけて見えちゃうわ。きらきらしてる……蜘蛛の巣とは違うのね、触ってもべたべたしないわ」
「風の糸ですから! こうやって紡ぐんですよ」
きゃっきゃっと愛らしい声が賑やかに響く。やれやれ、とドラゴンは諦めの心境でそれを眺めていた。
《あらあらヌシ様、仲間外れにされちゃいましたね》
《我を仲間などと》
ふん、とドラゴンは鼻を鳴らす。実際にではなく、思念で、だが。うっかり鼻息ひとつで吹き飛ばしかねない生き物たちと、仲間、などという言葉でつなぐこと自体、笑止千万。
《それより、そなたの小さなニンゲンをしっかり見張っておれ。何かあっても知らぬぞ》
《ご心配なく。わたくしの姫様は背赤ほどじゃありませんけど、用心深いんですのよ。ほら、絶対に一歩以上離れているでしょう》
それにはドラゴンも気付いていた。ニンゲンの少女は、平気で背赤とおしゃべりしていながら、決して手を触れようとはしていなかった。一歩か二歩、必ず間を空けている。
魔女はにっこりして、少女たちのほうへ歩み寄った。
「姫様、姫様。わたくしも仲間に入れてくださいな。ああ、さすがに背赤は風の匠と言われるだけありますわねぇ、素敵な編み模様!」
「でしょう、アンバー、これを写し取って新しいレースの柄にできないかしら」
「良いお考えですわ」
ぱちんと魔女は手を叩く。合わせた両手を開いた時には、写生用の紙とインクとペンを画板に載せて持っていた。
姫は真剣そのもので、背赤がかけた網を写し取っていく。カリカリとペンを動かしながら、あれっ違ったかしら、ここはどうなの、と顔を近付けて観察して。
「複雑だわね……あなた、これを毎日つくるの? 獲物がかかったり破れたりしたら、繕ったり、作りなおしたりするんでしょう」
「はい。だから毎日、罠をちゃんと点検して回らないといけないんです。獲物がかかってなくても、ずっとそのまんま放っておいたら風の力が弱まって、網がほどけてしまったり獲物をつかまえておけなくなったりしますから、そういうところも一度きれいにして、張り直すんですよ」
「……気が遠くなりそうだわ」
姫は大げさにぐるりと目を回した。魔女がくすくす笑い、レース編みはお好きじゃありませんものね、と余計なことを暴露する。
しかしその姫も、絵を描くのは好きなようだ。表情の気合いが今までとまるで違う。
どれどれ、と背赤は横から覗き込もうとして、何気なくそばに寄った。途端に、ばっ、と姫が画板を盾にする。
「だめよ」
「えっ……」
「それ以上、近寄らないで。絵は完成したら見せてあげるから、それまで覗かないで。気が散るわ」
きつい口調で命じられて、背赤は困惑顔をしつつも従った。一歩下がって、おとなしくちょこんと座って待つ。
魔女がほほえんで言った。
「すっかり仲良くおなりですけど、背赤の牙に猛毒があること、お忘れじゃなくて安心いたしましたわ」
「当たり前でしょ? むやみに噛みつかないし、近寄らなければ害はない、っていうのはわかったけど、だからって危ないことに変わりはないわ。怪我ですむならともかく、即死だもの。何かのはずみでガブッ、ってなったらおしまいよ。忘れるもんですか」
素っ気なく姫は言い返し、また写生に取り組む。背赤は深く嘆息し、うなずいた。
「本当にそうですね。わたし、誰かに噛みつくつもりなんてないですけど、怖がりだし、すぐびっくりするし。わたしが気をつけなきゃ駄目ですよね。ヌシ様みたいに死んじゃったら……」
魔女がふきだしたのと、咳払いのような思念とが、背赤の言葉を遮った。が、時すでに遅し。姫は目を丸くして、信じられないことを聞いた、とばかり背赤とドラゴンを見比べた。
「死んじゃった? って、つまり、あなたがドラゴンを殺したってこと? 背赤の毒ってそんなにすさまじいの!?」
「あっ、いえあのっ、仮の姿だからです! もちろんわたしごときが噛んだぐらいでヌシ様がどうにかなるなんてことはないんですけど! ただあの、仮の姿を取られている時は、わたしの毒が回ると形を保てなくなってしまわれて」
あたふたと説明する背赤。姫は変な顔になって何か言いたそうに口をむずむずさせたが、さすがに岩屋に満ちる威圧感を無視するほど鈍くはない。肩を竦めてまた画板に向かう。
しばし黙ってペンを動かし、よし、と手を止めてから、姫は静かに言った。
「それじゃあ、背赤を滅ぼしてしまえ、なんて実際にやって怖がらせたら、わたしたち人間のほうがたくさん死ぬかもしれないわね」
びく、と背赤が竦む。姫は難しそうに眉を寄せて、絵の出来栄えを確かめるようなふりをしながら続けた。
「怖くて危ない生き物だから殺してしまえ、と言って手出しするのでなく、お互い離れているのが一番いいってことかしら。ねえ、あなたはそれで我慢できる? 人間がいなかったらもっと安心して暮らせるのに、とは思わない?」
くるりと向き直り、翡翠の瞳をひたと据える。
背赤はそんな少女を改めてしげしげ眺め、仲間が大勢殺されたあの日のことを記憶の扉の向こうへ押しやりながら、訥々と答えた。
「離れていてくれるのなら、どこかにニンゲンがいても平気です。だってわたしも家族もみんな、ニンゲンたちに棲み処を追われるまでは、外の世界にニンゲンがいることなんて忘れていましたから」
「わたしは、たとえわたしが出会うことがなくても、この世にとても危険で恐ろしい生き物がいるっていうだけで、怖いわ。背赤は怖がりだっていうのに、あなたは人間が怖くないの?」
「……怖いニンゲンは、怖いです。武器を持って、火をつけるニンゲン。わたしたちを殺そうとするニンゲン。……でも、ヒメサマは怖くないです」
えへ、と背赤はちょっと恥ずかしそうに笑った。同じニンゲンだとわかっていても、目の前の少女はもう嫌いになれなかった。風の網をほめてくれたし、美味しい食べ物を(いけないことなんだけど)分け与えようとしてくれた。だから、怖くない。
まともに好意を見せられて、姫はちょっと面食らい、照れたように顔を背けた。
強いのね、と小さな唇が動いたが、背赤の耳にその言葉は届かなかった。




