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ティリーエ、伯爵家へ

その日、リリラーラは久しぶりに街へ買い出しに行った。

薬学が盛んな異国の新書が発売されたと聞き、取り寄せを頼んでいたのだが、入荷したと連絡があったからだ。

10時に受け取りに来て欲しいと言われたので、朝早くに出掛け、せっかく街まで来たのだからと、ティリーエにお土産も買った。

真新しい本と、可愛い娘へのお土産を胸に抱いて、リリラーラは帰路についた。





家で母の帰りを待っていたティリーエと祖父に届いたのは、母の、お土産ジャジャーン☆という明るい声でなく....

馬車に撥ねられて命を落としたという知らせだった。

大事に胸に抱えていた荷物があるため、取りに来るようにとも言われた。



急いで行った医療院では、冷たくなった母と、傍らに発売を楽しみにしていた本、飴の入った可愛い瓶があった。

母を撥ねたのは、小さな薔薇の紋が入った朱殷色の馬車だったらしいが、止まらずに走り去ったそうだ。

轢き逃げだった。


ティリーエはとても悲しかったけど、愛娘を失った祖父のショックが想像以上に深く、食事が喉を通らずやつれる程気落ちしていたから、なるべく幼く、明るく振る舞った。

母は落ち込むことがあると、『雨の後は必ず晴れる!』と言って励ましてくれていたことも覚えていた。

今は辛くても必ず良いことがあるから頑張れと自分を励まし、祖父を支え続けた。



飴は多分、ティリーエへのお土産だったと祖父が言うから、形見として開けずに大事にしまっていた。

イエローオレンジの丸い飴玉の入った瓶はキラキラと光って、置いているだけでも心を癒してくれた。




そうして祖父と2人で生活を始めて1年後に、突然ナーウィス伯爵家から使いが来た。



"庶子とはいえ伯爵の御子なのだから、貴族の子としてちゃんとした淑女教育を受けた方が良い。

伯爵家で家族と共に暮らすことが最善だ。

お孫様は責任を持って我が邸でお育てします"


丸眼鏡に長髪を背中で束ねたの伯爵家の執事―――セブルスは、細い目を更に細めてティリーエを見た。

狐みたいな男だった。

口の端を上げているのに、全然笑顔に見えない。

11歳になったティリーエはその頃には母に瓜二つの容姿をしており、花か宝石のように輝く可愛らしさで好意的に接してくれる者が多かったが、セブルスはその思いやり溢れる言葉とは裏腹に、底冷えのするような瞳でティリーエを見つめていた。



祖父は悩んだ。

老い先短い自分は、ずっとティリーエの傍にはいられない。

後ろ盾は必要だ。

しかも、伯爵家がきちんと世話をしてくれるというのだ。

市井に混じった生活よりも、恵まれた生活ができるのではないか。

勉強熱心なこの子は、伯爵家で教育を受ければもっと賢くなりその知識を人々の生活に役立てられるだろう。


そう思って、その話を受けることにした。

ティリーエは、セブルスの薄ら寒い視線から、かなり悪い予感がしていたので嫌がったが、祖父からティリーエは貴族になって幸せになって欲しいと請われ、最終的には了承した。




別れの日、

「今までありがとうございました。私、新しいお家でも頑張って、幸せになります」

悲しい心を胸に閉じ込めて向日葵のように笑い、祖父に手を降った。



二度と会えないような気がしていたから。

最後に覚えていて欲しいのは、ティリーエの笑顔だったから。



祖父もまた、可愛い孫との別れに、涙を堪えて手を降った。

やっと娘の死を受け入れた矢先の、孫との別れだった。

祖父はティリーエの父にあたる伯爵のことも前伯爵の息子として見知っており、気弱だが優しい少年だと思っていた。

きっとティリーエは、幸せになる。

そう自分に言い聞かせ、元気で、と、馬車が見えなくなるまで手を振り続けた。







ティリーエは、伯爵邸に着くなり、裏庭の端の小屋を充てがわれた。

家族と思しき父、義母、義姉に挨拶は愚か面通りも許されなかった。



???



訳がわからないティリーエが少ない荷解きを終えた頃、執事のセブルスがやってきた。

相変わらず、冷えた瞳で睨むようにこちらを一瞥する。

彼の説明で、自分の置かれた状況と、これから始まる生活をやっと理解することができた。




ティリーエの母は、その容姿で既婚者且つ雇用主である伯爵を籠絡した売女である。

その汚れた血を引くティリーエは、存在だけで伯爵夫人、つまり義母を傷つける罪人だ。

罪人は罪を償わなければならない。

伯爵夫人は慈愛深き御方だから、命をとることはなさらない。

これよりティリーエは、伯爵家の使用人として、無給金、無期で労働すること。

これはかなりの温情であり、伯爵夫人には毎日感謝の祈りを捧げること。

食事は1日1回。その日命じられた仕事が完遂できた時のみ。

働かざる者食うべからず。穀潰しに出す食事は無い。

早速昼から仕事を命じる。

12時の鐘が鳴ったら、台所勝手口へ来るように、と。



それだけ言い捨てると、臭いと言わんばかりに扉を閉め、立ち去った。




そうして始まった使用人生活は思った以上に厳しく、辛いものだった。


掃除、洗濯、食事の支度などおよそ1日では終わらない仕事量を命じられるのだ。

しかも、父、義母や義姉と顔を合わせてはいけないらしい。

執事から、汚い不義の子は陽元を歩き、人目に触れることは叶わないと言われていた。

だから裏方の仕事に徹している。

よって、彼らの部屋に近づいてはいけない。

曰く、罪人の顔は見たくないのだそうだ。

使用人は他にも何人かいるが、主に義母や義妹の世話や支度、自分の仕事で精一杯であり、ティリーエを助けるものなどいない。

ただ、時々ヒステリックに叫ぶ女性の声が聞こえるから、彼女達付きの使用人も大変そうだ…と思っていた。



過酷な労働に反して食事は少ない。

1日1回、硬くて小さなパンに、野菜の皮や茎のスープだけだったが抜かれることもあり、ティリーエは日増しに痩せていった。




とうとう耐えられなくて動けなくなった夜、ふと母の飴のことを思い出した。

ほどいていなかった荷の中の新品の瓶をやっとの思いで開け、震える指でひと粒つまむ。

口に含むと、胸が温かくなって懐かしい甘みが広がった。

甘いものを口にしたのは、本当に久しぶりだった。

トクトクと穏やかな鼓動と共に、涙が溢れ出した。



なんとなく、母の声が聞こえた気がした。



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