ヴェッセル侯爵家①
ティリーエがマーシャル男爵家の別荘の清掃仕事を終わらせて帰宅すると、いつものように伯爵家の庭仕事と食事の支度を始めた。
最近連日レンタルメイドサービスの仕事が入っていて、身体も心もくたくただった。
マーシャル男爵は、バカンス前になると別荘の掃除を依頼して下さる、いわば定期のお得意様だ。
老齢の夫妻だから心優しく、いつもティリーエに差し入れをくれる。
今日はオレンジピールを練り込んだパウンドケーキだ。
上に散りばめられたアーモンドが香ばしく、洋酒を含ませた生地がしっとりしていて大変美味しそうだった。
男爵家は近いのと、何度も行ったのとで道を覚えているから、帰りは徒歩だ。
疲れた足はもつれて今にも転びそうだったし、パウンドケーキすら重たくて腕が上がらない。
それでも母の飴を食べながら気力で歩ききり、エントランスに入ると、義姉が待ち構えていたかのように手を出してきた。
「お土産」
男爵夫妻がお土産をくれることを、ジェシカは勿論覚えている。
飴の匂いがお菓子の匂いにかき消されて気づかれないのは幸いだ。
逆らっても無駄なので大人しく籠を渡し、小屋に戻って着替えた。
引きずるように屋敷に戻り、いつもの仕事をして、硬くなったパンを水でふやかして食べた。
最近は目が霞むどころか、景色までぐるぐる回る。
パンを咀嚼する元気も無く、うまく飲み込めない。
身体の限界が近いのだろう。
でも別に、この世に未練も無いし、搾取されるばかりの人生に意味なんてあるのだろうか。
いつ死んだって良い、でも祖父を悲しませたくないと、そう思いながら目を閉じた。
◇
翌日は再び、ヴェッセル侯爵家からの依頼だった。
朝、洗濯と掃除、1日ぶんの食事の支度を終わらせて出発する。
またしても馬車の中で眠り込み、到着してから叩き起こされた。
放り出され、トボトボと門から屋敷に近づいていると、誰かが立っていた。
「‥‥‥?」
顔を上げて前髪をかきわけ、目を細めるが、よくは見えない。
前に見た人とシルエットが似ているから、当主様だろうか。
ジェシカから、今度こそ顔をよく見てくるように言われていたティリーエは、何とか特徴を覚えようと目をこらした。
黒髪の短髪が凛々しい、若い男性だ。
無駄の無い、均整のとれた身体つきが逞しい。
左腕と手が、少し細い…?
とりあえずそれが分かったので、目線を逸らして頭を下げ、礼をした。
「この度は再びご依頼をありがとうございます。
今日は裁縫仕事と伺っております。
どうぞ宜しくお願い致します」
男性は黙ってティリーエの様子を観察していたが、ふいに手を差し出して言った。
「転ぶと危ない。私に掴まっていなさい」
横断歩道を渡れないおばあちゃんに手を差し伸べる青年の構図だ。
よほど、ティリーエの歩き方が危なっかしいのだろう。
ティリーエは迷ったが、正直身体を起こしているだけでも辛かったから、男性の言葉に甘えることにした。
男性が差し出した手の上に、自身の手を重ねた。
誰かの体温を感じたのは、いつぶりだったろう。
ほわりと伝わる温かさに、思わず涙が出そうになったティリーエは、唇を噛んで何とか堪えた。
軽っ!!
軽すぎるだろうこれは?
セリオンは乗せられた手の重さにまたしても驚愕していた。
枯れ葉か紙のようだ。
また、彼女が歩くのに音がしない。
強風が吹けば飛んでいきそうだ。
伯爵家でろくな扱いを受けていないのではないか。
セリオンは令嬢が嫌いだが、年長者(高齢者)は大切にしなくてはと思っている。
特に働き者の高齢者となれば、むしろ尊敬に値する。
ノンナ(メイド長)より年上に思える。
うちで引き取った方が幸せなのでは?
そんなことを考えながら手を引いて歩き、あの離れの部屋に着いた。
メイド長も待機しており、恭しく礼をとる。
老婆をソファに優しく座らせて、説明を始める。
「この部屋のベッドの布団やシーツ、カーテン、ソファのクッションを揃いで作って貰いたい。
こちらで布や糸は色々と用意しているから、模様や組み合わせは自由に決めて貰って構わない」
そして努めて柔らかい口調を心がけ、
「今日も1日の作業と聞いているが、くれぐれも無理はしなくて良い。
今日終わらなければ、また後日依頼するから」
と言った。




