九月末日、西ノ宮邸にて。
長編後全三回の箸休めの短編シリーズも、いよいよ今回で最後となります。
この十五章が終わってからは、本格的に完結に向けて動き出してまいります。
ってなわけで本文をどうぞ。
※ ※ ※
「それでは、家主ちぃちゃんのだいたい完治を祝いましてぇ、かんぱーい!」
「かんぱーい!」
茹だるような暑さも暦とともに峠を越し、季節は銀杏の葉が色付く秋半ば。かの事件以来二度目の上京となる三葉と、わざわざ休みを入れてやって来た綾乃が、缶チューハイを家に持ち込んで、乾杯の音頭と共にキンキンに冷えた缶を打ち鳴らす。
「いやあ、ちゃんと取れて良かったわよね青あざ。最初視た時ヒヤッとしたもん」
「まあまだ、手の甲には傷残ってるけどね……」
装束を纏い、まほうの力で守られたちはるは、余程のことがない限り負傷で困ることはない。だが、性質を同じくするまほうで打たれた際は別だ。
ストライカーに喰らった目の青あざ、腹部の打撲、そして吹寄幽子が最後に突き刺した3Dプリンタの破片。いずれも治癒でしか快復せず、ちはるは二ヶ月の療養を余儀なくされた。
きょうはその快気祝いである。商工会議所と綾乃に金を借り、三葉に医療費を負担してもらい、ようやくこれまでの暮らしが戻って来た。
「あ・あーっ! 空きっ腹にアルコールわたるしみ……」
こうしてお酒を口にするのも二か月ぐらいぶりだ。治療に専念してほしい、治りが遅くなると注文をつけられ、長く断酒に苦しめられてきた。
「その節は、本ッッッツ当にご迷惑をおかけしましたッ」
「別にもういいよ。治療費肩代わりしてもらったわけだし、これでチャラ」
利用されたのは彼女の姉菜々緒が担当していた小説であり、三葉自身は無関係。治療費を捻出してもらった時点で他に言えることはない。
「ねえねえグリッタちゃん。わたしもそっちのジュース呑みたい。このジンジャーエールと交換しよー」
「駄目っ。それは絶対にノゥ。アルコールがぱぁーっと回って、そのまま起きて来られなくなっちゃうんだから」
酒が入る席だ。未成年のみらは寝かしつけ、外しておきたかったのだが、三葉と綾乃が来ると聞いて大人しく眠っていられる訳がない。『くれないなら自分で出すよ』と脅しを掛けてきたため、以前買い込んだソフトドリンクを明け渡し、むりくり納得させて今に至る。
「でもさ、それっておかしくない? やばいって解ってるのに、グリッタちゃんたちはがぼがぼ呑んじゃうんでしょ?」
「大人にはね、ぱぁーっときてぐでーんと来ないと眠れないときがあるの」
たとえ寝覚めが悪くなろうと、その場しのぎの虚しさであろうとも。アルコールはこの世の憂さを晴らしてくれる。二十歳になって最初に酒を口にしたあの日、西ノ宮ちはるはこれまで抱えていた総てから解放された気がした。
無論、『気がした』だけで本当に解き放たれた訳じゃないのは見ての通り。それでもなお明日を生きる為、どうにもならないモヤモヤをかき消すため、大人はアルコールを口にするのである。
「なんか良く分かんない」大人って不合理な生き物だよね。みらは興味を無くしてそうつぶやき、空になったグラスにジンジャーエールを注ぎ込む。
「なんかさ、高校の頃を思い出すよね」
梅缶チューハイを啜りながら、しみじみと話を切り出したのは綾乃だ。「学校近くのスーパーとか、秋川駅んとこのイベントスペースとかに集まって、こんな風に楽しくやってたっけ」
「せやね。次は何処で歌うか、衣装はどうするかって、予算もなんも考えずに言うとった」
綾乃と三葉は二缶目の封を開け、ぐいと傾け物思いに耽る。
考えて、作って、踊って。高校時代は二十四時間というのが無限にも感じられたものだ。だが学校を離れ、社会に出ればそれはマヤカシなのだと直ぐに解った。自分の都合を沢山の他人に縛られ、したくないことを率先して行い、日々神経をすり減らす。メンタルを快復させて再び労働に繰り出すには、二十四時間はあまりにも短すぎる。
「あぁあ、なんで歳なんて取っちゃったのかねえ」
西ノ宮ちはるは他人事めいてそうつぶやき、禁断の三本目を開栓する。一人酒が飲み会となり、日々腹に溜め込んでいた鬱憤が表層に漏れ出したようだ。
「トシさえ取らなけりゃ、私はずっとグリッタちゃんのままでいられたのにさァ。今じゃなに? 年増? オバサン? こちとらね、生活掛かってるんスよ。趣味でメシ喰ってるって言やァ聞こえはいいけどさあ? 撒きたくもない愛想振り撒いて、年甲斐もなくひらひら踊ってさ。ホントね、いっつも何やってんだって思うわけですよ」
「も、もういいよちはる。一旦やめよ?」
「酔いが回っておかしなっとるんや。ほら水、水……」
聞き手が居て気が大きくなったのか、愚痴が愚痴を呼び寄せ止まらない。九年間の恨み妬み嫉み。語りだしたら止まらない。
「もー。グリッタちゃんってばめんどくさーい」
この猛攻に正面から異を唱えたのはみらだ。注いだジンジャーエールをぐいと飲み干し、くだを巻くちはるに食ってかかる。
「なんだかんだ言っといて、結局あきる野でグリッタちゃんやってるんだから、それ言う資格グリッタちゃんにはなくない?」
「な、なァにおう」
愚痴に正論で返された人間が取る行動は非を認めて謝るか、逆上して食ってかかるかのふたつ。ちはるは後者だ。九歳児の的を射た発言にただでさえ赤い顔を高潮させ、顔を近づけ声を荒げる。
「大した苦労もしたことのないお子様が偉っそうに! そんな簡単に辞められたら悩んでないっつーの!」
「そこまで辛かったら四の五の言わずに辞めるものじゃない? 職にしがみつくより自分のカラダでしょ! 優先順位がおかしいよ」
渦中にいる人間と外野とでは、見える景色や抱く気持ちに隔たりがある。それらは多くの場合水と油で交わらず、話し合いは平行線を辿るばかりだ。
「子どものくせに生意気な! 私みたいな風になったこともないくせに!」
「そりゃそうだよやったことないもん。じゃあわたしにやらせてよ!」
「ほォーっ、だったらやってみせろよ、やってみりゃいいじゃないの!」
売り言葉に買い言葉が重なって。ちはるはここでようやく我に帰る。みらには不可能を可能にするチカラがある。こんな戯れを真に受けて、本当にそうするつもりじゃあるまいな。
「あぁそうですか、じゃあやってやろーじゃないの!」
「ちょっ、みらスト……」
タッチの差でもう遅い。みらは頭頂のティアラに願いを込め、ティアラもまた願いを受諾し七色に輝く。一体何が変わった? 体感では何もない。『なんでも』と言いつつ、流石に既にあるものを弄るまでには至らないのか? 安堵し胸を撫で下ろすちはるの耳に、聞き覚えのある着信音が響く。
「なによこんな時間に……?」仕事の依頼なら責めて夕方までにしてほしいと愚痴りつつ、スマホを入れたポケットを探るが、揺れているのは自分の端末ではない。ではどこに? そう思い、目線を右にスライドした瞬間、彼女は全てを理解する。
「あっ、もしもし会長さーん? 来月のステージのはなしだよね? オッケー、じゃあ全部都合つけといて。またねー」
我が目を疑い、思わず三度見。九歳児のみらが、自分がすべきはずの電話対応をよどみなく行って、そのまま約束を取り付けている。
(うそでしょ)願えば何でも叶うとは言ったがここまでか。酒の席の戯言ですらこれだ。もしもこれが世界規模に波及するものであったなら――。
「みら、ごめん! 私が悪かった、悪かったから戻して! 私まだグリッタちゃんやるからァ!」
「えー。グリッタちゃん、やりたくないし離れたいって言ってたじゃん」
「大丈夫、もう元気になりました。私にはもうグリッタちゃんしかないって解ったから! だからね、お願い!」
自分でも無理のある返答だと思う。しかし、彼女に懇願する以外元に戻す術がないのだ。無理くりでもなんでも収めてもらうしかない。
「別にさ、そういうんなら良いけど」みらは再びティアラに願いを込め、この事象を”なかったこと”にするが。「さっきの約束。多分グリッタちゃん名義で入ったことになってるよ。来月、またステージに立たないと」
「へぇっ?!」
覆水盆に返らず。認識は元に戻ったが、二つ返事で請けてしまった仕事は、『グリッタちゃんのもの』として向こう側に認識されてしまっている。
「じょ、冗談じゃないよ……」
「諦めなさいちはる。クダ巻きまくってたあんたが悪い」
元を正せば原因はちはるにあり、誰を責めても事態は変わらぬ。
「それにさちぃちゃん、何やかんや言うて、ここニヶ月の家賃肩代わりしてくれたん向こうやし、借りたもんを返すってことで」
怪我の治療という名目で、仕事もせず塞ぎ込んでいたこの二ヶ月、決して安くない借家の賃料を払ってくれていたのは商工会議所のお歴々だ。幸いにして未だ何も言って来ないが、これをネタに何かさせようとするのは目に見えている。
「むむむ……。みんなで私を丸めこもうとしている」
酔いは醒め、怒りもだいぶ鎮まってはきたが、そこに至る不公平感は拭えない。難しい顔で歯を軋ませていると、三葉が手を叩き、こんなことを言い出した。
「せやな、確かに不公平や。ほな罪滅ぼしにな、立ってもらおや。みらちゃんにもステージに」
「へ……?」
※ ※ ※
「やー、まさか復帰一発目の仕事がグリッタちゃんだとは思ってなかったよう……」
「ま、そんなに沈むなって。あたしも一緒に出てあげるから」
急な電話で出場が決まって一週間後。暦は九月を超えて十月初週。武蔵五日市近辺の山々は紅く色づき、春と併せた年内二度目の書き入れ時。
時刻は間もなく午後二時。いつものおじさん連中に加え、遠方からの観光客も混ざり、ご当地ヒロイン・グリッタちゃんのステージはいつも以上の賑わいを見せていた。
「みら、大丈夫? もっかいトイレ行っとく?」
「わ。わわわ、わたしを誰だと思ってるの! 緊張……、キンチョーなんて、するわけないじゃん!」
いつもの『ショー』との違いはこれだ。これまで舞台袖で観ているだけだったみらが、きらびやかな衣装を纏って壇上に立つ。本件は元々彼女が中心になる筈だったステージだ。乗り気じゃないちはるを担ぎ出したのだから、一緒に踊るのは道理であろう。
「しっかしま、天才肌よね。一週間でフリ全部マスターするんだもん」
みらの持っていたスマホにはグリッタちゃんの動画しか残っておらず、以降もしばしはステージをナマで観ていたからとはいえ、その吸収速度には元運動部の綾乃も舌を巻いた。
「自信持ちなよ。あんた、現役の頃のちはるより踊れるから」
「げ、現役って何さ。私は十年ずっとグリッタちゃんなんですけど!」
好んでそうなった訳ではないが、現役を退いた覚えはない。複雑な思いで憤慨するちはるを観、周囲の顔は自然と綻ぶ。
「さ、そろそろ出番よ。二人とも準備は?」
「ばっちり」
「こうなったらやってやりますよ」
一方で爛漫な声が。もう一方では不貞腐れた声がして、野外に作られた特設ステージの幕が上がる。綾乃は手早くストレッチを、ちはるは頬を張って気合を入れ、無理矢理に笑顔を作る。
(ステージ、すてーじ、ステージ!)
壇上で歌って踊ること自体初めてのみらは、アップなどには目もくれず、上がる幕と、その先で待つ観衆に思いを馳せていた。ちはると出会って七ヶ月と少し、ずっと袖でしか見たことの無かった景色を、自分も同じ場所で見る事が出来る。それだけで胸が高鳴って止まらない。
「みんなーっ! お待たせー! グリッタちゃんとズヴィズダちゃんの登場でーーす!!」
年甲斐もなく声を張り、野外ステージの隅々にまで行き渡らせる。不貞腐れた態度は既に無く、その顔には長く鍛え上げられた歴然の営業スマイルがぶら下がっていた。
「あれ……?」
後は普段通りに歌って踊り、程々に拍手をもらって速やかに退散――、と思っていたのだが。割れんばかりの拍手は急に疎らとなり、客たちの目は自分や綾乃ではない一点に注がれた。
「みら……ちょっと、みら?」
舞台袖と壇上とでは見える景色も受ける印象もまるで異なる。心のどこかで歳の離れた姉ないし母のしていたことを軽く見ていた部分もあったのだろう。
(舞台って……こんなに怖かった……?)
いつも自分を観てくれる知人ではなく、名も顔も知らぬ多数の観客が奇異の目でこちらを見つめて来る。
(ヒトに見られるのって、こんなに辛かった……?)
ちはるの仕事を甘く見ていた。期待され、歓声を一挙に浴びることがこんなにも息苦しいものだとは。
「あ……ア……」
ステージに立ったのだ。なら歌えよ、踊れってんだよ。アタマでそう命令しても、カラダがそれを拒んで動かない。哀れその身体は極度の緊張に耐えきれず、まるで石化したかのように目を大きく見開いたまま固まった。
「ちょっ……マジで?! 一旦閉幕、へいまーく!」
「みら! しっかりして! 私が見える? この指何本? みら? みらってば!」




