セリオンの決心②
セリオンが咳払いをして、真剣な眼差しでティリーエを見つめる。
「君と出逢ってから… 本当に、本当に色んなことがあった。君にとって大変なこと、私にとって自分が情けなくなることや難しい場面がたくさんあった。
君を苦しめたものの多くは自滅し、2度と君を傷つけられないようになったと思う。それでも受けた心の傷が癒えたわけではないだろうし、これからも辛いことがあるかもしれない。
それを、できるなら一緒に乗り越えていきたいと思う。
これからも、私と一緒にいてくれないか。
――結婚してほしい」
「・・・!」
ティリーエは驚いて口を押さえた。
「私みたいな平民が…しかも祝福されて生まれたとは言えない者が、ヴェッセル侯爵家のお嫁さんになっても宜しいのでしょうか…」
「ティリーエの出自に関して言えば、ティリーエがこの世に生を受けたことに感謝しかない。母君も祖父殿も、ティリーエを慈しんでいたことは間違いない。
それに、私の両親にはすでに了解をとっている。元より万一反対されても関係はなかったが、2人共歓迎していたから心配はいらない。特に母は善は急げという感じだったから大丈夫だ」
「アイシャさんは… 伯爵家の方々は…」
「アイシャはそもそも婚約者ではないが、そちらも大丈夫だ。きちんとイーデン伯爵家に出向き、正式に断りを入れきた」
「そうなのですね…」
セリオンが本気で動いていたことを知り、ティリーエは胸が熱くなった。
セリオンのことを好きだと自覚してからも、その想いを伝えることなど考えもしなかった。
自分には不相応なことだと、はなから諦めていたからだ。
本当に、このお話を受けても良いのだろうか…
俯き、黙り込んでしまったティリーエを見て、セリオンは優しく言葉を重ねた。
「ティリーエが、もし、これまでのことを恩義に感じていたり、私に気を遣ってこの申し出を受けようと考えているなら、その必要はない。
恩義に感じているのはむしろ私の方だ。
だから、ティリーエには幸せになって欲しいと心から思っている。想う人と愛のある結婚をして欲しい。
決して義理や責任感で私の申し出を飲まないで欲しいのだ。
断られたとしても、これからずっとティリーエは私にとっての恩人で、愛する人で、大切な友人だ」
「セリオン様!」
ティリーエは慌てて声をあげた。
「わ、私も、セリオン様のことをお慕い申し上げております。こんな、私が侯爵家の名に連なっても宜しいのか分からないのですが、私自身はこれからもセリオン様のお傍にいさせて頂きたいと思っております」
「ティリーエ、それは… 」
「本当に、セリオン様以外におられません。セリオン様に支えて頂いたように、私もセリオン様をお支えしたいのです。他の方がセリオン様の隣で仲睦まじくいらっしゃるだけで心がざわめきます。
私をこのような気持ちになさるのは、セリオン様しかおられません」
ティリーエは、セリオンの隣で気安く笑うアイシャの顔を思い出して胸がギュッと締め付けられた。
「ティリーエ」
セリオンが立ち上がり、ティリーエの傍に膝まづいた。ティリーエの手を取り、甲にそっと口づける。
「セっ…セリ」
「ティリーエ、私の女神」
そして熱の籠もった瞳でティリーエを見つめる。
「私と結婚して下さい」
「はい…! どうぞ宜しくお願いします!」
ティリーエも立ち上がり、セリオンの腕の中に包まれる。
セリオンの胸に耳を付ければ、鼓動が響く。
その速さと熱さで何とも言えない安心感と幸福感に包まれたまま顔を上げれば、静かに降りてきた唇がティリーエと重なった。
◇
「おかえりなさいませ、坊ちゃ」
エントランスに着いた馬車の音に出てきたビアードに、セリオンは静かにするよう合図を送る。
セリオンに抱きかかえられているティリーエは、熟睡しているようだ。
「馬車の中で眠ってしまったのだ。今日は泊まらせるから、客間を急ぎ整えてくれ」
何だか凛々しい若当主の様子から、今日のでーとが成功したことが伺える。
ビアードは滲みそうになった涙を急いで引き上げて、ノンナと3メイドの所へ走った。
余程疲れたのか馬車の心地が良かったのか、全然起きないティリーエの傍にいるのは、セリオンでなくルーチェだった。
今日はティリーエが侯爵家へ泊まるらしいと聞いてすっ飛んできたルーチェだったが、久々に会ったティリーエがくうくうと寝ているので遊ぶことができず少ししょげてる。
そうでなくても、昼過ぎまでミニルーチェとなっていたために目的を達せられなかったことに落ち込んでいたのだ。
ティリーエに癒やされたかった。
帰ってから妙にご機嫌なセリオンに呼ばれて執務室へ行くビアードの浮かれた背中やノンナの目尻の雫、ニヤニヤした3メイドの様子から、ルーチェだって何となく分かる。
(セリオンの奴、ティリーエにコクハクしたんだ)
あの同僚の… ヤンとか言う男も、ティリーエにコクハクしたと聞いた。コクハクって大好きだと伝えて将来を約束することらしい。
ヤンは友達だからと、将来の約束はしなかったティリーエだ。ヤンは泣いていた。
セリオンは、泣いていない。むしろ上機嫌だ。
(ティリーエは、セリオンと、将来の約束をしたんだ)
ルーチェはティリーエの桜色の頬を見ながら寂しさに沈む。
(僕がもっと早く会っていたら。僕がもっと大人だったなら)
ポス、とベッドに顔を埋める。
(だけど)
小さなルーチェでなければ、山へ抱えて飛ぶ話にはならなかったし、ティリーエに会えなかったのだ。
ティリーエに会えずにあの国で搾取し続けられるくらいなら、今のほうが格段に幸せだ。
ティリーエと結婚はできないが一緒に過ごすことはできる。
「ルーチェ…?」
揺れたベッドでルーチェに気づいたティリーエが目を開けた。
「ティリーエ、久しぶり。よく寝てたね」
「何だか今日は色々あって… うぅん…まだ眠いわ。
ルーチェも、もう寝るの?
一緒に眠る?」
ルーチェが侯爵家に来たばかりの時は、不安定なルーチェの傍で、ティリーエは毎日添い寝をしてくれていた。
「いいの?」
ティリーエがナーウィス伯爵家に引っ越してしまってから、随分そうしていなかった。
今更何となく、気恥ずかしさもある。
「勿論よ、いらっしゃい」
ティリーエが掛け布団を持ち上げて誘う。
ティリーエは、3メイドが寝間着に着替えさせてくれている。ルーチェもパジャマだった。
いそいそとベッドに上がり、ティリーエの横に滑り込む。やわらかく、温かい。
「ルーチェ、良い子ね、大好きよ」
ティリーエがルーチェのおでこを撫でてキスを落とす。
ルーチェはくすぐったい気持ちと嬉しさでティリーエにぎゅっと抱きついた。ティリーエの甘い匂いに満たされる。
ティリーエはその背中をとんとんと撫でてあやす。
さっきまでルーチェが感じていた寂しさは跡形もなく消え去った。
(ティリーエがセリオンのお嫁さんになるのは悔しいけど、結婚したらもうティリーエはナーウィス伯爵家に帰らない。ずっとここで一緒に暮らせる)
そう思えば、それも悪くないように思えた。
(よし、ずっと邪魔をすれば良いんだ)
ルーチェはしばらく悪巧みを考えていたが、背中に繰り出される魅惑のとんとんの威力に負け、あっという間に意識は吸い込まれていった。




