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2)里心

アレキサンダーにグレースの隣の席を譲ったローズは、ソファに戻った。お代わりの紅茶に手を付ける気になれなかった。窓の外を見ていると、ロバートの声がした。

「どうされました?」

「シスターも、みんなも、どうしてるかなと、ちょっと思い出しました」

傍らに立つロバートを見上げてローズは微笑んだ。


「そういえば、あなたは一度も帰っていませんね」

グレース孤児院に、援助金に添えて、シスター長あてに書いた手紙を届けてもらったことがある。手紙をうけとったシスター長が、ローズの無事を泣いて喜んでいたと使者は伝えてきた。


王太子宮で暮らすようになって、ローズは、同じ敷地内にある王宮に行く以外は、出かけていない。身分が低い孤児でありながら、国王と王太子の覚えめでたく、一部貴族からは反感を買っている。さらには宰相であるリヴァルー伯爵が孫娘のようだと、躊躇いもなく口にしているためか、反宰相派が何やら動いているという薄気味悪い報告もあると教えられた。


伯爵でありながら宰相までのぼりつめた、レスター・リヴァルー伯爵には敵が多い。本来ならば子供の耳に入れるのも、はばかられるほどの黒い噂についてもローズは知っている。


脛に傷を持つとされるリヴァルー伯爵がローズの味方となることがローズにとって良いことなのか、アレキサンダーもロバートも判断ができないでいるといわれた。仮に伯爵に、伯爵家へのお誘いがあっても、自分の勝手な判断では、外出できないと言うようにと約束もした。


ローズは、王侯貴族の権力争いの恐ろしさを垣間見たと思っている。


 ライティーザ王国の法律では、孤児のローズを殺しても、大した罪にはならない。かといって、ローズに護衛をつけて、王太子宮の警護が手薄になる事態は避けなければならない。結局、危なくてローズは王太子宮から出られない状況が続いていた。


「ちょっと寂しくなりました。でも、大丈夫です。皆さん優しくしてくださるから」

ローズは微笑んだ。


 警護なしでは外に出せないが、警護を付けるには孤児であり、居候でしかないローズの立場は難しい。そのことをローズ自身もわかっていた。ローズは孤児院に帰りたいとは誰にも言わなかった。言えなかった。


 王太子宮は、ローズにとって、居心地がいいだけの場所ではなかった。


「孤児のくせに、いい気になって」

「何様のつもり。下品だわ」

「親が何者なのか知れたものではないわ。きっと口にするのも汚らわしい輩でしょうよ」

「小娘のくせに生意気な。礼儀も知らず、恥知らず」

「身の程知らずな、どうせ親など、碌なものではないわ。人に言えないような、罪人でしょうよ」

「おおかた、人殺しか、強盗の子でしょうに。なんて図々しいのかしら」


 王太子宮で暮らすようになってすぐ、毎日そんな言葉にさらされた。孤児であるのは事実だ。陰口など無視して、やるべきこと、イサカの町で広がる疫病の対応に集中していた。使用人達は、ただの孤児が、侍女見習いのような仕事をしないことが気に入らなかったのだろう。事情を知らない者からみれば、客人としておとずれる貴族たちの茶会に参加し、お菓子をいただいて、書類を眺めているようにしか見えない。王太子妃の子供のころの服を着せられ、かわいがられていることも気に入らないだろう。新入りのくせにと思うのも無理はない。


 ローズも、王太子宮からいずれ出ていくつもりだったから、気にしないようにしていた。


 今、陰口を叩くのは、若い侍女のうち数人と、彼女達に媚びる下男下女だ。

 

 侍女の多くは、ローズと貴族達の会話を聞く機会もあり、その内容を理解できるだけの教養もある。そのうちに、ほとんどの侍女は、ローズに一目置いてくれるようになった。陰口など言うものはいなくなった。


 アレキサンダーの執務の補佐をする近習や小姓も、ローズを大切にしてくれた。全員に好かれることなどできないと、“記憶の私”のおかげでわかってはいる。気にしないようにするしかなかった。


 王太子お抱えの家臣の候補として、王太子宮で養育されると決まった頃から、表立っては陰口を言われなくなった。物陰から、冷たい視線が時々向けられるのは変わらない。意地悪な嘲笑や、ときおり聞こえる悪意ある囁きが、辛かった。


 孤児院が懐かしかった。優しいシスター長に会いたかった。孤児院でもみんなが仲良かったわけではない。喧嘩もあった。陰湿ないじめもなかったわけではない。だが、いずれ表沙汰になり喧嘩になって、シスター達に怒られた。貧しかったが、みんな何とかして生きていこうと一生懸命だった。


 孤児院のことを思い出していると、ロバートがそっと頭を撫でてくれた。

「一度、あなたの元気な姿を見せにいけるといいですね」

ロバートはいつも優しい。王太子の腹心だが、書類仕事の上では影武者のように署名までしてしまう。絶対内緒だと、悪戯っぽく、アレキサンダーとロバートに言われたとき、あまり似ていない二人が双子に見えた。


「でも、いろいろと大変でしょう」

多分、ローズが行きたいといえば、ローズに過保護なロバートは、色々と手はずを整えてくれるだろう。だが、ロバートはアレキサンダーの腹心であり、この王太子宮のほとんどを取り仕切っていると言ってよい。そんな忙しい人の負担を増やすわけにはいかなかった。


「実は、手伝ってくれる当てが、そろそろいらっしゃる予定なのです。先方もそのおつもりで、お申し出もいただいていますから」

ロバートはそういうと、ローズの紅茶を淹れなおしてくれた。


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