60.あなたと私の約束Ⅷ
ダニラスを見送り、溜息を吐く。今日は疲れた。静かな城には辟易していたものの、こんな命が削れそうな心労は欲しくなかった。
それに、まだウィルフレッドには聞かなければならないことも残っている。どっと疲れが増えたとき、後ろからぐぅーと大きな音がした。振り向けば、こちらに背を向けたままのジャスミンから鳴っている。時間を見れば、もう夜にさしかかっていた。夕食の時間である。
怪我があっても食欲があって何よりだ。私達は、運び込まれた、さりげなく四人分に増えていた食事を取り、用意された湯も浴びた。けれど、ジャスミンとサムアは一応大事を取って今日は身体を拭くだけにとどめている。
それでもやはり、二人は眠りにつく段階で熱を出した。寝台に並べて寝かせ、額に手を置く。横になると同時に眠り始めた二人は目を覚まさないが、少し熱い。用意しておいた水を手ぬぐいに含ませ、二人の額に乗せた。見張りに言えば医師も駆けつけてくれるというから、ひとまずは様子見だ。
年頃の男女を同じ寝台で寝かせることについては、もう今更だと許してほしい。サムアは頑なに隣の部屋で椅子を並べて眠ると言っていたが、一日二日のことではないのでやめてほしいと言ったのは私とジャスミンだ。
眠る二人を覗き込み、今日は様子を見るためにも眠らないことに決めた。どうせまだ話さなければならないことはあるのだ。
ウィルフレッドは、寝台に腰掛けた私の前で運び込んだ椅子に座っている。明かりは消した。カーテンを開けているから月明かりでちょうどいい。満月でもない空は中途半端な量で部屋の中を照らしている。
「少し、背が伸びたのね……髪の色も、少し、変わった気がするわ」
「ああ、そうだな……昔に近くなっている気がする。お前もな」
「今まで、どうしていたの?」
「ジョブリンの元にいた」
そうだろうなと思っていたとおりの返答だった。生きていれば、そうだろうなと思っていた。
「いつかまた……お前達の結婚式があれば祭りでも開かれるだろうから潜り込んでやるつもりだったんだがな」
そうだろうなと思っていたとおりの返答だった。生きていればあれしきのことで諦めるはずがないのだと。
それでも今ここにいる彼にどんな心境の変化があったのかは、見たこともないほど静かな瞳で私の後ろにいる二人に向けられている視線を見れば、聞かずとも分かってしまう。
「召喚されたお前達がごたごたに巻き込まれたと聞いたときは胸がすく思いがしたが……そいつらを残したのはどういうことだ。何が若者だ、狼め。まだたかだか十五、六の子どもだろうが。人を殺したこともない子ども二人を大人扱いして毒虫の巣に放り出すなんて、あいつも焼きが回ったか。狼も耄碌したようだ」
忌々しげに毒づいている姿をあの頃は見たこともなかった。けれど恐らくこっちが本性なのだろう。こんな内心を抱えながら、年頃の女に流行の贈り物と話題を用意し、和やかな笑顔で私に語っていたことを思うと少しおかしい。
「そうね……けれど誰かを傷つける力がなくても、人は大人になれるわ。この子達は、私達などより余程強いもの」
「その強さのおかげで、俺は結局あの狼と手を組む羽目になった」
「意外だったわ。……殴り合ったりしていないわよね?」
「さてな。毒は盛ったかもしれんが……ああ、そうだ。俺達のことをジョブリンに話したぞ」
「――何ですって!?」
思わず声を張り上げてしまい、慌てて口元を押さえる。非難がこもった視線を受けながら、これ以上は衣擦れさえ立てぬようそぉっと後ろを振り向く。二人は安らかに眠ったままだ。ほっと肩を落とす。ついでに、温くなってしまった手拭いを交換した。ウィルフレッドは黙って水を替えた。
「仕方が無いだろう。その情報を条件として渡さなければ、俺はダリヒから出られなかった。殺害を失敗した相手の元に戻る理由なんて、再び殺しに戻るか寝返るかのどちらかしかないだろう。そのどちらも、あいつには不都合だ。殺害の成功率が高ければ問題ないだろうがな」
「それは、そうだろうけれど……話した方が出てこられなかったのではないの?」
「面白がっていたぞ。自分が死んだ際も戻ってくる気だな、あれは。俺がダリヒと切れたのは、あの爺がその可能性を知ることが出来た褒美がでかい。まあ、こちらとしても世話にはなった。その分の働きはしてやったが、手切れ金は必要だろう」
「そう……あなた、自由と引き換えに私まで売ったわね」
睨めば、ウィルフレッドは両手を軽く上げて肩を竦める。
「俺と狼の間に挟んだお前を、今更無関係で通せると思っているのか? それに、お前は俺の物だ。俺が落ちるならお前も引き摺り落とすに決まっているだろう」
その認識を改める気はないらしい。今は余裕がないから流してしまおうと溜息を吐く。だが、一言は言わせてもらおう。
「この子達が一緒にいてくれるというのに、まだ欲しがるの? あなた、相当欲張りよ。それはともかくとして、カイドもよくあなたを受け入れたわね」
「カロリーナからは開幕で植木鉢をくらったがな」
「カロンは思い切りがいいの」
さぞかし鬱憤も溜っていたことだろう。だって、色々な事情があれど、カロンはカイドをとても大事に思っている。そのカイドを騙し、毒を盛り、あまつさえ殺したのだ。許すはずがない。そもそもカロンは昔からウィルフレッドを嫌っていた。笑顔が胡散臭い態度が胡散臭い声が胡散臭い言葉が胡散臭いと、それはもう蛇蝎の如く。……ウィルフレッドは植木鉢で済んだことを感謝したほうがいいだろう。
「俺達を餌に、ダリヒは今回ライウスと組んだ。ギミーは元より、ワイファーは完全なるとばっちりだな。ざまあみろ。力を削ぎきれず好き放題やってる豪族を特使に何ざするからこういう目に遭うんだ」
どうやら彼はまだワイファーを許していないらしい。私とて元特使がジャスミン達にしたことを許すつもりは毛頭ないが、彼はワイファー全土に対し一生言い続ける可能性がある。
「それにしても、お前何言った? 今のあの男は、条件さえ揃えば何でも使うぞ。俺であれ、領主の名前であれ、武力であれ、全てだ」
「……カイドのこと? どういうこと?」
「形振り構っていない。お前、あいつの逆鱗を撫でただろう。いや、毒でも撒いたか? 俺はあいつがライウス領主の名で強行している様を見たのは、俺達を追っていた時以来だったぞ。あの男が形振り構わず無様に噛みついている様は、他人事なら中々愉快だった。大体、全領の総意などいくらライウス領主でもこの短期間でそうそう取れるものか。そのうち過労で死ぬぞ、あの男」
笑い事ではないのに、ウィルフレッドはそれは機嫌がよさそうに笑っている。この人が子どものように笑うのはいつだって、カイドに何かがあったときだ。何の含みもなく、本当に無邪気に笑うことはあるのだろうかと、思う。
「どうやら俺達がいた頃に城を牛耳ってた連中を、王は徐々に力を削いできたようだな。自分のためか息子達のためかは知らんが。どんな物であれ強引に進めれば軋轢を生む。自分に直接の被害がなくとも、強引に進められる人間だと判断すれば民は勝手に恐れるものだ。その点に関しては、王はうまくやった。だが、あの男は違う。今回の件であの男、領民からは一歩引かれたようだぞ。強攻策に、前領主の面影でも見たんだろうさ」
完璧な個人など存在しない。なのに他者へ完璧を求める人のなんと多いことか。完璧な倫理を、道徳を、責務を、社会的責任を盾にして求める。責任と感情の間で揺れる人間としての矛盾すら許せず、どちらかに振り切れと求めるのだ。
されど、己が同じ状況へと陥れば感情へ振り切るかもしれない指針に、他者が傾けることは許さない。感情による惑いを酷く責め、ならばと椅子から降りることすら許さないのだ。一度座ったのなら責任を持て。出来なくても知るものか。それはお前が無責任なだけなのだと相手を責め、己は絶対にその椅子には座らない。
そうして、断腸の思いで切り捨てた犠牲に対する対価を、責めた人間が支払うことは決してないと分かっていても、選ばなければならない日は必ず来るのだ。
「民なんてそんなものだ。だから管理しなければすぐつけあがる。縋る寄る辺がなかったから、ライウスはカイド・ファルアに付き従った。けれど、生活の基盤が出来ればほら見ろ、簡単に見捨ててしまえるんだ」
個人として生きるか、領主として生きるか。両立することは、難しい。されど、きっぱり二分することもまた酷く難しいのだ。領主であっても人でしかなく、人であっても領主である。
職務としてならば許せず、個人ならば許せることがある。その逆もまた然りだと知っている。
ライウスの元領主の娘としての感情と、ただの私が王へと抱く感情が異なったように。客観的に見た己を、感情のままに酷いと泣き叫ぶ己を、どちらかだけ選べたらどれだけよかったのだろう。けれどそんなこと、本当に可能なのだろうか。
「だからあいつは手緩いんだ。全てが壊れていたのなら、今度こそ不満を口に出せないよう徹底した法を敷くべきだった。せっかくそこまで壊したのに、結局あいつは自分の手で自分を殺す人間を生かし、殺す術を整えてやったんだ。あいつは馬鹿な奴だ。所詮人の上に立つ人間など、人として、個人として生きる権利を剥ぎ取られた道化共だというのに、観客のために身を削る」
「……だったら、あなたは何故そんなものになりたいの」
ウィルフレッドの唇がゆっくりと吊り上がっていく。
「そんなの決まってるだろう。あれは、俺の物だからだ。俺は、ライウス上流貴族オルコット家の人間だからな」
うっそりとしたその笑みは、控えめな月明かりによく映えた。
「俺は、俺の個人を剥ぎ取った奴らにその責任を負わせるまでだ。俺の生死をくれてやった。ならば、あいつらの生死は俺の物だ。俺が決め、俺が生かし、俺が殺す」
くつくつと歪な笑い声が部屋に満ちる。けれどそれは不思議と柔らかで、穏やかだ。眠る子ども達を起こさないほど、悪魔の笑い声は静かだった。
「俺達の話をしていたとき、ジョブリンの孫娘も同席していたんだがな。それはもう散々な言い様だった。逃げればよかった? 捨てればよかった? 上から目線で何様のつもりだ。部外者が賢しいつもりの自分に酔ってかけてくる言葉ほどみっともない物はないな。お前が俺の何を知っているんだ。その程度の理解力で、訳知り顔を出来る己を恥じろと言えば良かったと今なら思う。どちらにしろ俺は、俺の基準とその他の基準を秤に掛け、己の基準だけでしか動けない」
珍しい話の内容に、少し驚く。これは恐らく、愚痴だ。
「俺は何度繰り返してもカイド・ファルアを憎み、ライウスに固執し、お前に執着する」
「一度決めたなら、もう惑ってはならないの? 前を向いたら、振り向いてはいけないの?」
歩き出したら止まってはならないの? 走り出したら歩いてはならないの? 捨てた物を拾ってはいけないの? 憎んだものを、愛してはいけないの?
そうして一歩も立ち止まらず、死ぬまで走り続けなければならないの?
「憎しみだけがあれば、いいの? 本当にそれでいいの? ……生きていく許しは、必要ない?」
世間話ならば、以前山ほど聞いた。恨み言ならば、この生で山ほど聞いた。弱音は、どちらの生でも初めて、聞いた。ぴくりと指を動かしたウィルフレッドの元へ近寄る。ウィルフレッドは私を見ないが、逃げもしなかった。
「あなたは本当に、それを私が与えなくては生きていけないの? あなたが欲しいのは、与える権利のない私からの許しなの? ……欲しいのは、この時代そのものの、あの子達からの許しではないの? ティムではなく、ウィルフレッドに対する生の許しが、あなたにとって必要なのではないの?」
その手をそっと握り、椅子から立たせる。その手は酷く冷え切っていた。為すがままの身体を連れ、寝台へと戻る。
「あなた今とても冷えているから、二人の間で寝てもらえるかしら」
「……お前、人を氷嚢代わりにする気か」
「ええ、ちょうどいいもの」
振り返って睨んでくる背中を押し、寝台に押し込む。憮然とした表情をされても無視する。
「あなたも、顔色がいいとは言えないわ。何かあったら起こすから今は寝ていて。知っての通り、私達では何かあった際自分の命も庇えないわ。あなたを頼りにしたいのに、寝不足でふらつくだなんて嫌よ……この子達がいれば、悪夢なんてきっと見ないわ。もし見ても私が起こしてあげる。だから、熱のある子達が心配するような顔色で起床の挨拶をするのはよして。お願い」
しばらく動きを止めていたウィルフレッドは、私が引く気がないのを悟ったのか、どう見ても納得がいっていない顔で大人しく横になった。扉の前に椅子か何か家具を置いておけと言い置いて。手慣れた様子に、緊迫感のある日常を送ってきたのだろうなと察してあまりある。流石にカイドでもそこまではしていなかった。剣を抱いて眠っていただけだ。……私の基準も相当ずれてきた自覚はある。
「おやすみなさい、ウィルフレッド。あなたの眠りが穏やかなものでありますように」
額に小さな口づけを落とす。
数々の苦痛を生み出し、そして埋もれてきたあなたが、せめて眠りの中だけでも穏やかであるようにと祈りをこめる。祝福あれと。
沢山の人を殺してきた。沢山の人を不幸にした。今なお続く嘆きを生み出してきたライウスの悪魔に、祝福を願うことはきっと許されない。それが私であることがもっと深い罪だろう。
だけどどうか今だけは、ライウスの愛し子と共につく眠りが穏やかであればいい。
一度死した私達に、祈る神があるのかは分からないけれど。
「……シャーリー」
「なあに、ウィル」
祈りが届いたのか、意外にもウィルフレッドの声は柔らかく解けかけていた。
「お前は……その名を選ぶんだな」
「ええ。私はシャーリー・ヒンスよ。素敵な名前でしょう?」
「――ああ、そうだな……」
瞳がゆっくりと閉じられた後は、もう開かなかった。
カイド。私は今、いつもよりずっと、あなたに会いたい。




