ナーウィス伯爵家再び①
「うっ…」
ティリーエが目を覚ますと、ゾワッとする嫌な空気と湿った黴臭い匂いが鼻を突く。
身体を起こして周りを確認すると…
「嘘でしょう…? なぜここに…?」
ボロボロの木で建てられた、隙間風が吹き抜けまくる壁、雨も湿気も入り放題のその懐かしい小屋は、つい去年までティリーエが住んでいた場所だ。
ただ、誰も掃除をせず管理をしていなかったために、床も僅かな家具も雪のように埃被っている。天井には蜘蛛の巣が張りめぐらされ、窓枠や隅は苔むしており、とにかく酷い有り様だった。
ティリーエは一応ベッドに転がされていたが、ベッドも同じ状況であり、ティリーエの紺色のワンピースの半分は汚れて白く煤けていた。
「ゴホッゴホッ」
身体を起こしたことで舞い上がった埃を吸い込んで咳き込む。
身体じゅうが軋んで痛むのはなぜだろう…
ようやく記憶を手繰り寄せれば、本屋の帰りに馬車に撥ねられかけてひっぱりあげられたことを思い出す。
「私… ここに連れて来られたの?」
何で? 誰に?
私を馬車に乗せた人が、介抱した後で、意識の無い私の身元引受人を探したのだろうか。
私の親権者はまだ、もしやこの、ナーウィス伯爵家なのだろうか。
‥‥‥。
違うわ。
私、確か刺激臭のする布を嗅がされて馬車に積まれたのだわ。
私は、意図的にここに連れて来られたのね。
そうして、徐々に鮮明になる記憶から、その馬車が黒ずんだ赤色―――つまり、朱殷色だったことを思い出す。
開かれ、誰かが降りてきて口を覆った時、扉には小さく"薔薇の紋"が入っていた。
膝に力が入らなくなって崩れ落ちながら見上げた馬車の人は、細身の長身で髪を後ろに1つに束ね、冷たい目で見下ろす眼鏡の…
「やっと起きたか」
ドアが開き、目を細めてティリーエを一瞥する。
その男こそ、目の前の男。
ナーウィス伯爵家執事のセブルスだ。
「お前が勝手にいなくなり、ディローダ様やジェシカ様にどれ程ご不便をお掛けしたことか。
下賤の端女のくせに侯爵にうまいこと取り憑く売女が!
身の程を弁えろ」
最近この手の罵言に全く接していなかったので一瞬目を見開いて絶句する。
「わ… 私は…」
下賤でも売女でもないと言い返したいのに、この男の前では喉が凍りついて声が出なくなる。
セブルスは、義母様至上主義の男だ。
彼女の幸せを壊して奪ったティリーエの母とティリーエを誰よりも憎んでいる。
ティリーエが、金魚のようにぱくぱくと口だけ動かしていると、
「セブルス! あいつ、起きたのですって?」
弾む声がしてジェシカがやってきた。
「久しぶりね!まぁ間抜けな顔だこと。 ゴホッ やだ、埃っぽくで汚いわね。
でも、アンタにはお似合いよ? 若い侯爵様の隣より、ずっとね」
クスクスと笑い、そして上機嫌に言った。
「それにしても、あんなに金を持ってるとは思わなかったわ! 薬屋って、そんなに儲かるの? ラッキー!」
そう言われてバッと後ろを振り返るが、背負っていたはずのリュックが無い。
「‥‥‥」
「ああ、アンタの荷物の中身なら、私達が有意義に使わせてもらうわ。あれだけあれば、新しいドレスも宝石もたくさん買えるもの!」
銀行に先に行かなかったばかりに…
ティリーエは道中の不手際を悔いたが、後の祭りだ。
ジェシカはとにかく機嫌が良く、その後も2つ3つ罵声を浴びせてから足早に本邸に立ち去った。
今から義母と買い物に出るらしい。
今は何時頃なのだろう。
そもそもティリーエが攫われてから、何日経ったのか分からない。祖父は心配しているだろう。
「あの、祖父に無事だと連絡をさせて頂けないでしょうか」
震える声でティリーエが頼むと、
「馬鹿か。そんなことをすれば、連れ戻しに来るだろうし、最悪我々に害が及ぶことがなぜ分からない」
ゴミか下水を見る目つきでティリーエを見つめる。
まだ頭が混乱しているティリーエに、セブルスは舌打ちをしながら言った。
「さぁ来い、仕事だ」
使用人は、他にいないと言われた。
ティリーエが来ると決まってから、全員解雇したらしい。
だから、ここにティリーエがいることを知るのは、義母と義姉、セブルスだけなのだ。
そんな貴族の屋敷があるだろうか…
ティリーエは、義母と義姉の不在の間に、屋敷じゅうをピカピカに掃除し、庭木を剪定し、花壇を整え、リネン類の洗濯と、3時のティータイムのスイーツ作り、3人分のディナーの支度をするように命じられた。
相変わらずの鬼畜采配だ。
常人にはまず不可能な業務量である。
ぶつけるように放り投げられた懐かしいメイド服をたぐり寄せて、ティリーエはため息をついた。




