最終考察 『テンプレ』小説を書くのは本当に簡単なのか?
最終回である今回は本作品のタイトルでもある原点のテーマに、今一度踏み込むとしよう。
――『テンプレ』小説を書くのは本当に簡単なのか?
その1では「書き始めるのは簡単だが、書き続けて完結させるのが難しい」のをひとまずの結論としていた。
これまでの考察を通して考えても、その事実はおそらく変わりないものだろう。
だが、ここにひとつだけ付け加えるべき事柄が出てきたのだ。
それは……「印象に残る作品にするのが難しい」だ。
学校の国語のテストでもあったような「この文章を読んであなたはどう思ったのか答えなさい」という質問は、その作品の存在意義を問うものと言ってもいい。
人気がどうとか、書籍化されて売れるという意識だって大切だろうが、書いた作品が読者に認められる大前提は「印象に残る」ことだ。
「面白かったです」が至上の感想だとは思うが、別に「バカじゃないの」でも「下らない」でもいいと思うのだ。それだけ読者の印象に残ったと言えるし、娯楽作品としては一種の正解でもあるのだから。
最後まで読み終わりました、でも特に何も思いませんでした――おそらくこれが、読者から来る感想としては一番避けたいものだ(というより、この心境なら感想自体が書けないだろう)。
『テンプレ』を意識した作品というのは、内容はどうあれ方向性はほぼ一方向に限定される。
ずばり、主人公が活躍するお話だ。
いやいや小説なんだからそれは当たり前だろうに……と皆さま思われるだろう。
では、ここにひとつ質問を重ねよう。
――主人公が活躍するお話。じゃあ、それ以外は何があるの?
かわいいヒロインだとか重厚な世界観とか、作者視点で考えれば色々出てくるかとは思う。だが最終的には「異世界で」「主人公が」「活躍する」話として集約されることになってしまうのが大半だ。
『チート』で作品ごとに様々な能力だったり武器だったり、多種多様な設定が出てきたとしても、それはあくまで主人公が活躍するための『手段』でしかない。
つまるところ、手に持っている武器が違うだけでやっていることは同じ、ということだ。
ダメなわけではない。
ただ、他の作品と見所が同じなだけだ。
印象という心理は、人の精神に強く焼き付いて離れないさまのことを指す。
富士山の山頂から見た絶景、好きな歌手が出した新曲の歌詞、街中のショーウィンドウで見かけたオシャレな服。
印象とは、基本的にその人が感じたことが無いものに対してほど強く残るようになっている。
「すごく綺麗な景色だな」「この歌詞のフレーズ、すごくセンスがあるね」「あの服、かっこいい」というように、心の中に何かしらの動きを与えることができれば、人はそれを印象として記憶する。これは別に「あの服、ダサいでしょ」というように、マイナスの方向へ行っても付与される心理だ。
なお、この印象が極端にプラスの方向に傾けば「なんて綺麗なんだ、素晴らしい!」というように『感動』へと発展する。
小説を読んで、作品内のどんな部分にどんな印象を覚えるかは読者次第だ。
だが、少なくとも「一度見たもの」「同じようなもの」には人は印象を残さない。
仮に、ほぼ同じ内容の「主人公とヒロインの感動する恋愛ドラマ」を10本連続で見たとしても、感動するのは最初に見た作品のみとなる。二作品目以降は、「あ、これさっき見たドラマと似てるなー」という心境になり、ほとんど印象、および記憶に残ることはないだろう。
では、『テンプレ』作品において人はどこに印象を残すのか?
少なくとも、世界観やストーリーラインに対して印象が刻まれることは稀だろう。
ゲーム的な西洋ファンタジーの世界観、主人公の活躍のみに特化しているストーリーという点は、『テンプレ』においてはほぼ固定だ。つまりこの2点は他と同じなのだから、そりゃあ特別印象に残ることもない。
そうなると、残されるのはキャラくらいなのだ。
外見で印象を残すのは書籍化されてからの話になるから除外するとして、小説内でキャラの印象を残すとすれば、『言動』『行動』『思想』の3つだろうか。
だが、キャラの印象というのが、その実一番難度が高い。
よーく考えてほしいのだが、『テンプレ』の主人公とは普通の日本人だ。『共感性』特化のため、普通の行動、言動、考え方をするから主人公に選ばれたのだ。
そんな普通の主人公が、多くの作者によって使用されてきた西洋ファンタジーのゲーム的異世界で活躍していく。……もう、印象という釣り針をひっかけられる箇所がないのである。
どれだけ面白い作品になろうとも、印象を残せる点が無ければいずれは人々の記憶から忘れられてしまう。毎日たくさんの新しい小説が出てくる『なろう』であれば、印象で作品に対する記憶を引っかけておかないと、たちまち新作の中に埋もれてしまう宿命だ。
人と同じ内容の小説を書いたとしても読者の印象に残ることはない、というのは特に理屈を並べなくともお分かりいただけるかと思う。
だから印象を残すには、突飛な展開や一風変わった設定を入れなければならない――と、言うわけでもない。
『テンプレ』でも印象に残るような作品にすることは充分可能だ。
この印象と言うのは、別に際立った個性がないといけないわけではない。
これは色んな作品の感想欄で、読者がどういった部分を評価しているのかを見直せばよく見えてくるだろう。
ここで面白いのが、『なろう』の日間ランキングと年間ランキング作品の感想では、評価部分がまるっきり違うことだ。
日間ランキング作品でよく見られる感想は「個性的な能力」「特定の場面に対するキャラの行動や言動」といった、いわば『点』の評価が多い。
年間ランキングでかつ書籍化されている作品の感想を見ていると、日間と同じような評価『点』も確かにあるが、より目に付くのは「ストーリーの流れ」「キャラごとの精神性」「作風(言葉の表現や台詞の言い回しなど)」といった、作内の一ヵ所の『点』ではなくもっと大きな視点でとらえた総合的な『面』の評価だ。
『点』の特徴とは、ひと目見たらすぐに分かる内容なので、短時間で強い印象を残すことができる。弱点としては、その『点』を見慣れてしまうと印象が継続しないことだ。
あまりいい例えではないかもしれないが、流行語大賞に選ばれるような芸人のギャグなどはこの『点』の評価になるだろう。
だから瞬間的に多くの読者の印象を惹き付けることが可能ではあるが、持続性に欠けるということだ。
逆に『面』の特徴としては、ある程度しっかりと読み込まないと見えてこない評価となる。1話2話読んだ程度で出てくることは稀で、長編を読み進めていって初めて気付く評価と言える。そのため序盤を少し読んだだけで止まってしまうと、この魅力は分かってもらえないということだ。
その反面、一度印象に残れば持続性は抜群にいい。
『面』の評価にまで至ると、読者は「作品のこういう所が面白い」ではなく「作品そのものが面白い」という意識になってもらえるのだ。言うなれば作品のファンになった瞬間である。
だから連載を続ける限りはずっと追い続けたくなるわけだ。
『点』の印象に特化した作品は言うまでもなく『テンプレ』だろうが、『面』の印象に特化した作品は(あくまで『なろう』内においてだが)読者数は少ないがポイントの平均が常に高く、かつブックマーク数が減らない作品と言えるだろう。
どっちがいいという話ではなく、『点』と『面』の評価は両立できてこその真価と言えよう。言ってできれば苦労しないという事実は置いといてだ。
よりざっくりと定義するのであれば、『点』とは第一印象であり、『面』とは物語全体の総合評価といったところ。読み始めるには『点』の印象がないとページを進められないが、読み続けるには『面』の印象がないとページを進める手が止まってしまうということだ。
『点』の評価に関しては、作者の発想力やセンスが問われる部分が大きいので、あまり私が解説できる部分でもない。むしろ教えを乞いたいくらいなのだ。
だが、『面』であれば解説できる。
やり方は色々あるだろうが、間違いなくひとつの正解だと胸を張って言えるのは、気持ちを込めることだ。
キャラも、世界観も、物語も。
悩んで悩んで試行錯誤を繰り返して作り上げたものには、自然と作者の強い気持ちが込められるものだ。
こういった書き方は即ち『作り込み』に繋がり、これはありとあらゆる創作において、100%プラスの印象を持ってくれる評価だ。発想やセンスが無くたって、この評価だけは頑張ればどんな人だって得ることができる。
本考察を通した上での総括は以下の通りだ。
『テンプレ』を書くのは確かに簡単だ。
だが、完結させるのは難しく。
頑張らなければすぐに忘れられてしまう。
世界観やストーリーなどを最初から用意してくれている『テンプレ』を用いれば、基本的にすべてを一から構築する必要がある他のジャンルに比べて、書き始めるのは極めて容易い。
だが、一から用意されているものをそのまま使うというのは、創作という観点では手抜きとも言えるのだろう。
頑張って悩まずとも、書こうと思えば書ける――書けてしまうのが『テンプレ』唯一にして最大の問題だ。
これは初めて小説を書いてみる人にとっては確かに利点なのだろうが、書き続けたい人にとっては足枷にしかならない。
創作というのは『自己表現』の場だ。
何を書きたいのか、何を伝えたいのか――どんなジャンルであれ、そこには作者自身の考え方というのが色濃く表れる。
そこで、書いているものが他人とまるきり同じだったりすると、執筆する人間としては凄まじいまでの苦痛となる。
より簡潔に表現すると、「○○って作品と中身がかぶってます」とか「パクりじゃないか」と言われなくとも自覚してしまっているようなもので、これで執筆意欲が継続するなんてことはまずあり得ない。
前回の『守破離』の話は、作者自身にもそのまま適用される。
『守』とは既に定まったひとつの正解――ここで言うなら『テンプレ』の形式に従って書き続けること。
それを間違いだと言うつもりはない。『守』の中でしっかりと小説の書き方を学ぶのはもちろん大切なことだ。
ただそこに留まり続けると、みんなと同じという結末しかもたらさない。その先に新しく見出せるものが何もないのだ。
求められるのは『守』を学び、そこから自分が正しいと信じる書き方――即ち『破』を見出すこと。そこからの試行錯誤の果てに、『離』という新しい目標に辿り着くことができるのだ。
そして人気や書籍化という話は、その先にあるものだ。
焦らず、されど立ち止まることなく考えて、書き続けることを強く奨めたい。
小説において、絶対に誰からも評価されるもの。
それは『作り込み』以外にもうひとつだけある。
――あなたにしか書けないものだ。
誰もが真似したい、でも誰にも真似できない。
作家にとっての最高の賛辞はこれに尽きる。
『テンプレ』そのものに良い悪いがあるわけではない。
だが、『テンプレ』の中だけで留まってしまうのはあまりにもったいない。
あなたにしか書けないものを書くために。
本考察を読んでいただいた方が、『テンプレ』という枠組みのその先へ辿り着くことを願いながら、ここで筆を置かせていただこう。
最後までお読みいただきありがとうございました。
考察と言うには個人的で偏った意見もあったかもしれませんが、何かひとつでも執筆活動の助けになることがあったのであれば幸いです。
一応、今回で最終回とさせていただきますが、何か考察してほしいテーマがあれば感想欄などでお気軽に仰って下さい。番外編として、可能な限り形にしてみたいと思います。




