エピローグ それからのふたり(終)
庭の菜の花が咲きはじめたので、昼ごはんは菜の花サンドイッチをつくることにした。
以前つぐみに作ってあげたら、いたくお気に召していたためだ。
スーパーの袋を片手にさげた葉は、踏切を渡った先にあるかもめベーカリーに向かう。今は昼前なので、ちょうど角食パンが焼き上がっているはずだ。
店がちかづくにつれ、ふんわり漂いはじめたバターの香りに目を細めていると、ひらきっぱなしの木製のドアから、腕に大事そうに紙袋を抱えた女の子が出てきた。こちらにきづいて、息をはずませて駆け寄ってくる。
「葉くん。もしかして食パン買いに来た?」
「うん、サンドイッチつくろうかなって思って」
「わたしも、庭の菜の花を見て思い出した」
つぐみはさんぽに出た帰りらしい。春らしい生成りのワンピースに桜色のカーディガンをかけて、肩からポシェットをさげている。葉は姓を変更する際に必要な戸籍謄本を役所でもらって、スーパーに寄ったあとだった。
予定どおりの部分も、予定どおりじゃない部分もあったプロポーズのあと、ふたりで話し合って、契約金だった三千万円はつぐみに返さず、ふたりの共有財産にすることにした。生活のために必要な大きな買いものはこの中から出す。
最初に買ったのは、ダブルサイズのベッドだった。ベッドは値が張るし、葉はお客さま用布団を下ろすか、せめて新たに一組布団を買えばよいと思ったのだけど、つぐみが譲らなかった。くっついて眠りたいらしい。かわいいので、布団はあきらめた。葉は結局どうなっても、つぐみに弱い。
つぐみが青浦礼拝堂におさめた「鳥と海景」は専門家だけでなく、一般層にも評判で、続けて「鳥と海景Ⅱ」「鳥と海景Ⅲ」が発表されると、絶賛の渦が湧きあがった。鳥と海景シリーズは、花と葉シリーズに続くつぐみの代表作になるだろうと、鮫島はうきうきと仕事をしている。ちなみに花と葉シリーズのほうも、健在だ。お役御免にならなかったことにちょっとほっとしつつ、葉は今も乞われればつぐみのモデルをしている。
ハルカゼアートアワードで最優秀賞を獲った羽風はこの春に大学を卒業し、今もっとも注目のアーティストだかなんだか言われて、台湾のアートプロジェクトに参加している。渡航前、みやげに何が欲しいか訊かれたので、台湾茶とパイナップルケーキと答えておいた。そのうち、駄菓子研究部の部室でパイナップルケーキを肴に酒盛りがされる日も来るだろう。
鹿名田家では、ひばりが大学に入学し、鷺子が本格的に隠居を決めた。
来年には二十歳になるひばりは勉強のかたわら、当主である父親について鹿名田家の運営に関わっていくことになるのだという。なんだか大変そうだけど、ひばりはむしろ完璧な令嬢ぶりに磨きをかけていて、ときどき息抜きにつぐみとお茶をしている。夏には婚約者である北條律との結納式も控えているらしい。――という話を葉は律のほうから訊いた。相変わらず、ひばりは葉がだいきらいだ。
つぐみは鹿名田家自体と完全に縁を切ることを決めた。
先日のネット記事の件で、鷺子から釘を刺されたらしい。葉が家庭裁判所に姓の変更を申請する書類を集めていたのはこのためだ。これまで戸籍上は葉が入り婿のかたちを取っていたのだけども、これからはつぐみが本郷姓になる。鹿名田家絡みの相続はすべて放棄する念書を書いたし、鹿名田の家から出ることになるので、もう一族の人間たちもつぐみには何も言ってこないはずだ。
ほんとうにそれでいいのか尋ねた葉に、つぐみはうんとうなずいた。
――ひばちゃんとは、ひばちゃんとしてつきあうから、これでいい。
つぐみが本郷姓を名乗るようになったのを機に、葉もだらだら使い続けていた久瀬姓をやめた。職場のひとにははじめ、わけがわからないという顔をされたけど、家庭でいろいろあって、と適当にごまかしておいた。神妙そうな顔で受け入れられた。ただ、事務局のひとに履歴書にちがう姓を書くのはやめてね、と叱られた。
「あっ、川沿いの桜が咲いてるっぽいから、ちょっと遠回りして帰ろうか」
思いついて尋ねると、「うん、行きたい」とつぐみが笑顔になった。
駅のロータリーではどこからか吹き寄せた白い花びらが舞っている。駅前の花壇はチューリップが並んで咲いて、すっかり春の様相だ。
「このあいだ、如月に聞いたんだけど、結婚式で誓いの言葉を言ったあとにふつうキスするじゃん?」
「うん」
「なんでするんだろうって思ってたんだけど、神さまのまえでキスして誓いを封印するんだって。如月、式のときは額にキスだったから失敗したってへこんでた」
「病めるときも、健やかなるときも、のあの言葉だよね」
「そう、お金があるときも、ないときも」
「そんなあけすけなこと言ってた……?」
怪訝そうなつぐみに、「妻として愛し、敬い、慈しむことを誓いますか?」と如月から教えてもらったばかりの言葉を続ける。
「はい、誓います!」
「今、自分に向かって言ってたの?」
「うん、そう」
駅から商店街を抜けずに、川沿いの桜並木を手をつないで歩く。
クリーニング屋の美雪ちゃんに聞いたとおり、両岸に咲いた桜はちょうどまんかいだった。菜の花が群れ咲く小川には桜の花筏が生まれ、あまり広くはない小道もうすべにに染まっている。わあ、とつぐみが道にかかった花枝を仰いだ。大きくひらいた眸に映った花が、なによりもきれいだった。
「……さっきの、言ってみて」
「え、なに?」
つぐみがもじもじと言うので、葉は首を傾げた。
「だから、さっきの。誓いの言葉」
「あ、妻として愛し――」
「ちがう。夫のほうだよ」
「ええと、はい」
こほんと空咳をすると、姿勢を正して続ける。
「夫として愛し、敬い、慈しむことを誓いますか?」
「――はい」
返ってきた言葉ににこにこが止まらなくなってしまい、葉はつぐみに期待を込めた眼差しを向ける。幸いにも、のどかな桜並木につぐみと葉のほかにひとはいない。手をつなぎ直して、くちづけしようとすると、反対の手を口に押し当てられた。
あれっと葉は瞬きをする。
「む、無理。道端でなんか、できない」
「ええー。今、そういう話じゃなかったの?」
「わたしは誓いの言葉をしたかったの」
「でも、封印が必要ですって話だったのに」
「代わりに、えと、手でするから」
言い張るつぐみはかわいいけれど、焚きつけておいてお預けをされた気分だ。
でも、しかたない。つぐみが言うなら、家に帰ってからにしよう。一度は自分を納得させてから、でも軽く背をかがめて、かすめるようにくちづけてしまった。つぐみが大きく目をみひらいて、「しないって言ったのに」とごにょごにょとつぶやく。
「ふふっ、ごめんなさい。サンドイッチ、つぐちゃんの卵多めにするから」
「そんなうれしそうに言われても」
「ミルクティーも淹れます。デザートのプリン、つぐちゃんに大きいほうあげる」
「……じゃあ、いいけど」
つぐみは頬を染めたまま、手を握り返してきた。
桜並木の道をいつもより時間をかけて歩いて、ふたりの家に戻ってくる。きのう見たとき、ふくらみ始めていた家の山桜の蕾は一輪がほころぶようにひらいていた。
春の陽がやわらかに射したガラスの引き戸につぐみが手を伸ばす。
最近、つぐみは扉に手で触れられるようになった。
手のひらをそっと置いて、ぬくまった引き戸の温度をすこしのあいだ、感じている。葉はとなりでそれを待っている。
つぐみが目を上げたので、わらい返して、つぐみの手のうえに手を重ねた。
そして、めのまえのドアをふたりでひらく。
「ただいまー!」
《Last season》 is END !!
…and , Happy Wedding !!!




