新しい力
あと数日で侯爵様が帰宅されるという日に、ティリーエは庭師の息子トミーとかけっこをしていた。
ティリーエは運悪く木の根につまずいて盛大に転び、石で切った膝から血が出てしまった。
トミーは心配で顔面蒼白になっていたが、ティリーエはたいしたことないし痛くないからと笑って部屋に戻った。
まだ走るのは早かったか、と反省しつつ、傷の手当をする。
ガーゼで止血をしてみるが、丁度血管を切ったのかなかなか血が止まらない。
これは困ったぞ、と思いながら、ふと考えた。
全ての身体組織は細胞からできている。
皮膚も血管も神経も。
であれば、細胞を増やしたり操作すれば、怪我は治るのではないか?と。
ティリーエの不思議な力は、命そのもの以外の複製と操作が可能だが、よく見知った、目の前にあるものにしか使えない。
植物や肉類の複製はできるのだし、それらは全て細胞からできているのだ。
細胞の増幅は多分可能だろう。
まぁ、失敗しても自分の身体だし、良いや。
ティリーエは、家にある解剖の医学書を思い出した。
小さな頃は絵本代わりに読んでいた。
人間の身体については、ほとんど頭に入っている。
「このあたりは確か… 膝蓋動脈網の部分ね…」
怪我をした膝を見ながら動脈や静脈の走行を思い出す。
そして、傷ついた細胞を修復、増幅し、正常な配列につなぎ直していくように胸に念じる。
目を閉じて集中し、人体組成をイメージしながら皮膚や血管の細胞操作も行ってみると…
「傷が、閉じているわ…!」
先程まではどくどくと溢れていた血が止まり、ぱっくり割れていた皮膚が綺麗に繋がっている。
怪我をする前と何ら変わらない膝がそこにあった。
ティリーエは不思議な力の新しい使い方に驚き、胸が高鳴るのを感じていた。
◇
「無事に戻った。 彼女の様子は?」
1ヶ月の魔物討伐遠征から帰宅してすぐ、セリオンは執事に尋ねた。
「いたって元気にされていますよ。もうすぐ挨拶に来られると思います。
栄養や運動の不足を補ってだいぶ状態が良くなられたので、何と言いますかその…
驚かれると思います」
「うむ? 分かった」
彼女からは驚かされてばかりだから、逆にもう何があっても驚かないぞと思いつつ、そう返事をした。
コンコン
ノックの音がして、ノンナ(メイド長)に連れられたティリーエが…
ティリーエが???
そこに現れたのは、控えめに言って女神寄りの天使だった。
黄ばんだ白髪と思っていた髪は艷やかな蜂蜜色に、
紙のようだった青白い肌は、陶磁のようなたまご肌に、
色を失った頬は上気して林檎のように赤く、唇はさくらんぼのように瑞々しい。
長い睫毛が灰色の目を縁取って影を落とし、うるんだ瞳を縁取っている。
きらきらした瞳で、真っ直ぐこちらを見つめている。
すらりと伸びた手足はまだまだ華奢だがそれが儚げで庇護欲を唆る、とにかく絶世の美少女がそこにいた。
神殿の壁画の女神は、彼女の模写じゃないか?と思ったほどだ。(←母娘ともに、昔からよく言われる)
「侯爵様、本当にありがとうございました。
お陰様でこの通り、大変元気になりました。
この御恩はいかにしても返しきれません」
深々とお辞儀をする。
何がどうなったら老婆が天使になるのだ。
それにしても揺れる水色のワンピースが何とも愛らしい。
誰が選んだのだろう… 最高だ。
「い… いや、何だ。
その… まぁ気にするな。
それにしても本当に見違えたな、驚いた。
さながら、貝殻の裏側のような輝きだ。美しい。
とにかく元気になって良かった」
ビアードの予言通りにまんまと驚愕し、謎表現でしどろもどろになる若い当主を、ビアードとノンナは生暖かい目で眺めている。
セリオンは令嬢を嫌って寄り付かないので、若い女性に接した経験がほとんど無い。
気の利いた褒め言葉も声掛けもまともに表出できないのだ。
ティリーエはその時初めて、セリオンの左手がブランと垂れ下がったまま動かないことに気がついた。
病気か怪我か、薬師志望者としてその原因に興味があったが、そんなことを尋ねられる訳もなく、触れないままにした。
その日は夜も遅かったので、ティリーエはそのまま部屋に戻って休んだが、ビアードとセリオンは執務室で話をしていた。
そこでセリオンは、ティリーエがナーウィス伯爵の婚外子、つまり実子であること、またそのことを理由に本妻とその娘から不当に虐げられていることを知った。
メイドなどではない、本来なら伯爵令嬢ではないか!
セリオンは報告書をグシャリと握り潰した。
以前伯爵家に勤めていて一斉解雇をされた使用人から集めた情報だった。
ろくな食事も睡眠時間も、安らげる部屋すら与えられずにずっと働かされているらしい。しかも無給、無休でだ。
だから最初の日、パン粥すらまともに胃に入らなかったのかと思えば無性に腹が立った。
神メイドとなった理由や秘密は、誰も知らなかった。
かなり無理な仕事量を命じられていたそうだから、必要に迫られてついたスキルだろうとのことだった。
非情すぎる。
とにかくこれで、伯爵家がティリーエを戻すに値しない家であることは明白となった。
セリオンは、とにかく、彼女が健康で自由にいられるよう力を尽くそうと思った。




