暗雲
翌日。予想通りたくさんの患者様が詰め掛け、文字通り目の回る忙しさではあったが、郵便屋さんには本屋の主人に伝言を頼むことができた。
"4日後の夕方4の刻に受け取りに伺います"と。
まずは3日間、体調に気をつけながら、馬車馬のように働かなければ。
再び診療に戻ったティリーエは、分刻みのスケジュールで治療に明け暮れたのであった。
◇
「それでは行って参ります!」
4日後、患者様の波が落ち着いた昼過ぎに、ティリーエは出発した。
「本当に、ついて行かなくて大丈夫かい…」
祖父はまたしても心配顔だ。
こうして離れるのはもう何回目かなのに、幾度繰り返しても慣れず、心配症なのは治らないらしい。
今回は大金を持っているから尚更なのだろう。
「大丈夫よ、ほとんど歩かないんだから! 心配しないで」
「ううむ…」
今回は2時間半の徒歩でなく、貸し切りの直通馬車だ。
出発もゆっくりで良い。
以前の生活では考えられない贅沢である。
ずっしり重たい鞄を担いで馬車に乗り込む。
大きく手を振って別れ、祖父の姿が遠ざかる。
直通馬車で行ったことはないから、今ひとつ時間感覚が分からないが、約束の時間には間に合うかしら、と考えてからふと気がついた。
以前、『薬草の友』が届いた時は、受け取りはいつでも良いと言っていた。
なぜ今回は、事前に日時を連絡してと言われたのだろう?
薬草の友は王国発行の本で、取り寄せた薬草辞典は異国の本だからか…?
それだけで何か違うものだろうか?
まぁ、良いか… うっ!!
侯爵家の高級馬車とは違う荒くれ馬車に揺らされ、久々の馬車酔いの危機に、浮かんだ疑問はすぐに消えていった。
道中、建築機材が崩れて塞がった道が通行止めになっていたので、馬車は予定より少し遅れて210番街に着いた。
約束の時間が迫っている。
本当は、銀行に行って褒賞品を預けてから本屋に行く予定だったが、先に書店に行くことにした。
馬車に礼金を払って降ろしてもらう。
帰りは徒歩でのんびり歩く予定だ。
御者に礼を言って別れた。
重たい背中を堪えて書店に入る。
「あ… いらっしゃい」
店主がティリーエを見て一瞬顔を強張らせた。
その顔を見てティリーエが慌てる。
「あっ 時間に遅れていましたか? すみません。
途中馬車が通れない所があったのでごめんなさい」
「いや… 大丈夫だよ。 時間通りだ。 さぁ、これが取り寄せの本だよ」
奥から薬草辞典を持って来てくれた。
「わ〜! 楽しみです! ありがとうございます」
ティリーエは他の本もいくつか購入し、追加分の代金を払う。
店主はまた、紙袋に入れてくれた。
「ありがとうございます! この袋、可愛いですよね! 前に頂いた時から可愛いなぁと思っていました」
小さな薔薇の刻印が入ったシンプルな袋だった。
「そうかい。 気に入ったなら良かった…。
お前さんは、聖女様になったんだってね。新聞で見たよ。
初めてお母さんに連れられてウチに来た時は、ただの小さな綺麗な子だったのに、大きくなったね」
店主はティリーエの顔を見ずに袋を渡すと、懐かしむように言葉を掛けた。
「私、お母さんとこちらの本屋さんに来たことがあるんですか?」
「あぁ、お前さんのお母さんも、よく本を買ってくれていたし、何ていうか見た目が他と違って人目を引くだろう?
印象に残っているよ」
「そうなんですか! 母娘2代でお世話になります!」
「‥‥! ああ、ありがとう。 帰りは気をつけるんだよ」
本屋の主人に頭を下げて、ティリーエは店を出る。
さて、銀行はここからすぐ近くの筈。
キョロキョロと周りを見渡すと、それらしい店構えが目に入った。
あそこかな?
道を渡って行こうとした時。
ヒヒーン!!
「危ない!!!」
誰かの声がして、ティリーエは倒れ込んだ。
急に曲がってきた馬車に、巻き込まれそうになったようだ。
幸い、撥ねられはしなかったようで、尻を強かに打ち付けただけで済んだ。
「大丈夫ですか?」
馬車の扉が開いて、手を差し伸べられる。
「あっ、すみません、周りをよく見ていなくて…」
恥ずかしさと尻の痛みで相手を直視できないまま、その手を取る。
ぐいっと引き起こされ、御礼を言おうとした瞬間、鼻と口にツーンと刺す匂いの布が押し当てられた。
「!?」
「大丈夫ですか、お嬢さん。歩けないようですので、我が邸で手当をいたしましょう」
たまらず崩れる身体と薄れゆく意識の中で聞く棒読みの声は、聞き覚えのある冷たい声色だった。
ティリーエを乗せて走り出した馬車は、"小さな薔薇の紋が入った朱殷色の馬車"だった。
危ないと叫んだ通りすがりの少年が、心配そうに見送るその向こうで、窓から一連の流れを見ていた本屋の店主は唇を噛み締めて顔を覆った。




