その22 『ヘイト』の必要性とそこから繋がる小説への影響(読者視点)
今回は、これまでの考察にも出てきた『ヘイト』についてもうちょっと掘り下げてみよう。
『ヘイト』とは、物語上において主人公(ないし読者)にストレスを与える要素の総称なわけだが、なんだって『テンプレ』小説ではこの要素をとことんまでに嫌うのか。
というか、そもそも『ヘイト』無しにどうやって物語を書くの? と割と本気で思うのだがいかがだろうか。
『なろう』で連載されている作者さんであれば、おそらく既にひとつの回答が出ているかと思う。
「読者が嫌がるから」だ。
主人公への感情移入を前提とした小説において、主人公が辛い思いをすることイコール読者にもその心的ストレスが付与されてしまう。より俗っぽい言い方をするのであれば、鬱展開というやつだ。
まぁ確かに、仲間が死んだりヒロインに嫌われたり敵に負けたりするような展開を好き好んで見たいという人はおそらく少数派だろう。
バッドエンドよりはハッピーエンドの方がいいだろうし、泣き顔よりは笑顔がいい。
人間誰しも幸福を求めるものなんだから、その心理は当然のものだ。
ただ……幸福や喜びという感情は、どのようにすれば獲得できるのかをよーく考えてみてほしい。
『ライバル』の回でもちらっと記述したのだが――『嬉しい』と『楽しい』を履き違えてはいないだろうか?
先に言っておくが、今回の考察は『テンプレ』全否定である。
むしろ本作品の意義が分からなくなるくらいにメッタメタにする。
これもまた、『テンプレ』作者に向けてのひとつの『ヘイト』というわけだ。
なお、今回は2部構成だ。
『ヘイト』という概念を、今回は読者目線、次回は作者目線で考察していく。
人間心理というのは不思議なもので、どんなに億万長者になろうが、どんなに最強の力を手に入れようが、最初は大絶叫して喜びをあげるような幸福を手にしたとしても、次第に慣れるものだ。
『テンプレ』を最後まで書き続けることが難しいのはその1で挙げた通りだが、読み続けるのが難しいのは、この『慣れ』にこそある。
『幸福』というものを美味しい料理でイメージすればいい。
冒頭でいきなり『チート』を貰うということは、最初にいきなり大好物の料理を出されるということ。
短編であれば別にいいのだ。『チート』という料理を味わって、堪能しきるころにちょうど物語は終了するので、清々しい読後感という満腹の状態で満たされる(これはこれで難しいバランスなのだが)。
これが長編だと、最初から大好物を出されて延々と同じ料理のおかわりが運ばれてくるわけだ。
最初は「わーい、食べ放題だー!!」と大喜びで食べ続けられるだろうが、次第に美味しい料理にも舌が慣れていき……次第には飽きる。というかその前に満腹になるだろう。
この例えにおける『ヘイト』とは、いわば空腹にあたる。
つまり、たくさんの『ヘイト』を物語上に配置し、最後にひとつだけ『幸福』という大好物を置くという展開であれば、「腹が減って腹が減ってもう耐えられないという状態で食べる料理」となるのだ。そりゃあ格別に美味しいに決まっている。
そして空腹という名の『ヘイト』とは、次に運ばれてきた食べ物に手を伸ばす力であり、つまり続きを読みたくなる意識となる。アニメや週刊マンガのラストで「○○のピンチ、果たしてどうなる? 次回を待て!」と言われて、続きをそわそわして待つのがまさしくこの心理である。
『テンプレ』が長続きしない読者心理は結構単純なもので、「えー、また同じ料理? ずっと同じものばっかり運ばれて来ても飽きたし、もう食べたくないー」という『慣れ』→『飽き』という動きになるまでが、とにかく早いのだ。
だから続きがあったとしても、すぐに別の料理――つまり別の作品に切り替えてしまうこととなる。
この『ヘイト』と『幸福』のバランスは、小説家たるもの誰もが苦心する要素である。
コース料理を運ぶにあたって、どの料理を、どのタイミングで運べばいいのか悩むことに近い。
これに関しては絶対的な正解などないし、それこそ読者の好みの話である。人によって異なるものだ。
ひとまず、ここでは『ヘイト』の必要性をおぼろげでもご理解いただければ充分だ。
余談として、ヘイト(hate)の対義語はラブ(love)だそうだが、考察がややこしくなるのでここでは『幸福』で通すこととする。
前回で述べた通り、テンプレ的『ハーレム』が好まれる理由を語るには、読者がこの『ヘイト』をとことん嫌う理由を考察せねばならない。
雑な例えかもしれないが、『ヘイト』を嫌う読者傾向とは「お腹がすかせてガマンなんてヤダ! 食べたい時に食べたい物を食べたいよー!」という心理と言っていいかと思う。
これだけ見ると、なんて我がまま……と見えるのだが、現代の小説界はそれを満たせる環境にある。
せっかくだ。私の本業である携帯電話業界の視点も加えて分析をしてみよう。
本来、本屋でお金を出して買わないと楽しめない小説を、無料でいつでもどこでも気軽に小説を楽しめる環境が世の中になったのは、間違いなく携帯電話――特にスマートフォンの普及によるところが大きい。
無論、パソコンの普及がそもそものきっかけではあるのだろうが、携帯電話は持ち運び可能なうえ、一家に1台ではなく1人1台であったことが、web小説の普及に拍車をかけたのだ。
一応、根拠もある。
番外編1で取り上げた『テンプレ』台頭についての話から繋げるが、2007~8年から『テンプレ』作品が多く登場しはじめ、そこから4.5年ほどの期間で『なろう』ランキングを塗り替えていった(データがないので証明できないのが辛いところだが)。
このタイミングというのが、ちょうど携帯電話からスマートフォンに移り変わりだした期間と一致しているのだ。より細かく言うのであれば、一気に普及が爆発したのは2012~13年、携帯電話のネット回線が4Gの高速通信に格上げされ、リンゴの会社製のスマートフォン(5の時期だ)が日本の主要携帯会社3つともに実装された辺りからなのだが……これ以上は完全に別の話になるのでよそう。
何はともあれ、これで誰もが携帯で手軽に小説を読める時代となったわけだ。
それだけスマホ普及は小説――というよりも、世界中のあらゆるメディアにとっての強烈な変遷になったのである。
これをきっかけとし、人々の小説に対する捉え方というのが一気に転換された。
大きく分けて3つある。
ひとつめ。
「無料で読める」という認識が世間的に当たり前になったこと。
これはもう説明不要だろう。
紙だろうと電子書籍だろうと、「小説はお金を出さねば読めない」という常識をまるっと逆転させてきたわけだ。
ふたつめ。
誰でもすぐに小説を世に出せるようになったこと。
『なろう』自体は2004年から個人運営サイトとして存在していたそうだが、2008年よりグループ化され拡大された。スマホの普及も手伝い、この時期から手軽に「小説を書いてwebで投稿してみよう」という習慣が広く伝わっていった(PCではなく携帯・スマホ投稿が可能となったのも大きい)。
私含め、まだ世に出ていないアマチュア作家の作品というものが激増し、同時にそれらが多くの人の目に留まるようになったわけだ。
みっつめ。
いつでも、どこでも読める(書ける)ようになったこと。
本考察においてはこれが一番重要だ。
一冊の書籍を手に取り読む、という行動そのものが移り変わったのである。
例えば電車での移動中といった、ちょっとした待ち時間などでも読める環境になったのだ(歩きスマホはダメ、絶対!)。
この読書に対する生活習慣の移り方がすさまじく、これまで「本を持って、落ち着いた環境でじっくり読む」ものだったのが「本を持たず、どんな環境だろうと少しの時間さえあれば読める」ものになった。
……随分と前フリが長くなってしまったが、『テンプレ』が『ヘイト』を嫌う一番の理由はここにあると思われるのだ。
紙媒体が当たり前だったころの小説とは、いわば映画に近い環境で楽しむ方向性が強かったとされる。
ライトノベル1冊を読み切るには、内容にもよるが約1~3時間ほどを有するかと思う(1時間はちと速読かもしれないが)。
その間は、基本的に読者は『集中』をしている。その作品の世界観にどっぷり浸りこんで、時間が許す限り読み進めることをやめない。で、最後まで読み終わった瞬間にぷつんと『集中』を切って現実に戻る。
そして「あぁ、いいお話だったな」という読後感に浸りながら、ぱたんと本を閉じて棚に戻して読了、となるわけだ。
本をゆっくり読むために喫茶店に入る人だって多いだろうし、家で寝転がりながら読む人もいるだろうが、基本的に他のことは気にせずに本の内容のみに意識を集約させる方が大多数のはずだ。
一応、拙作“AL:Clear”などはこれに近い方向性になっている。
さらっと読むだけですぐ理解できるような作りにはなっておらず(大半は私の表現力不足だろうが)、腰を据えて読んでもらわないと、おそらくまともに頭に入らないレベルの文字数でもある。
対して、『テンプレ』含む多くのweb小説に関しては、基本的に『集中』を求めない。
『集中』をしようにも、わずかな時間にさっと読むという環境下では、なかなか作品の中にどっぷり浸り入ることも難しいのだ。
感覚としては新聞を読む状況に近いだろうか。
読むというよりは「目を通し、内容を理解する」というアクションとなり得る。
こういう前提の場合、作品に求められるのはとにかく「早く読めてすぐ理解できる」ことだろう。
例えば、電車の移動中のほんの5分くらいの間に1話分だけでも読みたい、という場合なら、難解な言葉を続けたり説明文がずらずらと続いていたり、読むことにも理解にもある程度の時間を要する作品は不向きとなる。
一言で述べるなら、ライトノベルという文字通り『軽さ』が要求される方向性になってきたのだ。
実感されている方も多いだろうが、ランキング上位の『テンプレ』作品は、その大半は早く読める。
単純に文字数の差もあるだろうが、異世界転移→旅立ち→ヒロインとの出会い→最初のボス敵撃破、までの1章~2章相当のストーリーでも、読了までに1時間もかかるまい(私は割と速読なので、一般的にはもう少し長いのだろうか)。
こういった意味では、『テンプレ』とは時代のニーズに則った作品でもあるのだろう。
加えて、『ヘイト』が嫌われる理由というのもここから繋がる。
学校や会社に向かう途中で「仲間が死んだ」なんて展開を読んで、落ち込んでしまった気分で1日をスタートするのは酷だろう。
短い読書時間であろうと、読後感はある。
最終更新が仲間の死で終わっていて、そこから立ち直るまでにどれだけの期間がかかるか分かったものではないから、読者は『ヘイト』を――というより、いつになったら『ヘイト』を拭い去れるのか、という保証がない不安により読み続けるのを止めてしまう(作者がエタればどうにもならないわけだし)。
短い時間に、手軽な『幸福』を。
どこぞの飲食店のキャッチフレーズみたいだが、web小説に対するニーズとは、即ちこういった方向性が強まっているということだ。
『ハーレム』が流行した理由もおそらくこれで、物語上で幸福が約束されている展開が見えていなければ、読者は手軽に読めるという心理にはなりづらいということになる。
だから『テンプレ』で出会うヒロインとの関係は、「主人公とくっつくのかどうか」という不確定要素ではなく、「いつ主人公とくっつくのか」という確定事項として読者から認識されている。
言い方は悪いが、こういった心理により、『ヘイト』が少なく後腐れの無いお手軽なハーレム展開が好まれるようになったのだろう。
確かに『テンプレ』は、こういった需要を満たすことができる最適なツールとして成立しているのだろう。だが、これは読者にとっては便利だが、作者にとってはあまり望ましくない展開へと移行していくこととなる。
短時間にすぐ読み終えられる作品というのは、食べ物の話で例えるとファーストフードのそれに等しい。
要するに、『テンプレ』は良くも悪くも『軽い』のだ。
より直截に言うのであれば、「いくらでも代わりがある」という認識が読者に根付いてしまっている。
現在は『テンプレ』作品がエタって消えていっても、また新しい『テンプレ』作品が軒を連ねていく環境だ。少しでも読者に『飽き』が来ようものなら、一片の容赦なく途中で読み捨てられる。
仮にランキング上位にあたる『テンプレ』作品がいきなり更新停止したとしても、残念に思う人は多いだろうが、同時にすぐに忘れられてしまうことも多い。
『テンプレ』という定義通り、同じような内容の小説がずらりと並んでいるのだから、単純に一作品に対してあまり印象が残らないのだ。他のジャンルがそうならないというわけではないが、これは単純に同じ作品群の比率の問題である。
また、無料で読める範囲で常に新しい作品が供給される環境でもあるため、『テンプレ』に対して『特別感』が出ないというのもある。
つまり、web上で何十万冊もある『テンプレ』の中から、あえてお金を出してまで読みたい物はあるのか? という疑問が出てくるのだ。
薄々感づかれている方もいるだろうが、『テンプレ』は『なろう』における無料の範囲内では人気があるが、それが書籍でも継続されるのは極めて稀なのだ。
同じ作品が無料でも読めるから、ではない。
同じような作品が無料でも読めるから、だ。
アマチュア作とはいえ、無料で読める小説がいくらでもある今日だ。
その環境からあえて作品にお金を出す価値を見出すには、お金を出さないと読めないという意識付けができないとまず成立しない。
これは、『テンプレ』ではない商業作品ですら難しいハードルだ。
『なろう』発の書籍化作品の場合、web時代からの固定ファンが多ければ「いつも読んでいる作品に絵が付いたんだ、楽しみ!」という考えのもと、ある程度の売り上げも望めるだろう。私だってブックマークしている方の作品が出ればきっと買う。
だが、これは蒐集欲――要するにコレクター精神を刺激されたがゆえの判断であって、新規購買層を取り込むきっかけにはなり得ない。流石にこれだけで売り上げを伸ばすには力不足だろう。
番外編2で私が愚痴まじりに述べていた『タイトル』の件は、読者視点ではそれほど冗談で終わらない話だ。
タイトルは『異世界○○~』、表紙は黒髪短髪の普通の男子高校生(そしてほぼ黒コート)がヒロインを侍らせた絵、書籍背面のあらすじを見れば「異世界に召喚された普通の男子高校生がチートを使って気ままにハーレムを作って旅をする~」という似たような文字列の作品がずらっと並んでいたら、購買層の感想などたったひとつだろう。
――で、これって他の作品といったい何が違うの?
『なろう』内における人気であればそれでもよかったのかもしれないが、書籍化されて世に出たら、読者からこの感想が出た時点で、おそらく埋もれる。
読者が出版された書籍をまんべんなく買ってくれるわけでもなし、人気が出る、というのは他の作品に比べて頭ひとつ抜けた何かがないといけない。それが何なのかについて考察するつもりはないが(私が知りたいくらいだ)、他と同じような――それも似たものの数が多い――作品にお金を出そうという心理にはそうそうならない。
加えて、書籍化の時点で小説には絵が付くわけだから、読者はweb時代のように文字だけで作品内容をイメージする必要性がほぼなくなる。
前回の『異世界』考察のあと、『テンプレ』異世界の利点として「世界観がイメージしやすい」というご感想が多く挙げられていたが、実は書籍化されるとこれが一瞬でデメリットと化す。
理由としては単純で、絵が同じになるから。
西洋ファンタジーの街並み、出てくるモンスター。
主人公は普通の日本の学生で、ヒロインはエルフにケモ耳奴隷にお姫様。
どれもちょっと名前が違うだけで中身はそう変わらないものばかりなのに、絵師さんに「他とは違う個性的な絵をお願いします!」というのは結構な無茶振りだ。
設定自体を他の作品と同じようにしているのだから、そりゃあ絵だって同じになる。そんな制約を乗り越えて、個性的で素晴らしい絵を書いていただけるのが真の絵師さんなのかもしれないが、現実的な話として、そういった方は極めて少数かと思う。
読者にとって、同じ作品を継続して読む場合はまず『飽き』との戦いが要求される。
『飽き』とは、単調で同じようなことばかりが続いている環境下で生じる、一種の思考停止とされている。
『テンプレ』では「深く考えず頭を真っ白にして読める」なんて感想が良い点として書かれていることが多いが……これが続いていくと、心理的に(というか人間という生物的に)遅かれ早かれ『飽き』が来ますよ、と言われているようなものだ。
『飽き』を無くすには、読者の脳に何かしらの刺激―-これまでとは違った内容、または先が読めない展開――加えていけばいいわけだが、『ヘイト』を排して常に『幸福』で満たし続ける現在の『テンプレ』には不向きかと思われる。
『なろう』のランキングでも目に見えるが、『テンプレ』作品が一番人気が高いのは、一番最初なのだ。そして時間経過とともにじわじわと下降していっている。
書籍として考えればおかしな話で、継続して刊行され続ける作品の方が読者の認知度が高くなるはずなのに、続ければ続けれるほどに、むしろ認知度は低くなっているのだ。
これもまた、先を読みたいと促す『ヘイト』が少ない弊害と言えるのかもしれない。




