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ヴェッセル侯爵家①

ティリーエがマーシャル男爵家の別荘の清掃仕事を終わらせて帰宅すると、いつものように伯爵家の庭仕事と食事の支度を始めた。



最近連日レンタルメイドサービスの仕事が入っていて、身体も心もくたくただった。



マーシャル男爵は、バカンス前になると別荘の掃除を依頼して下さる、いわば定期のお得意様だ。

老齢の夫妻だから心優しく、いつもティリーエに差し入れをくれる。



今日はオレンジピールを練り込んだパウンドケーキだ。

上に散りばめられたアーモンドが香ばしく、洋酒を含ませた生地がしっとりしていて大変美味しそうだった。

男爵家は近いのと、何度も行ったのとで道を覚えているから、帰りは徒歩だ。


疲れた足はもつれて今にも転びそうだったし、パウンドケーキすら重たくて腕が上がらない。

それでも母の飴を食べながら気力で歩ききり、エントランスに入ると、義姉が待ち構えていたかのように手を出してきた。



「お土産」



男爵夫妻がお土産をくれることを、ジェシカは勿論覚えている。

飴の匂いがお菓子の匂いにかき消されて気づかれないのは幸いだ。

逆らっても無駄なので大人しく籠を渡し、小屋に戻って着替えた。




引きずるように屋敷に戻り、いつもの仕事をして、硬くなったパンを水でふやかして食べた。

最近は目が霞むどころか、景色までぐるぐる回る。

パンを咀嚼する元気も無く、うまく飲み込めない。

身体の限界が近いのだろう。

でも別に、この世に未練も無いし、搾取されるばかりの人生に意味なんてあるのだろうか。

いつ死んだって良い、でも祖父を悲しませたくないと、そう思いながら目を閉じた。








翌日は再び、ヴェッセル侯爵家からの依頼だった。

朝、洗濯と掃除、1日ぶんの食事の支度を終わらせて出発する。

またしても馬車の中で眠り込み、到着してから叩き起こされた。



放り出され、トボトボと門から屋敷に近づいていると、誰かが立っていた。



「‥‥‥?」



顔を上げて前髪をかきわけ、目を細めるが、よくは見えない。

前に見た人とシルエットが似ているから、当主様だろうか。


ジェシカから、今度こそ顔をよく見てくるように言われていたティリーエは、何とか特徴を覚えようと目をこらした。



黒髪の短髪が凛々しい、若い男性だ。

無駄の無い、均整のとれた身体つきが逞しい。

左腕と手が、少し細い…?



とりあえずそれが分かったので、目線を逸らして頭を下げ、礼をした。



「この度は再びご依頼をありがとうございます。

今日は裁縫仕事と伺っております。

どうぞ宜しくお願い致します」




男性は黙ってティリーエの様子を観察していたが、ふいに手を差し出して言った。



「転ぶと危ない。私に掴まっていなさい」



横断歩道を渡れないおばあちゃんに手を差し伸べる青年の構図だ。

よほど、ティリーエの歩き方が危なっかしいのだろう。

ティリーエは迷ったが、正直身体を起こしているだけでも辛かったから、男性の言葉に甘えることにした。


男性が差し出した手の上に、自身の手を重ねた。



誰かの体温を感じたのは、いつぶりだったろう。

ほわりと伝わる温かさに、思わず涙が出そうになったティリーエは、唇を噛んで何とか堪えた。





軽っ!! 

軽すぎるだろうこれは?

セリオンは乗せられた手の重さにまたしても驚愕していた。

枯れ葉か紙のようだ。

また、彼女が歩くのに音がしない。

強風が吹けば飛んでいきそうだ。

伯爵家でろくな扱いを受けていないのではないか。

セリオンは令嬢が嫌いだが、年長者(高齢者)は大切にしなくてはと思っている。

特に働き者の高齢者となれば、むしろ尊敬に値する。

ノンナ(メイド長)より年上に思える。

うちで引き取った方が幸せなのでは?



そんなことを考えながら手を引いて歩き、あの離れの部屋に着いた。

メイド長も待機しており、恭しく礼をとる。



老婆ティリーエをソファに優しく座らせて、説明を始める。


「この部屋のベッドの布団やシーツ、カーテン、ソファのクッションを揃いで作って貰いたい。

こちらで布や糸は色々と用意しているから、模様や組み合わせは自由に決めて貰って構わない」


そして努めて柔らかい口調を心がけ、



「今日も1日の作業と聞いているが、くれぐれも無理はしなくて良い。

今日終わらなければ、また後日依頼するから」


と言った。



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