その24 『テンプレ』における理想の主人公像について【回答編】
皆さま、その13において「『テンプレ』小説に適した主人公の設定」の考察を保留にしていたのを覚えておいでだろうか。
本考察も終盤に差しかかった今こそ、決着を付ける時である。
おさらいをしておこう。
『テンプレ』主人公に求められるスキルとして、いくつかの要素を挙げていた。
「ヒロインからは必ず恋愛対象として見られる」「弱音を吐かない」「他人から悪い印象を受けない(明らかな敵からは除く)」「目上の人相手に緊張しない」「頭の回転が速い」「欲望に忠実」……こんなところ。
典型的な『テンプレ』のストーリーラインから逆算して考えたものだが、よりざっくりと表現するなら、「何でもできて、誰からも認められる」+「欲望に忠実」というところか。
このすべてを満たそうとするなら、もうサバンナのライオンとして百獣の頂点に立つしかない、というのがひとまずの結論だった。
これまでの考察を結集するような形で、今一度この『テンプレ』主人公の定義を見直してみよう。
まず、改めて典型的な『テンプレ』の設定・ストーリーを再確認しておこう。
1. 普通の日本人男性が異世界に転移・転生
2. 他の人にはない独自の能力を身に付ける
これはもう外せまい。
最近は、異世界の現地人を主人公とした最強ものも散見されるが、中身が普通の男子高校生とそう変わらない作品が大半だ。名前が違うだけでやっていることは同じなので割愛する。
3. 出会う人にはすぐに信用される
これも外せない。
ヒロインとも、森で迷っていたら出会おうと盗賊に襲われている所を助けようと、初対面の時点で少なくとも警戒されることはない。
つまり、身元不明で外見も明らかに怪しい男が初対面の人間からさっと受け入れられるという奇跡に、何かしらの裏付けをしなければならないのだ。
4. ギルドの依頼など、定められた目的に対して失敗をしない
基本的に、『テンプレ』において失敗や敗北といった概念は無きに等しい。
常勝無敗を地で行ってこその『主人公最強』だ。
5. 出会う女性からはまず恋愛対象として見られる
もう、これがないと『テンプレ』じゃないだろう。テンプレ式『ハーレム』を成立させるには必要不可欠と言える。
純粋に一からの恋愛模様を描くとなると、それだけで一作品分とまでは言わないが、ラノベ1冊相当の分量を注ぎ込んでも足りるかどうかは怪しいだろう。とても『テンプレ』のハイスピード展開に差し込めるものではない。
6. ベッドインが早い
据え膳食わぬは何とやら。
惚れた女に手を出さないのは男の恥。
一昔前の大和男みたいな文化が、異世界(というか主人公対ヒロイン)には通用する。R15タグかノクターン行きの危険と戦いながらも、この展開もまた極めて多い。
7. 主人公の行いは万人に称賛される
凶悪な魔物退治、現代知識を生かした発明など、主人公の行いは広く世の中に認められる。王族からの信頼を得るのも容易で、最終的には英雄視されるような存在へと駆け上がっていく。
以上、このような設定を持つのが『テンプレ』であり、こういったストーリー展開を違和感なくクリアできるのが本考察で求めるべき主人公の姿だ。
……やっぱ無理じゃね?
どうあがいても「そんな奴はいねぇ」という考えにしか行き着かない!
やはりライオンか、ライオンになるしかないのか……そう諦めようとしていた時だ。
何か、考察の前提が間違っているような気がしたのだ。
そもそも……読者は『テンプレ』の主人公に対して、魅力を求めているのか?
「こいつカッコいいな」とか「俺達にできないことをやってのける、アイツの生き様に痺れる憧れるぅ!」といった、いわば作内で人気投票をやったとして1位を取れるような際立った個性を持つ主人公が、果たして『テンプレ』では求められているのだろうか?
何を以て『魅力』と言うのか、という話にもなるのだが……『テンプレ』のお話とは、基本的に主人公にとっては楽しいことばかりだ。
群がる敵を簡単に薙ぎ払い、ヒロインを片っ端から落としていき、多くの人から認められる――『幸福』の詰め合わせのようなお話が今日の『テンプレ』なわけで、読者が「俺も主人公と同じ経験をしたい!」と思わせられるような物語が人気となっている。
『テンプレ』主人公の特徴、求められるもの。
読者が感情移入しやすいように、なるべく普通の感性を持っていて、何か際立った個性を持ち合わせないフラットなキャラクター。
『のっぺらぼう』とも言えるし、読み手次第でいかようにも印象が変わる中庸な人間。
つまり主人公には特別な個性など求められておらず、異世界での素晴らしい経験をモニタリングするための装置としての役割の方が強い気がしてきた。
そうなると、本考察における結論は割ととんでもないものとなる。
要するに、主人公は……誰でもいいのだ。
正確に言うと、主人公が誰でもいいように設定や物語をあつらえたのが『テンプレ』だ。強い精神性や際立った個性を持っていないと進めることができない物語ではなく、どんな人が主人公になっても最大の『幸福』を得られるように予め調整された物語だ。
だから、読者が『テンプレ』主人公に対して向ける評価とは「コイツすごいな!」や「俺には真似できない、カッコいいな」といったものではなく、「俺と代われ!」や「なんて羨ましいんだ」という羨望こそが相応しい。
『異世界』の考察で、私は相当な皮肉を込めて「何でも思い通りになる夢の国で主人公が遊び呆けるお話を書きたいんだね?」なんて口走ったわけだが……『テンプレ』としては、むしろ正解だったということだ。
小説内におけるキャラクターの魅力というのは、かなりざっくりと定義すると『個人特性』と『共感性』に二分化されるかと思われる(現実では『外見』や『距離感』といった概念も入るが、ここでは省略する)。
『個人特性』があるキャラというのは、これまでの考察から引用すると、主に『アイデンティティ』を強烈に示している人のことを指す。
例えば、小さい頃からずっとひとつのスポーツに打ち込んできて、オリンピックで優勝するに至った人。
例えば、周りから馬鹿だ愚かだと蔑まれながらも、自分を信じて研究を続けた結果、世紀の発明家と謳われた天才科学者。
自分がやりたいこと、やるべきこと、それを隠すことなく示し続けている人の生き方とは、見る人に感動を与えてくれるものだ。
『共感性』は読んで字のごとくだ。
例えば、あなたがとても辛い目に合っていたとして、「その辛い気持ち、俺にもすごく分かるよ」と言って親身になってくれる人には、心理的に好感を抱きやすい。
雑な例えだが、主人公が目玉焼きにソースをかけていて「あーこの主人公ソース派か! 分かるわー俺もそうだからなー」という気持ちになれば、それは『親近感』という魅力になっているということだ。
この『個人特性』と『共感性』は基本的に反発し合うもので、両方を並行して高めることは極めて難しい。どちらかというと天秤のように、片方に比重を置くともう片方が軽くなるものだ。
『個人特性』から生じる魅力とは「自分もあんな人のようになりたい」という憧れの心理が強く、自分にはないものを眩しく思う気持ちである。「あの人輝いているよ!」とか「目に見えないオーラを感じるぜ……」といった感想が出るような魅力なのだ。
つまり、同じものを感じるという『共感性』とは正反対の魅力ということになる。
要するに、『テンプレ』の主人公には『個人特性』など求められていない。
むしろ、もう一方の『共感性』に完全特化させることで成立するキャラクターなのだ。
だから、『テンプレ』主人公に「こいつはスゴイ奴だ!」なんて感想を求めるような方向性はそもそも噛み合わないのだ。
さて、こうなると今回の考察の進め方が少々変わってくる。
冒頭に挙げた『テンプレ』主人公に求められる要素――「ヒロインからは必ず恋愛対象として見られる」「弱音を吐かない」「他人から悪い印象を受けない(明らかな敵からは除く)」「目上の人相手に緊張しない」「頭の回転が速い」「欲望に忠実」といったものは、ほぼすべてが『個人特性』となる。
だが『テンプレ』主人公は、その対極である『共感性』に特化したキャラ。普通の日本人男性がいきなり上記のようなことができたとしても、明らかにおかしいのだ。
この矛盾をどうクリアするのかというと……『共感性』に特化したままで、『個人特性』を付与できる展開を作り出すことだ。
一番作り易いであろう『テンプレ』主人公、その製造過程はこうだ。
1. 作者にとって最も『普通』と考える人間を作り出す。
2. そのまま異世界へ。
3A. 『チート』付与によって、上記のような要素を満たせるスキルを後付けする。
3B. 『チート』付与しなくとも、上記のような要素を満たせる環境を用意する。
以上だ。
もうこれまでの細々した心理考察どこ行ったという話である。
実は1番こそが最重要項目で、ここでいう『普通』の定義によって『共感性』を見出してくれる読者の層が決定される。
仮に、16.7歳の男子高校生を主人公とするのならば、彼と同じ環境にある男子高校生、または彼と同じ感性を持っている人が、『共感性』を見出してくれるターゲット層となり得る。
『テンプレ』が嫌いと言う方は、即ちこういった主人公と環境か感性のいずれか(または両方)が大きくずれているため、『共感性』を引き出せないということになる。
おそらく一番手っ取り早いのは、作者自身と環境か感性を同調させた主人公だろう。作者自身が主人公に共感できた方が圧倒的に書きやすい(書きやすいだけで最適とは言わないが)。
2番はスルーして3番だが、これは2通り存在する。
3Aについては、『チート』によって各種『個人特性』を後付けする方法。
スキルでも魔法でも何でもいいが、『普通』の主人公の状態を維持したまま、『チート』を使って『個人特性』を獲得した状態にする。
ヒロインに惚れられるのは『チート』のおかげ。
万人から認められるのは『チート』のおかげ。
王様を前にして緊張しないのは『チート』のおかげ。
つまり、『普通』のままでは絶対にどうにもならない展開を『チート』の力で解決する、というやり方だ。身も蓋もない手法だが、こうでもしないと『普通』の人間が『テンプレ』的な展開を進んでいける理由に整合性が付けられない(特にヒロイン関係)。
3Bは、主人公に対して『個人特性』を与えるのではなく、物語そのものを主人公が『個人特性』を発揮できるようお膳立てするという手法だ。
例えば歴史オタクの学生が主人公なら、戦国時代にタイムスリップして好きな武将の戦死を回避する、とか。
一般的に『普通』と評価されるものを、『個人特性』として評価されるような環境に転換するやり方だ。内政ものにおいてよく使われる手法でもある。
ヒロインないし王様の部分においても、主人公に対してはそれが成り立つように、世界観なり文化なりキャラ設定なりを調整する。
貴重な知識を持つ主人公は国にとって宝であり、王に等しいレベルで敬われるべきだ。
また、性的な魅力も知識に依存しており、主人公は男としてこの上なく魅力的である。
こんな感じだろうか。
上手く調整さえすれば、この世の『テンプレ』小説は、老若男女どんな人間が主人公になったとしても成立する流れが組み立てられる。
よって、かっちりと『テンプレ』向き主人公を定義する理由そのものが失われてしまったわけだが……あえて定義するなら「作品を読んでほしい読者層と同じ環境・感性を持った人間」ということになる。
こうやって書くと……なんか普通だ。
「何を分かりきったこと言ってんの?」なんてお叱りの声が飛んできそうな結末になってしまった。
だが、この「同じ環境・感性」というのが、なかなかどうして難しい。
例えば、普通の男子学生がクラスまるごと勇者召喚されて「ん、この国なにやら怪しいぞ? 危ないから抜け出して1人で行動しよう」なんて展開がよく見られる。
衣食住を保証され、報酬や栄光が目の前に提示されている環境下において、主人公は「なんか怪しいから」と言って、誰にも頼れず、何があるかも分からず、一切の行くアテもない状態で外の世界に行こうとしているわけだ(設定にもよるだろうが)。
野生の勘が発達しているのか○ッグボスばりに未開のジャングルでもたくましく生きて戦える歴戦の軍人なのか以前に同じように異世界召喚されてこっぴどい目にあったのかは知らないが、こんな設定は間違いなく『個人特性』に該当する。
これが『チート』の力を得たおかげなのであれば、この判断は誰でもできるからいいのだが、主人公が自力でこの判断に辿り着いた場合――まず普通じゃない。『共感性』を求められているはずの主人公に、何を○ネークばりの『個人特性』を最初から持たせてるんだと。
「うん、俺でも間違いなくそうする」と読者さんが共感されるなら、私は今日の男子高校生が恐ろしくてたまらない。
こういった『個人特性』を、後付けでなく最初から主人公に持たせる場合――最近の『テンプレ』なら「魔王を倒した元勇者」とか「最強の賢者」なんかが該当するわけだが、こういった主人公には、読者からの『共感性』を持たせること自体が困難なのだ。
単純な話、我々普通の日本人が勇者や賢者の気持ちに共感できるわけないだろう。
このような『個人特性』に特化した人間を主人公に挿げる場合、読者は読み方そのものが異なっている。
『共感性』に特化させた『テンプレ』主人公の場合、目指すべきは「主人公=読者」と言えるほどの目線であり、物語には読者が「まるで自分自身が主人公となっているような」臨場感が求められている。
遊園地にあるような体験アトラクションの感覚が最も近いかと思う。あるいは「しゃべらない」「顔が無い」「名前が決まっていない」主人公を動かすような、テーブルトークRPGやソーシャルゲームなどもこちらに該当する。
そりゃあ主人公に人気も何も出るわけがないのだ。だって、読者自身なのだから。
だから、作中で主人公に楽しいことがあれば、読者はそのまま幸福を感じることができるわけだし、逆に辛いことや苦しいことがあれば、読者にもそのまま心的ストレスとしてフィードバックされやすくなるのだ。
逆に『個人特性』に特化した主人公の場合、「主人公=読者」目線に持っていくのは『共感性』に乏しい以上まず不可能だ。
この場合は、主人公と意識を一体化させるのではなく、主人公から少し離れて俯瞰して見る――つまりはドラマや映画を見るような意識になっているのだ(第三者目線である)。
こうなってくると、主人公がどちらのタイプになっている(または、なっていく)かに応じて、求められるストーリーラインも考え直す必要性が出てくる。
ハーレムや俺tueeeといった展開は、「自分のことのように」楽しめるからこその『幸福』と言える。
この展開を『個人特性』特化の主人公に持ってくる場合、いくら臨場感があろうとも、読者にとってはすべて他人事となる。いくら主人公がハーレムや俺tueeeをしたところで、共感できない以上は「なんだアイツ、調子乗りやがって」というように、主人公を外から見た意見が出てきてしまうのだ。
だからといってそういう展開がダメなのではなく、主人公の『個人特性』が非常に魅力的に移る作品であれば、ハーレムや俺tueeeに対しても「いいぞ、もっとやれ」なんて感想になる。
究極は「アイツには絶対に勝って幸せになってほしい」と言ってくれるような、応援したくなる気持ちだろう。
こういった場合、『共感性』を求めてはならないわけではないのだが、さじ加減を誤ると失敗しやすい。
主人公になりきるのか離れて見るのか、読者側からも判断が付きづらくなってしまい、作品の読み方を間違えてしまう危険性があるのだ。
例えば、人格は明らかに普通の現代男性なのに「魔王を倒した元勇者」とか「最強の賢者」といった設定がある場合にしばしば起きうる現象だ。
主人公の考え方や行動には同じ日本人的な『共感性』を見出せたので、読者は主人公と意識を一体化させようとする。だが読者は勇者や賢者ではないわけだから「こいつは俺なのか、それとも勇者なのか?」という意識の矛盾が生じてしまい、頭の中で共感することを拒否してしまう。
勇者や賢者という強すぎる『個人特性』が邪魔をして、主人公との意識の一体化ができないのだ。
ならば最初から映画のように離れた視点で見ればいいわけだが……そうなると、おそらく私が普段『テンプレ』に対して思っているのと同じ意見に行き着くかと思う。「読者が共感できない赤の他人が、ただ無邪気に異世界を満喫しているだけ」となってしまい、いったい誰が得するのか分かったもんじゃない小説になるからだ。
例えるなら……勇者になるチケットを引き当てた見知らぬ日本人が、異世界でウハウハする光景をすぐ近くで見せられるようなものだ。自分で体験するから楽しいのが『テンプレ』異世界なはずなのに、それを他人が体験しているのを横から見ていていったい何が面白いのか。というか罰ゲームだろうコレ。
書きながら思ったのだが、私が『テンプレ』なり『チート』を嫌う傾向にあるのは、単純に主人公と意識を一体化できるほどの『共感性』を見出せておらず、常に映画スタイルで物語を読んでいるからなのだろう。
逆説的に考えれば、「アラサーで人間心理にうるさいサラリーマン」を主人公にした『テンプレ』小説があれば、ハマってしまう可能性が極めて高いということだ(『共感性』がピンポイントすぎてまず人気は出ないだろうが)。
総括すると、まず作者は書き始める前に、主人公と意識を一体化させるレベルの『共感性』を求める作品にするのか、応援したくなるほどの『個人特性』を持った主人公による作品にするのか――ここから考えないといけない。
前者の場合は、とにかくターゲット層となる読者が主人公に入り込みやすいように、なるべく読者と同じ人間を作り出す。
その上で、世界観や物語は、読者が主人公となって進み出す体験型アトラクションをイメージして考えればいい。そして、いかに主人公=読者をワクワクさせるかを追求して物語を作っていく。
『ヘイト』によるストレス展開が嫌われるのも納得だ。読者自身もダメージを食らってしまうわけだから、主人公との一体化を解きたくなる(読まなくなる)のも無理からぬことだろう。
後者の場合は真逆だ。基本的に読者とは違う人間を作り出せばいい。
その上で、こちらは主人公=読者ではないので、基本的に主人公を楽しませる努力はあまり必要ない。
世界観や物語においても特に制約は存在しないが、あえて言うなら「主人公が最も輝ける」ストーリーラインが差しあたっての正解ではないだろうか。
主人公の行動を近くで見守りながら、「頑張れ!」「もっとやれ!」と応援したくなるような流れにする方が、きっとキャラの『個人特性』による魅力は際立ってくれる。
あるいは、最初に『共感性』の比重を大きめに設定しておき、ストーリー進行とともに『個人特性』に比重を傾けていくスタイルも推奨したい。
例えば、普通の男子高校生が異世界に召喚されて、様々な経験を通して勇者に相応しい男となる――つまりが『成長』の物語である。
王道に見えながら、最近の小説、というか最近のメディアでは滅多に見られなくなった手法でもあり、名作や大作にも多く見られる。身近なところだと、“無職転生”や“ソードアート・オンライン”あたりが該当するだろう。
主人公はあくまでニートやネットゲーマーといった、比較的『共感性』を見出しやすい普通の日本人としての登場だったため、冒頭では読者は主人公との意識の一体化を前提にした読み進めが可能だった。
だが、2巻、3巻と続くにつれ多くの事件や困難を乗り越えて、どんどんと主人公の『個人特性』が強まっていく。こうなると読者は主人公との共感も難しくなるので、遅かれ早かれ意識の一体化は解除されてしまうことになるが……今度は他人となった主人公を応援したくなるように、読者の意識がカチッと切り替わることになる。なにせ、さっきまで自分だった主人公だ、そりゃあ他人のような気がしないわけだから応援だってしたくなる。
こうなるともう作品から離れられない。まさしくハマるわけだ。
そしてこういった物語には、『成長』を促すためしっかりと『ヘイト』が設置されている。
この設置タイミングが、ちょうど読者の読み方が切り替わるタイミングに合致していれば、読者はあくまで『ヘイト』を他人事として認識できるのでストレスになることは少ない。作者は意識していたのか無意識だったのかは不明だが、物語に入り込みやすく、かつ途中で逃がさない工夫がなされていたわけだ。
その分難易度は高いかと思われるが、おそらくは『テンプレ』小説において、大きく長く人気を出していくには最適な手法だろう。
余談だが、この逆で『個人特性』が強い主人公を徐々に『共感性』が得られるよう方向に傾けていく手法もある。
「異世界の魔王が日本の田舎に来て、村人とほのぼの生活」といった展開がそうである。
以前の考察でも挙げていた“はたらく魔王さま!”なんかはまさしくコレだ。
こちらのタイプは完全に『テンプレ』からはまるきりかけ離れるので、詳しい解説はまたの機会としておこう。




