ヴェッセル侯爵家②
終わらなくても良い、なんて言われたのは、ティリーエは初めてだった。
愚図だノロマだと罵られ、決められた仕事が終わらなければ食事を抜かれる。
鞭打ちなどの身体的外傷こそ与えられなかったが、11歳から15歳までろくな食事を貰えていない身体はスカスカでボロボロだった。
この侯爵様は心の優しい人なんだろう。
ティリーエは、ジェシカへ持ち帰る情報に、"優しい"を付け加えた。
「侯爵様、ひとつお伺いしても宜しいでしょうか」
おずおずと、か細い声でティリーエが尋ねた。
「んむ? どうぞ、構わない」
「このお部屋は、どなたが使われるご予定なのですか? 年齢や性別のイメージがあった方が、調度品を作りやすいので、差し支えなければ…」
少し踏み込みすぎたかも、とティリーエは叱責を覚悟したが、実際、老齢の女性用なのと、幼い子息用では全く意味合いが異なるし、知っておくべきだと思ったのだ。
「あぁえぇとその… 」
侯爵様が言い淀んでいると、
「坊ちゃまの、婚約者さまのものです」
メイド長が答えた。
なるほど。
侯爵様の婚約者を迎えるためのお部屋だったのか。
それでは、若い女性向きのお部屋にすべきだ。
「左様でしたか。承知しました。
その方は、ピンク系の華やかなお色を好まれますか?
それとも、水色やグレーといった落ち着いたお色を好まれますか?」
ティリーエが再び質問をすると、
「そ、そうだな… 白を基調に、グリーンをアクセントにして貰えたら良い気がする」
侯爵が答えた。
もちろん架空の婚約者の適当設定だ。
緑はティリーエも好きだ。
「かしこまりました。それではまた、完成しましたらお声掛けさせて頂きます」
条件通り、侯爵様とメイド長は部屋から出ていき扉を閉めた。
ティリーエはいつも通り扉が開かないよう鍵の細工をし、作業を始める。
今日は久々に人とまともに話したし、温もりに触れて、優しい言葉までかけて貰った。
やはり嬉しく、少しだけ元気が出ていた。
心をこめて胸に念じる。
綺麗な生成りの布がふわりと浮き上がり、淡い黄色と緑、水色の糸を纏った針が踊りだす。
緑の糸はそのまま使わず、黄色と青の配合を変えて糸を撚り合わせ、オリジナルの色の糸を作り出した。
刺繍は、母と一緒によく刺していたから、図柄のイメージはたくさん浮かんだ。
中でも雰囲気が柔らかく、美しい柄を思い浮かべて針を走らせた。
下書きも何も必要無い。
ただティリーエの望むまま、頭に浮かぶイメージ通りに刺繍は進み、違う生地を合わせたパッチワークキルトも作りつつ、カーテンレースやドレープの複雑な縫製も同時に進めて行く。
レースはもともと用意されていたアンティークレースだけでなく、かぎ編みでレースも織り上げた。
ティリーエは針と糸と鋏と布と… オーケストラを指揮するように両手を動かして心を込めて操り、初めて、楽しんで仕事をすることができた。
今回は2刻程で出来上がった。
ティリーエ自身も驚く速さだ。
無機質だった広い部屋に、可愛く美しいコットンのリネンやファブリックが丁度良く配置され、とても住み心地の良さそうな部屋になった。
この部屋の住民になる人は、さぞかし幸せな方なのだろうと思いを馳せる。
今日の出来に満足し、部屋の鍵の細工を解く。
そしてまた、疲れたティリーエは、壁にもたれて眠り込んでしまった。
◇
ティリーエに本日の仕事内容を伝えて別れた後、執務室に入ったセリオンに、メイド長がお茶を持っていく。
御礼を言ってお茶に口をつけたセリオンが、メイド長に尋ねた。
「いくらなんでも、細すぎやしないか。
しかもあんなに高齢なのに、丸一日の掃除や裁縫仕事など、酷すぎる。
今にも倒れそうだったではないか。どう思う?」
メイド長はセリオンを少し残念そうな目で見つめてから、言った。
「坊ちゃま… あのメイドは高齢ではありませんよ。
確かに痩せて不健康そうではありますが、声は若い女性のものです」
「えっ!? あの老婆が、若い女性??」
ブーッとお茶を吹き出した。
予想外の事態にまたしても驚愕する。
あのメイドには毎回驚愕させられている。
いつも冷静沈着な氷の魔術師が、聞いて呆れる百面相ぶりだ。
「だとしたら、なぜあんな…」
「あのままでは、早晩倒れるでしょうね」
「‥‥‥」
何か事情があるのだろう。
使用人とて、人権はある。と、侯爵は考えている。
不当な扱いを受けているなら、助けてやりたい。
そうして、例の離れの部屋の前にやってきた。
分かれてから2〜3時間経ったくらいだろうか。
普通なら、選んだ生地に刺繍の図柄を転写している時分だろう。
作業中の姿を見てはならないらしいが、今は有事だ、と考えてノックをする。
返事は無い。
名前を呼びかけようにも、そういえば名前を聞いていないことを思い出した。
もう1度ノックをした。
やはり返事が無い。
まさかもう倒れているのでは!?
心配になり、ドアノブを回すと、カチャリと開いた。




