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59)リゼとローズ、そしてロバート

 茶会が始まる前、ロバートは、アレキサンダーに孤児院の記録を渡された。グレース孤児院のものだけではない。王都にある孤児院、周辺都市の孤児院の書類があった。


「ここにいるローズと当てはまる孤児は、どこにもいない」

アレキサンダーの言葉に、ロバートは何も答えられなかった。

「ロバート、お前が帰ってくるまで待った。これは、私以外には知る者はいないはずだ」


 アレキサンダーはローズが王太子宮に来てすぐ、グレース孤児院の記録を調べさせていた。ローズなどという名前の少女がいないことは、早々に判明していた。


 条件に当てはまるのは、リゼという別の名の少女だった。王都とその周辺にある孤児院すべてを調べさせたが、十二歳前後のローズという少女など、どこにもいなかった。名前が何であれ、少女が役に立つと判断したアレキサンダーは、その調査結果を誰にも明かさなかった。


 アレキサンダーは、国王アルフレッドにすらそのことを伏せ、ロバートが戻るまで待っていたのだ。


「ローズが誰なのか、不明なままにはできない。お前が戻るまで待った。お前が理由を聞いてこい。ことを荒立てたくない。できれば穏便に済ませたい。国へ害がないなら、私たち二人の胸の内にしまっておけばいい」


 アレキサンダーにロバートは礼を言った。王侯貴族への嘘など、発覚したら大問題になる。いくら疫病の件で貢献したローズでも、どんな処罰が下されるかわかったものではなかった。


 琥珀色の瞳は真っ直ぐにロバートを見つめ返していた。

「グレース孤児院の記録には、ローズという名前の少女はいませんでした。ちょうどあなたがここに来た日、あの孤児院から姿を消したのはリゼです」


ロバートの言葉に、ローズは、あるいはリゼは、動じた様子もなかった。

「名前は、ただの名前よ。名前が変わっても、私は私だもの。リゼはシスターたちがつけてくれた名前なの。十二年間育ててくれた孤児院に迷惑をかけたくなかった。疫病のことをとやかく言う子供の言葉に耳を傾ける大人がこの国にいるか、あの頃わからなかったから、これからローズになろうと思って、言ったの」


「どうして、ずっと、今まで何も言ってくれなかったのですか」

ローズの言うことは奇妙だが、理解はできる。だが、自分にくらいは打ち明けてくれてほしかった。信頼し、妹と兄のように懐いてくれていると思っていた。


「名前って、変わったらいけないの」

予想外のローズの言葉に、ロバートは驚いた。

「私は首が座ったころ、孤児院の前に捨てられていたの。生まれてから首が座るまでの数か月間、育ててくれた誰かがつけてくれたはずの名前があるはずだけど、知らないわ。誰が育ててくれたのかもわからないし。リゼというのはシスターたちがつけてくれて孤児院を出るまで呼ばれていた名前、ローズはここの庭の薔薇をみて、自分でつけた名前。全部私の名前よ」


 困ったように微笑むローズの話す内容に、ロバートは胸が痛んだ。

「孤児院に私が捨てられていて、その次の日に、孤児院の薔薇が咲いたってシスターたちにいつも言われていたわ。だから薔薇の花は好きなの。生まれた日もわからないから、孤児院に植えてあるマグノリアの花が咲く頃が、誕生日って自分で決めたの。十歳になるときよ。聖女アリア様のお花だから素敵でしょう。誕生日を自分で決めたから、名前も自分で決めたかったの。シスターたちがつけてくれた名前も大切だけど、死んでしまったリズに似てる名前だから、哀しくなるから、違う名前になりたかった。誕生日をマグノリアにしたから、名前をローズにしたの。好きな名前になるのは、そんなに駄目なことなの。知らなかったわ。孤児院では名前を変える子が珍しくなかったから」


ローズは微笑んでいた。

「では、今はあなたはローズですか」

「ローズがいいわ」

ロバートの問いに答えるローズには迷いはなかった。


 親がいない、孤児院で育ったというローズのことを、自分がいかにわかっていなかったのか、ロバートは突き付けられていた。名前も、誕生日もわからないから、好きな花にちなんで自分で誕生日や名前を決めたといって、ローズは微笑む。


名前も誕生日も、ロバートにとっては当たり前にあるものだった。それすらローズは持たないのだ。ローズが可哀そうでならなかった。


「あなたは」

 言葉が続かず、ただ、ロバートはローズを抱きしめた。


「私はかわいそうじゃないわ。だって首が座る前の赤ちゃんって本当に大変なの。その大変な時期は育ててくれて、そのあともちゃんと、私が死なないように孤児院の前に捨ててくれたわ。川に捨てても、市場に捨てても、ゴミ捨て場に捨てても、人買いに売ってもよかったのに。赤ちゃんの私を育ててくれた人は私が死なないように、孤児院の前に捨ててくれた。だから、それでいいの」


「ローズ。もういい。いいのです」

 微笑みながら、自身にいいきかせるようにほほ笑むローズの目には、深い悲しみがあり、ロバートは胸を突かれた。


 亡くなった母は優しかった。その母を、亡くなった後も裏切り続けている父は憎い。だが、ローズには思い出す相手も、恨む相手もいないのだ。

「それ以上は、いらない。それ以上は怖いから、要らないわ。知りたくない」


腕の中のローズの小さな、小さな声にロバートは頷いた。

「わかりました。あなたはローズです。それで十分です」

ロバートはローズを抱く腕に力を込めた。


「優しいあなたの両親です。きっと優しい人でしょう。きっと何か事情があったのです」

慰めにもならないことを、ロバートは口にした。知らなければ、いくらでも想像できる。ローズがそれを望むならそれがいい。それでいい。

「ロバート、ありがとう」

ロバートの慰めにもならない慰めにまで礼を言うローズの健気さに、ロバートはそれ以上、何も言えなかった。


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